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補遺 やつらの足音がきこえる (十六)

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(姫さまは、お強くなられようとされておる。)
 りくは、ひそかに感心する思いだ。
 ここに来たときに垣間見たさ栄姫さまは、生きているのか死んでいるのかもわからないひとだった。毎日の御膳を用意してやったが、それに少しは手が付けられているのが、不思議な気すらした。今から考えれば、頭の中には、何の希望も喜びもなく、昏い思いだけがあったのだろう。
 だから、わざわざに浪岡に戻ってきた。自分の一生を狂わせた左衛門尉が与えてくれるだろう死に、知らず引かれていたのではないか。
 左衛門尉は、「裏切り」の報復としてさ栄を手にかけることは、ないかもしれない。だが、そうでなければ、必ずもう一度手に入れようとする。妹をもう一度犯すだろう。そんなことが再び起きれば、自分は死ぬしかない。が、それでよい、そうなればよい、と思ったのではないか。
 緩慢な自害だったのだ、とりくは思った。あの発作にせよ、どうした仕組みかはわからぬものの、自分の躰で自分を責めさいなんでいるのだろう。
(天才丸―新三郎さまと出会って、変わられた。)
 口をきくようになり、知らぬ者にすら会うようになった。むくつけき男どもを呼び集めて、その座のなかで上機嫌に笑っていた。
(小さな蝦夷侍の子に救われたのじゃ。その子が大きく育つうちに、別の思いすら育てられておる。……愛おしいと思われている!)
 いま、左衛門尉に父と兄を殺されて、悲嘆のどん底にある。
だが、死を思っていない。事態に流されてしまおうともしない。左衛門尉すら、強い意志で跳ねのけた。
(姫さまは、新三郎さまと生きていかれたいのじゃ。それを望みに、何とも知れぬ明日が来るのに耐え、今日いちにちを生きようと……。)
 りくは、これまで一度もいだかなかった感情に囚われた。

 幼少期からこの稼業の訓練を受け、他所の世界を知らない。そして、「伊勢の者」一党たちの世界とは違う場所を、垣間見ることがあっても、好きになれたことはなかった。たとえ様々に扮装してどこかに潜り込んだところで、その場所を冷静に見つめるだけだった。そこでいかなる目に遭おうと、冷ややかな距離感に変わりはなかった。りくの目には、綺麗な場所の裏が映る。映らざるを得ない稼業なのだ。鼻をつまみたくなるような汚い場所も、逆に平気だった。自分たちの稼業が、血や汚物に塗れているからだ。
 この離れにいるときとて、最初のうちはそうだったのだ。
 そばでひそかにお守りすることになったのは、美しいが人嫌いの自儘な姫君だとしか思えなかった。乳母あがりの侍女は妙に権高い。そして、胸の悪くなるような近親相姦の不始末を、この城の最も尊いとされる家族が必死で押し隠しているらしいと知った。ふざけたことだ、と嗤う気持ちすらあった。
 不器用な蝦夷侍の子も、なかなかに欲深いからこそ、励んでいられるのだと知っていた。親に言われるままに、甲斐のない仕事に追われて、下手すれば中間扱いで終わりかねない。貴人に情はないから、そうなるだろう。天才丸と言うこの少年も、それに気づけば、やがて逃げ出すかもしれない。
(まさか、ほんとうに命を懸けて、姫さまを守ろうとするとは……。)
 思わなかった。武家と言うのは、餓鬼の頃からそのように仕込まれているのか、と呆れたが、どうもそればかりではないと知れた。
 絶対に敵わない左衛門尉に、最後は素手で立ち向かったのは、少年の正義感がそうさせたのだと知った。自分たちのように、実の妹を抱こうとするなどえずくようじゃわなどと思っているだけではない。ありえぬ行為が姫さまをおびやかし、傷つけたのが許せないとの思いがあった。それだけで、大事な命を捨てられたのだ。
(姫さまは、どんなにうれしかっただろうね。たれも頼れぬはずが、たったひとり、自分の味方をしてくれる子がやって来たのだから。)
 
(この離れに、つっとおりたい。姫さまや天才丸さまと、一緒に過ごしたい。あの人たちのために、なってやりたい。)
 りくは、それが自分の願いであり、切ないほどに高まり、自分の中に根を下ろしたのだと気づいた。
(何故じゃろう?)
 答えはわかっている。自分もまた、天才丸に救われた。ふと猫を隠してしまったときに天才丸が好きだと気づかさ れていた。その天才丸が、自分にやさしかった。助けてやれる、仲間だと言ってくれた。
 そのとき、自分は以前の自分と変わったのだと思っている。

「蠣崎の者たちが、母屋に来てくれる。りく、心強いの?」
 土間に平伏している背中に、ありえないことに、言葉がかかった。
(なんだ、姫さま?)
 りくは驚いている。
「りくも、うれしいじゃろ? また、賑やかになるといいの?」
 りくは、叫び出したい。こんなことがあってよいものか、と思う。
(姫さまが、あたしなんかをひと扱いされるのか? 何ものでもない、下女のあたしを……?)
どうしたものか、演技でもなんでもなく、身が震えた。
「はい、……大勢は、……うれしうて。」
 声が出ない。
(驚かせてしもうたかな?)
 さ栄姫は、りくの背中を見て、少し心配した。
(はしゃぎすぎてしもうたよ、わたくしが……。)
 蠣崎家が、空き家だった母屋を新しい屋敷として賜れたのである。川原御所の乱以来の騒乱が、このときだけは一段落がついていた。蠣崎新三郎と津軽蠣崎も恩賞をその形で賜れたのだが、さ栄姫にとっては安堵が限りない。
 新三郎の元服の頃のような日々が、戻ってきてくれるのではないか。理性ではそんなことはありえぬと打ち消すのであるが、どうしても喜びが先に立つ。
 りくがまた驚いたことに、背中に手が置かれた。ポンポン、と柔らかく叩く。
「また、なにかよいことがあって、宴でも設けられるとよいな。りくは忙しくなるが、……また、頼むぞ。」
「ございまする。きっと、よいことがありまする。」
 りくは叫んでしまう。そうでなければならない、と強く願った。
「……そうか。」
 さ栄は自然に笑みがこぼれた。
(姫さま! 屹度、左様でなくてはなりませぬ!)
 りくは、去っていく姫さまの背中に呼びかけた。
 不思議なことに、新三郎への自分の想いを、いっそうつきつめたもののように感じる。
 その一方で、さ栄姫さまの多幸を願う祈りの気持ちも、溢れるほどであった。
 りくは、わけのわからない気分で、ゆっくりと立ち上がった。
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