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補遺 やつらの足音がきこえる (十八)

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 聞こえるか聞こえぬかの小さな音だが、無名舘の北にある山の中からだった。
(松蔵……!?)
 松じい―松蔵は、薪を拾いに山に入っている。
 戸口に人影が立った。
「……あんたか。」
 いつぞや新三郎に痛い目に遭った、密偵もどきの研ぎ屋の男である。
「ひさしいな、おりく。」
(こいつらが?)
 西舘が使っている、検校舘に巣くう素人連中である。
(いくら鉄砲を使っても、こいつらなぞに松蔵がやられるはずがないが……?)
 そう思うとやや安堵したが、研ぎ屋は余裕ありげに、にやにや笑いながら近づいてきた。
「なんの用で?」
 りくは、ここでは下女のりくでいい。つっけんどんだが、当惑の混じった声を出す。
「あの松蔵、どうやら死んだぜ。」
 研ぎ屋は無造作に言った。
(なんじゃと? あろうことかよ。)
「死んだ? な、なんのことじゃ?」
 意外なことを言われて、驚いた声を出す。躰が飛び跳ねるようになって、よろめいた。
研ぎ師の男は、そのりくの顔をじっと見つめた。近づいてきて、顔を突き出す。りくはそれを避けた。男がりくのほぼ耳元に口を寄せた。
「新しい旦那衆が、やってくれたよ。伊勢の者だって、三人がかりじゃ敵いやしねえ。」
(伊勢の者、じゃと? こいつ……?)
 りくは衝撃を受けたが、それは顔には出さない。怯えと驚きは、「伊勢の者」などと言う言葉とは無縁の、下女のりくのそれを出す。
「三人? 松じいを、殺した? なんの、なんのことじゃ?」
 研ぎ師はりくの揺れる肩を掴んだ。
「やはり違うらしいな、お前は?」
「な、なんのことじゃと! 離せ! またいやらしい! あんたとはもう、口をきかぬ! あっ、死んだとは、松じいになにがあったんじゃ!?」
研ぎ師は笑った。
「あわれなことじゃ。松じいは、あれ、まともな人間ではなかったぞ。『伊勢の者』というは、化け物どもじゃ。ここの半端者の姫さまに付いておったのじゃな。」
(こやつ、なじょう知っておる?……西舘めが教えよったか?)
「お前、悪さはされなんだか?」
 研ぎ師は、りくの肩を引き付けて、羽交い絞めにした。頭を自分の胸に抑えつける。
「可愛いお前が、あんな化け物のそばで働かされていたと思うと、胸が痛むぞ。」
「はなせ! おはなし!」
(あたしも疑っていたらしいが、また騙されておる。松蔵のいつぞや言うたとおりじゃな。……じゃが、『新しい旦那衆』とは何だ?……ほんとうに、松蔵はやられたのか?)
「お前は、おれの女にしてやる。蝦夷侍の餓鬼のそばになどいたら、手を付けられちまうぞ、お前。」
「余計なお世話だよ!」
 これは本音が迸った。そんなことが起きればどんなによいだろうよ、と悔しい思いすらあるので、怒りがある。
 研ぎ師の手が、胸元に入った。冷たい手が、乳に触れる。指を動かしはじめたので、りくは顔をそむけた。そうしないと、舌なめずりするような口が、顔に近づいてくるのだ。
 目を閉じてしまったが。気配に気づいた。男のほうは、戸口に気が及ばないらしい。
(こやつらか……?)
「あ、旦那方。」
 ようやく気づいた研ぎ師が、戸口に無言で立っている二人の男たちに向き直った。まだ、りくは離さない。
 平凡な顔立ちをした若いのと年嵩のとが二人、黙ってこちらを見ていた。
「上手く仕留めましたか?」
「……。」
 若い方が、気を害した様子を見せた。当たり前だ、と言いたいのだろう。年嵩が、無言で止める。
(……本職じゃな。こいつらが相手では、あたしはかなわないか?)
 りくは肌が粟立った。
(しかし、二人がかりとは言え、松蔵を……?)
「もうお一人の旦那は?」
「やられたよ。相撃ちになった。」
 研ぎ師が息を呑んだ。それに比べて、初老の男の口調は、あまりに平静だ。
(畜生!これは本当にやりやがったな、松蔵を!)
 りくは歯噛みした。
「松じいを殺したか!」
 研ぎ師の手がりくの口を押えた。滅多なことをこいつらには言うな、と言いたいのだろう。
「旦那、こいつは、やはり違うようでさ。おれの知っている女だ。」
(……奥州や、坂東にもあたしらのような者はいよう。そいつらを、西舘は入れやがったな?)
西舘―左衛門尉は、『伊勢の者』を信用する気はないらしい。また、こうした者どもを重用しすぎると、忍びや草が主君より優位に立ちかねない。秘密や情報が一つ所に集まらないように、並行して二つの組織を使うことはありうる。
(松蔵を襲わせたのは、……あたしら『伊勢の者』を潰すつもり……ではないな?)
 りくは、左衛門尉め、と怒りに震える思いだった。
(姫さまとのことを知る者を、除いていきたいのじゃ。……あの夜のことを、きっと知る者が他にいる。どうやら、下男が亡き御所さまのつけた『伊勢の者』とあたりをつけた。それで……!)
「抗っておるようじゃが?」
「急なことで、驚きやがったんでしょう。いまから、落ち着かせます。」
 研ぎ師は、野卑な笑みを浮かべた。
「……好きにするがよい。おれたちは、後始末をしてくる。」
 二人は消えた。
「おりく、もうお前は怖がらなくていいんじゃ。」
 研ぎ師はりくの口を塞いでいた手を、着物の中に戻した。後ろから、胸のふくらみを揉みしだく。
 りくはそれには別に動じていない。頭の中には、別の深刻な懸念がある。
「あんたが、松じいが、伊勢のなんとやらだとか、出鱈目を言ったんだね、あいつらに?」
「出鱈目じゃねえよ。なにやら、怪しい者が一人か、二人、無名舘の姫さまの周りにいるとは、偉い人が言ったんじゃ。二人だとよ!……笑わせる、お前は斯様に可愛いのに!」
「はずがないじゃないか! 松じいは、あんなに腰も悪うて……! 可哀想に!」
 りくの目から涙が溢れた。研ぎ師は、感興をそれで掻き立てられでもしたらしい。所作が手荒になる。着物の上がはがされてしまい、胸乳が剥き出しにされた。
「他にも、戯言で殺されちまうのかい? あ、あたしも?」
 怯えた声を出すと、研ぎ師は後ろから首筋に這わせた唇を離すと、
「懸念するな、お前は、おれが守ってやる。……あやしいのは、一人じゃと俺が言ってやった。……じゃが、上の方が何を思うかは……。姫さまの周りのやつは、知らねえよ。あの婆あだとかよ、あの蝦夷の小僧なんか、怪しまれるんじゃねえか?」
(……まさか、若旦那まで?)
 りくは、左衛門尉はどこまでやるつもりか、恐ろしかった。もはや、すべての人間の口を封じようと思えば、できるのだ。
 りくはそこで、躰を跳ねた。男の指が、侵入してきたからだ。
「おりく、寝ろ! そこに寝ろ!」
 研ぎ師は、後ろから抱き寄せて悪戯する姿勢に、もう我慢できなくなったらしい。鼻息が荒くなった。
「……まだ、昼間だよ!」
 昂奮した男の声に、おりくは心なしか迎合の色を混ぜる。
(もし、松蔵が殺されてしまっていたら、……あたしはここに残らなけりゃならない!)
 であれば、……とりくは計算を巡らせている。
(ここでは、こいつの言いなりに、寝てやったほうがよいのではないか? こやつの女になったふりをすれば、怪しまれずにここにおられる。若旦那や、おふくを守ってやれる。……姫さまも、あの人たちがもし口封じに殺されでもしたら、生きていられねえ!)
 だが、どうにも気が進まなかった。松蔵を殺したのはまさかこの男ではないのだろうが、一味には違いない。そして、半ば脅すようにして肉を貪ろうとするのである。喜ばせてやるのは厭だった。
「ひとが来ることになってるんだ!」
「あの蝦夷侍か?」
 りくは、うんうん、と頷いてみせる。使用人たちだけだ、とは教えてやらない。
 研ぎ師は、一瞬、本能的に怯えた。
(しめた、これでまずは引き下がらせよう。)
 りくが内心で息をついたが、研ぎ師はあの屈辱を晴らす機会が来た、と思ってしまったようだ。
「結構なことじゃ、あいつに見せてやろう!」
 というと、りくを抱えるようにして、板の間に放り出した。
 (この野郎!)
 のしかかられて、りくは怒りに目がくらむようだ。そのまま両腿を抱え込まれるかと思ったが、腰を掴まれ、躰を裏返される。尻を露わにしようと、着物に手がかかる。りくは反射的に抵抗した。
「何するんじゃ? やめろ、……あんた、今度こそ若旦那に殺されるぞ!」
「りく、お前、尻をあげろ!」
「やめぬか。見せるもなにも、お屋敷で不埒とか言われて、あたしも殺されるわ!それは勘弁じゃ!」
「じゃから、早く済ますのよ!……あいつ、刺してやる。いきなりなら、おれが勝つ。そ、その前に……!」
(こやつ、殺す!)
 りくは研ぎ師の言葉に、計算を忘れた。あまりの淫らにも腹が立つが、自分を犯すだけ犯した後、物陰にでも潜んで新三郎を襲うと言うのである。許せなかった。
 目の前に、白い刃があった。研ぎ師が、昂奮に震える手で握った短刀だ。
「早くせい! まくれ、裾、まくれ! 尻をあげろ!」
(万が一とは思うが、念の為じゃ。もしこいつも化け物の一味なら、こちらの命が危ないからな。)
「こわい! 手荒はやめておくれ!」
 りくは泣き声を出した。腰が抜けたようになった姿勢で、刃を見つめて泣きながら、腰帯に手をかけようとすると、
「動くな! 動かなければいい、おれがやってやる。」
 片手で裾をまくられ、小さな尻を露わにされた。
 その瞬間、りくの歯が、目の前の白刃を掴んだ男の手を噛んだ。手の肉を喰いちぎりるようにすると、激痛にあっとのけぞった男の下腹部を白く伸びた足が蹴った。男は吹っ飛ぶようになって、あおむけに倒れた。その胸に片膝でのしかかると、男が取り落とした短刀で右肩を床に縫い付けた。悲鳴の形に開いた口に、近くで掴んでいた雑巾を丸めてねじこんだ。厭だったが、自分の帯で手早く手足を縛ってしまう。その上で、顔と言わず頭と言わず、思う存分殴りつけ、蹴り飛ばした。
(床が汚れちまった!)
 半ば気を喪った男を土間に転がすと、りくは舌打ちした。
 そのあたりにあった縄で改めて縛り直し、帯をとって、半裸の姿をいくらか直す。
 帯を巻き終わったときには、全身から水を浴びた気持ちになっている。
 あの男たちが、二人、戸口に立っていた。

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