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補遺 やつらの足音がきこえる(八)
しおりを挟む大元締めである安岡にも、弱みがあった。「伊勢の者」の中で、青年は独裁的には振舞えていない。
その血筋にあり、能力に不十分はなかったから、先年の父の死に伴い、跡目をとった。だが、宿老中の一位の者が、首領の地位こそ奪おうとはしないものの、実権の一部を握っている。彼らの世代が身を引くまで、という暗黙の了解で、一種の合議制が敷かれてしまっていた。幹部会とも言うべき集まりは、父の代には首領の決定を伝達する儀式でしかなかったが、いまはそれが名目的なものにとどまらないことがある。
御所さまとの余人を交えぬ会談での献言ですら、先夜の合議で決まっている。というより、このたびは明らかに安岡が押し切られた。
押し切ったのは、「伊勢の者」のうちの宿老のひとりで、表面上は小さな備(部隊)の頭を勤めて一党では最も高位にある、平山藤五郎修理という中年男であった。「若」であった頃から安岡右衛門を知っているから、その知見をつい正すつもりになってしまいがちであった。
また近年の、武張った家中の雰囲気に乗りたい気持ちが強い。伊勢から浪岡に流れ、退屈していたのが、近年、ようやく軍事行動に諜報が役立ち始めた。自然、戦を求める、この稼業の者たちのある本性が出た。
武断派であり、御所さまを除いてただ一人の最高司令官である西舘「兵の正」たる北畠左衛門尉に、心を寄せているのがわかった。
「いっそ左衛門尉さまに我らのご指揮を委ねては如何か。御所さまは弟君に軍配を委ねられておる。道理として間違いではないはず。」
それだけは、なんとか押しとどめた。
(あのような方に、我らの命運を預けてはならぬ。)
左衛門尉の秘密を知っているのは、「伊勢の者」の中でもごく数人だ。しかも、平山らは教えられていない。
右衛門は若い頃に、左衛門尉をめぐる奇怪な不祥事の後始末をとくにこの御所さま―当時の若君―に命じられたから、最もよくそれを知っている。
しかし、若君がくれぐれも余人にこれを漏らすな、と厳命したのを、守り続けている。
最も信用のおける手練れの一人である松蔵が、いまさ栄姫さまの離れに潜り込んでいるのも、西舘の過去とかれの法外な愚昧さとも言うべき面を、兄である御所さまが危惧するのを知っているからであった。
一見閑職でしかない場所に回されるのを、松蔵ですら抵抗したのを、説き伏せた。詳細は言えぬが、あの出戻りの病身の姫こそが、浪岡御所の命運を知らず左右する存在かもしれぬ、と伝えた。
松蔵は自分である程度調べたのであろう、短慮の自儘を申しました、とすぐに謝罪にやってきた。そして、若いが見どころのある女と言えば、と、旧知のりくを連れて行く許可を求めたのである。
松蔵からの報告は上がっている。左衛門尉の心の闇は、歳月を経ても晴れていない。
御所さまは、安岡の胸中を知った。
(こやつですらも、か。親の跡を継ぐと云うは、楽ではないの。)
世襲の君主である浪岡具運は、この忍びの統領に同情せざるを得ない。
「今一度、おぬしらで相談せよ。御所は首を縦に振らなかった、と言え。」
「承知いたしました。」
「謀叛の芽を未然に摘むと言えばなにやらそれらしいが、いかにも悪手であろう。際限がなくなる。家中に流血が絶えなくなる。この浪岡城が、潰れる。……右衛門、お前はわかっている筈じゃ。絶対にならぬぞ。」
安岡は、はっ、と低頭すると、その姿勢のまま、天井に視線をあげた。
(上?そんなところにいおったか。声は、右衛門の背中の闇から聞こえたと言うのに……!)
具運は背に冷たいものを感じた。その間に、安岡の意思は無言のうちに「声」に伝わったようだ。その仕組みも、何度実見しても、御所さまにはわからない。
「川原を未然に討つべし、は左衛門尉さまのお考えでもありましょう。」
「……よく知っておるな。あれも、儂にしか言うたことがない筈じゃが。」
「安岡は、その左衛門尉さまにもご注意あられたし、と献言申し上げたく存じます。」
御所さまは一瞬考えて妙な顔になったが、うむ、と頷いた。
「……あやつに、川原のことで軽挙妄動さすなとの意味じゃな?」
(さにあらず! さのみにはあらず!)
安岡は反射的に叫びそうになった。その気配を「声」は読み取ったが、やめよ、と合図を送る。
(西舘に怪しい動きがあるわけではない。何も伝わってこぬ。……だが、一切伝わってこないと言うが、逆に怪しい。……何かの過誤が、儂らに生じている。それがわからんうちに、何ごとをお伝えするわけにもいかぬ。)
「……くれぐれも、ご用心ください。一朝ことあってからでは遅い。万が一をお考えあられ、御所のお守りをお固め下さい。我らも守りを増やしまするが、何分、表のお役目をいただいている者も多く、手が足りぬがお恥ずかしい限りにて。」
それだけを「声」に言わせる。安岡は、この不安のもとは何なのか、調べておかねばならぬと決意した。
御所さまは頷き、
「似たようなことを、あの、松前から来た蠣崎新三郎が言うておったな。蝦夷足軽の腕の立つのを、潜ませておいてはどうか、と。蝦夷を使うとは、蝦夷島出らしいが、面白い。今の右衛門の言葉もある。用心を始めておこう。」
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