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補遺 やつらの足音がきこえる (六)

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 新三郎が恭しく三宝の干し鮭に頭を下げるのを眺めながら、りくは内心で、滑稽だと思わざるを得ない。
(さっきまで台所にあったものじゃないか。阿呆らしい。)
 姫さまからのお使い、と聞いて床から飛び起きたらしい新三郎は、慌てて着替えると、りくと見て一瞬驚いたようだが、使者を迎える所作をきちんと踏んだ。
 りくはその流れも知っていたが、無教養な下女がきちんと対応するのも変だろうから、おどおどとしてみせる。新三郎は笑ったりからかったりはせず、手紙の受けとりまでを済ませてやった。
「……ご使者への御礼は、いずれ。……ということでよいか、りく?」
 いつもの-というより、りくには懐かしい口調に戻った。干し鮭は使用人に言いつけて持っていかせたが、手紙はもう一度恭しく目の上に持ち上げてから、懐に無造作に入れた。
「はあ、それはもう。……お読みにならないんで。」
「あとで拝読いたす。」
「あたしは気にしないで。」
「しない。」
 冗談だと思って、新三郎は笑った。りくも仕方なしに笑う。
 たいして面白いことが書いてあるはずも、ないのであった。それは新三郎でもわかる。この時代は、たとえ私信であっても定型がある。親しい家臣への病気見舞いの文なども、それらしいものがちゃんとある。姫さまはそれを踏んでいるに違いなかった。
「それより、ご使者はこちらへお越しくださらぬか?」
「えっ。」
「挽茶がある。飲ませてやろう。」
(なんだ。)
 これでも茶の席だというのだろう。りくは遠慮したが、上下の差をつけずに座り直した。天才丸と台所で立ち話をしていた時のような、分際の差の薄い場にしてくれたのだろう。
(しかし、いかにも勝手が違うよ。)
 りくは、なんだか落ち着かない。ふくからあてがわれた、質素だが、いつもの下女のそれとは全然違う高価な着物のせいもある。
 ただ、あらためて間近に見た新三郎は、ひどく痩せているように思えた。
「ようお食べですか?」
「ああ。……それは、まあ、子供の頃ほど腹が減らぬのでな。」
 まだ成長期にあるはずの新三郎は、適当なことを言って話を濁した。
(眠れないのじゃな。それで食も細まる。)
「姫さま直々の、鮭です。たんと召し上がれ。」
 新三郎は頷いた。
「……しばらく顔を見なかったが、りくは、つつがないか?」
「はい。変わりありませぬ。」
「ミケがおらんようになって、どれくらいたつ? もうさびしうないか。……そうか、鳥の世話を手伝ってくれる、小さい子がおるのじゃったな。……よかったな。」
「生意気で困りますよ。」
「お前とて、昔から茶の席じゃ。」
分際を知らぬ、と言いたいのだろう。無論冗談なので、りくは微笑む。
「おれはこう見えて、……」蝦夷代官の子、と言いかけて、天才丸は咽喉が詰まるような気持ちがしたのだろうか、「……武家じゃというのに、友どちのように気安かった。」
「ご無礼いたしておりますよ。」
「……いや、何度も、馳走になったの。」
「また、いつでも食べに来てくだすって構いませんよ。」
 新三郎は笑った。そうじゃな、お台所にまた行かせて貰おうかな、と言った。
「松じいも、変わりないか? ……へんじゃな、随分昔のように思えるが、一年も会っておらんわけではない。なじょう、そう前のことに思えるのかの?」
「大人になられたからですよ。」
「……。」
 新三郎は目を閉じて、何か考える様子だったが、
「と言うことは、おりく、お前も二年も前からすると、随分大人になったか。」
「いやらしいことを言いなさるのか?」
「馬鹿、左様な意味ではない。……おれたち、たしか同じ年の生まれくらいじゃろ?」
「あたしなんぞ、何年の生まれだか知れたものじゃありませんが、たしか未(ひつじ)と聞いたね。」
 「下女のりく」としてはどうだったか、を思いだすのを気にせずに、りくはそう言った。
「天文十七年丁未(ひのとひつじ)か。おれは戊申(つちのえさる)じゃ。一つ上か。」
「……やはり。」
「なにが、やはり、じゃ。おれはさほどに子供こどもしておったと言いたいのか、お前は。」
 りくはけたけたと笑った。
(やはり、あたしはあんたが可愛くて仕方がなかったんだ。弟のように思えて、天才丸さまの世話をしてやりたかったんだろうね。)
(今は、違うよ、新三郎さま。あんたは、……。)
「大人になられました。」
 新三郎は、そうかい、と少し不思議な顔になって笑ったが、
「それで、お前は?」
「あたしなんぞは、変わりませぬよ。つっと、このまま、……。」
「さでもなかろうよ。」
「いや、つっと、このままで、……いずれどっかで、野垂れ死にするんでしょう。」
 下女のりくが言う言葉にはふさわしくないのだが、りくは言ってしまった。「伊勢の者」としての本心であった。はっと気づくと、
(しまった。何を言った、あたしは?)
 新三郎はあっけに取られた表情になったが、やがて、心配げに言った。
「……おふくに、叱られでもしたか?」
「へ?」
「お離れでの仕事がつらくて、やめたいのか? ……おれには、そのようには見えなんだが。松じいとお前は、昔馴染みじゃしな。やはり、二人では手が回らぬか?……おふくに、おれから言ってやろうか?」
「違う、違います。やめませんよ。やめたくもありません。それは忙しいけれど、おふくさんに、さほどひどく叱られたりしておりません。」
「じゃが、お前、野垂れ死になどと? お離れで勤まっていれば、左様な懸念は要らぬはず。何か、おれの知らぬところで、つらい目が……?」
(ああ、なんじゃ、このおひとは!)
 りくは、おろおろしてしまった。失言を取り繕えないのではない。新三郎を心配させたのが、つらいのか、うれしいのか、よくわからず、ただ混乱している。
「このまま飯炊きばかりでよいのじゃ、あたしは。お台所の隅で老いぼれますよ。そのほうが仕合せじゃ。どこかで野垂れ死にしたのは、あたしのふたおやの方で。」
(あっ、また言うてしもうた、要らぬことを!)
「……左様か、お前の親は、……。」
 新三郎は、息を大きく吸った。
「流行り病か何かでいっぺんに、と早合点しておったが、なにか争いごとにでも巻き込まれたか。戦か? つらかったな、おりく。それで、お前、野垂れ死になどと。……悪かった。思いださせてしもうたのかな?」
「若旦那はかかわりのないことで!」
 あっ、と思った瞬間に、涙が出てしまった。大泣きするわけではないが、昂奮したのだろう。涙が一筋、赤くなった頬に流れるのがわかった。
(そうじゃ、このひとには、あたしなんぞはかかわりがない!)
 すばやく顔をそむけたので、新三郎は涙にまでは気がつかなかったらしいが、
「案じるな、りく。野垂れ死になど、ないわ。もし何があろうと、姫さまの郎党仲間のおれが、何とかしてやる。」
(ああっ?)
 新三郎の言葉に何の重い意味もないのはわかっているのに、りくはそれを胸のうちに反芻した。
「お前には、台所の恩がある。」
「……は、はは。あたしのほうが、ミケで貸しを作ったきりですよ。返しきれていない。」
「これから、また返せ。」
(もうやめて、やめてくだされ、若旦那! 新三郎さま! あんたの何の気なしの言葉に、あたしは一々おかしくなっちまうんだ!)
「お茶を有り難く御馳走になりました。用も済ませましたので、これにて帰ります。」
 りくは、行儀知らずの下女ならばそうするだろう風に、すっと立ち上がってそのまま背中を返し、縁側に出て行った。その背中に、新三郎は声をかける。
「りく。久しぶりに会えたな。お前も、おれも、変わりがない。ほんとうに、大人にならなければならぬな。……じゃが、何か気が晴れた。また、茶でも飲みに来てくれ。」
 りくは縁に座り直すと、丁寧に頭を下げた。
「若旦那、くれぐれもお大事になさいませ。りくは、若旦那のご本復を衷心お待ち申し上げておりまする。」
「おう?」
「お言葉のとおり、……りくは、ふたおやと違って、決してどこかで野垂れ死にいたしませぬ。骨も拾って貰えぬような死に方は決してせぬつもりです。……いや、せんでよい。おとっつぁんともおかっつぁんとも、りくは違う者ですので。左様に心がけまする。」
「りく?」
 だから若旦那、あなたも鬼の父親のことなど思わず、今のようによい人であり続けてくれればよいのです、とまでは言えなかった。
(ただ、りくなどの言ったことを、あとで何かの拍子に考えてくれればよい。新三郎さま、あなたひとり、鬼で蛇でもなければ、それでよいのじゃ。)
 りくはまた居住まいを崩すと、ばたばたとせわしない足音を残して出て行った。
 新三郎はやや茫然としている。りくの姿を借りて、誰か別の女に諭された気がしている。
 西舘の近習職からは離れよう、御文庫で古い書類と付き合うところから、蠣崎新三郎の浪岡出仕を一からやり直そう、と新三郎が決意したのは、この日のことである。
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