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補遺 やつらの足音がきこえる (五)

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 しばらく、りくは松蔵と口をきかなかった。家事まわりの仕事は無言でこなす。
 松蔵のほうも、こちらは気持ちのほどはまったくわからないが、余計なことは一切喋らない。それにりくは頷いたり、首を振ったりするだけでよかった。
「若旦那は、呆けてしもうたようじゃな。」
 松蔵がぽつりと呟いたときにだけ、かすかな反応を見せてしまった。松じいの口調だが、無視するわけにいかない。
 あれ以来―と言ってもそれは、りくの方だけがわかることなのだが―、新三郎の姿を見ていない。この無名館までやってこないからだ。北館の武家町の片隅にある津軽蠣崎家から、通ってくるのをやめてしまったようだった。
「お仕事も怠って、寝たり起きたりらしいの。夜は眠れぬご様子で、日が高くなってはじめてうつらうつらされる。馬の上で寝てしまい、そのまま床に戻ってしまったとか。風邪のようでもあるが、さでもない。気の病じゃ。」
「それくらい……!」
 思わず、下女のりくではない、地の声を出してしまう。松じいの口調は変わらない。
「年若いとはいえ、お武家が心弱い……と、蠣崎の耄碌さまですら、憐れむばかりではないよ。……ご近習仲間も、あまり出てこぬので訝しがっておる。腑抜けじゃと笑うかたもおられてな。」
(むごい。そいつらは、知らんのじゃ。)
 おぼろげに浮かび上がっている、毒殺事件の真相を、である。
 この乱世に、武家のきょうだいが殺しあうのは、珍しいことではない。家督をめぐってのいざこざなど、常態であろう。それで死人が出たからと言って、元服も済ませた武家の男がいつまでも気に病んでいるようでは、いかにも惰弱であるかもしれない。それほどに流血を嫌い、命大事だと言うのなら、怯懦のそしりすら免れない。
 だが、松前で起きた出来事がどれほど少年の心を痛めつけたかは、りくにはわかるのだ。

(あの子は、元服前に海を渡って知らぬ土地に来さされた。故郷のお家のためじゃ。そして、ここで死に物狂いに励んできた。ときに、張らんでもいい命を張った。……姫さまの為でもあったが、やはり、お里の為じゃ。猶子にして貰ってからも、松前のお家の繁栄を願って、懸命に働いてきた。)
(あの寂しがりが、甘えん坊が、この異郷で、たったひとりで……。)
(そのお家で、あんなことが起きたのじゃぞ。おそらくは、父親が子と婿を殺したのじゃ。無辜の家臣の首を斬ったのじゃ。……懸命に尽くしてきたお家は、人殺しの巣じゃった。何のために、これまで励んできたのか、わからなくなったのであろう。)
(自分のなかには、子殺しの鬼の血が流れているらしい。よしや、さでなくとも、やさしかった姉が夜叉じゃ。救いがない。)

「さにはおっしゃいますが、姫さま。新三郎どのは、お武家でございますよ。いたましい、わけのわからぬ不始末でございましたが、さりとて今の世に、珍しいことではないのでございます。」
 新三郎は気の毒なことじゃ、と呟いてしまったさ栄に、ふくは言った。
「……お気の弱いところでございます。背ばかり伸びられても、そこはまだお育ちでない。」
 さ栄は、新三郎が気に病んでいる事件の根深い所まで知っているから、そうは思えない。ただ、いくらふく相手にもそこまでは伝えていないから、黙って首を振るだけだ。
「喪が明けたら……もう、明けておると思いますが、またこちらに参上されるがよいのです。りくも武家の妻でございました。心得を諭してさしあげましょう。」
 さ栄は薄く笑ってみせたが、それ以上はとりあわないで、
「床を離れられぬ様子とも、あの小さい……千尋から漏れ聞いた。」
 千尋丸は、新三郎の使いで、しばらくお稽古を休むと言ってきたのだ。自分自身も歌の手ほどきを受ける立場になっていた筈だが、それだけ言うとさっさと帰ろうとした。そこを甘い干し菓子で手なづけて、いろいろ聞き出したのだ。
「見舞いを持っていかせたい。」

「ありがたいことじゃ。」
 姫さまからの使いということで、新三郎は下座から拝んでみせた。
 上座にあげられた、りくはどぎまぎしている。
(拝んでいるのは、干し鮭さ。)
 それはわかっているのだが、わざわざ三方に移し替えた少量の干し鮭を上座に据えた、その横にやや下がって、使者である自分がいる。
 
 蠣崎家の他の人たちは、どうしたものか、子供の千尋丸まで不在であった。
 使用人に干し鮭の包みだけ渡して帰ればよかったのだが、姫さまからの見舞状であろう文まで託されたのが気になった。
 そして、やはり新三郎の姿を見ておきたい。夜に忍び入ってもいいのだが、相手が相手だけに、ただ顔を見るだけなら、面倒だと思った。
(新三郎さまは、気配を取れる腕がある。へんに忍び込んで万が一怪我でもさせられては、つまらぬ。)
 それが、余計に面倒なことになった。

「うけたまわりました。それでは、一足、行って参りましょう。」
「いや、おふく、お前ではない。」
「なじょうにございます。……姫さま、まさかご自分が参られるなどとは、仰いませんな?」
 さすがにそこまでは、とさ栄は微笑したが、
「……なるほど、それはよい考え。」
「姫さま!」
 たわぶれじゃ、とさ栄はゆるゆると首を振りながら笑った。そうしたいのはやまやまだが、とふと思いはした。
「おふくどのは、おそろしい。病人を叱り飛ばすであろう?」
「左様な真似はいたしませぬよ。」
 どうだか、と思いながら、さ栄は筆と墨をひきつけた。
「台所は、いまは少し手が空いておろうかな? ……りくに行かせよう。あれも、仲良しの新三郎さまの容態が気になるじゃろう。」
 ふくはいろいろな意味で驚いた。
「あの者は、新三郎どのと通屈(男女の仲が良くなること)になっておるのですか? 申し訳ございませぬ! わたくしは、みだらがましいことなきよう、見廻し(監督)いたしておりましたが……?」
「左様な意味ではないわ。」
 さ栄は、なにを想像してしまったのか、ちょっと顔を赤らめたが、言下に否定した。
(猫のことで、天才丸は、あの下女をかばってやったらしい。あれもたしか、みなしご故、ミケが去るのが厭なあまり、考えのないことをしてしまったのじゃ。それを、天才丸は救ってやった。さびしい子供同士、心通じたのじゃな。)
 さ栄は、それがなにか羨ましい気がしているのに気づき、ほんの少し当惑した。
「……それはようございましたが、……あれは卑しい下女でございますよ。折見舞いのお文まで添えられるのでしたら、やはりここは、わたくしでないと。」
 まあそうなのだがな、……とさ栄も思っているが、
「さ栄は、りくとも少し話がしてみたいのじゃよ。新三郎に逢えれば、齢の近い子どうし、何か気づくこともあろう。それを聞きたい。」
 貴人としてはありえぬ言葉を聞いて、ふくは、また驚かされた。
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