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補遺 やつらの足音がきこえる (四)

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「りくさま、あれは、いかなることじゃ? なにがあった?」
 幼女にしか見えないこぶえが、齢相応に、頬を膨らませた。
 りくの住処にしている、狭い部屋の中だ。鳥小屋そのものではないが、それに隣接していて、いまも鶏を飼っているから、ややその匂いがする。
 松蔵が腕を組んで座っている。ふたりが北館から帰ってくると、そこにいた。
「なにもない。あれだけのことじゃ。」
 りくは甕から水を汲むと、匂いを嗅いでから、ゆっくり飲んだ。
 松蔵は何も言わない。どうせ、すべてはどこかで聞いていたはずだ。
「……蠣崎新三郎に、忠言されたな? 驚きました。ありえぬ真似じゃ。」
「ご忠言などしておらぬ。……若旦那には、大人しくして置いてもらわんと困る。姫さまをお守りするのが、松蔵さまとわしの仕事じゃ、騒がしくなっては困る。」
 松蔵の方にちらりと目をやったが、反応は何もない。微動だにしない。
「こぶえ、お前、うまくなった。ようやってくれた。」
 りくが言うと、こぶえは納得したようだ。若旦那、という呼び方が気になったが、まあ良い、これでこの仕事はたしかに終わりじゃ、と思った。
「また、遊びに来ます。」
「ああ。」
 こぶえがたしかに駆け去ったと見ると、松蔵もうっそりと立ち上がった。
「あんたもお帰りかい?」
「……。」
 松蔵は無言で近づくと、りくの肩を掴み、強引に抱き寄せた。

「何をしやがる?」
 痩せた初老の男の体躯に、どれほどの力が秘められているものか、りくは一瞬で動けなくされている。松蔵のごつごつした手が、りくの体を着物の上から撫でた。
「やめろ! やめぬか!」
 簡単に押し倒された。りくは怒りと絶望に目の前が真っ赤になる。
 りくの腹の上に、松蔵は跨っている。息も荒げていない。不機嫌そうな無表情のままだ。
(動けない! まさか、松蔵がこんな気を起こすとは?)
 りくは全身の力を振り絞ったが、松蔵の足の力と体重で固められ、肩も押さえつけられた。激しく振っていた腕が、押さえつけられただけで、簡単に痺れてしまった。
 襟に手がかかり、胸のあわいまで着物を下げられても、どうしたものか、抵抗する手がもう出ないのだ。
「畜生! 畜生! やめぬか!」
 胸があらわにされた。松蔵はそれを、まじまじと見つめている。
(畜生、されてしまう!)
「りく、こうなってしまっては、わしとまぐわうことになるな?」
「ふざけるな! お前なんぞと!」
「じゃが、そういう具合になったとて、お前はたれにも文句が言えぬ。」
 りくは、はっと気づいた。
「お頭に言う! お前に手籠めにされたと、言いつけてやる! それが厭なら、もうやめろ!」
「厭がることはないんだ。おれには、そうした仕事もある。お前に、くのいちの技を教えてやったと言えばよい。それで済む。」
「……畜生!」
「りく、お前は、さようの女じゃ。」
 りくは目が眩むほどの怒りを覚えた。松蔵の言うとおりなのだ。「伊勢の者」の家に女として生まれてしまった以上は、肉体すら稼業の道具のうちに入る。

 現にりくは、おとなの女の印をみた三年前に、組頭と性交させられていた。
 そうした技を仕込んでおくのだと言って、その道に長けた中年の女に見られ、事細かな指導の言葉を浴びながら、苦痛と恥辱を忍んでいたのだ。子を孕まぬようにはされたが、忌まわしい経験だった。
「厭じゃったろう?」
「教師」の女は、破瓜の痛みのあと、立て続けに加えられた屈辱的な刺激に放心している裸のりくを、冷たく見下ろして言った。
「……男とは、ああしたものじゃ。組頭さまとて、変わりはない。……仕事なんぞと言うて、お前を好き放題に食い散らかしよった。子種を入れるのを避けただけじゃが、存分に汚していきよった。……もしお前が他のお役に立たねば、なんのかんのと言うて、また呼ばれる。今度は、容赦ない。いずれは、孕まされるじゃろう。」
 口もきけないで仰向けに倒れている少女の、感情の生理に何かを及ぼそうというのか、呟き続けた。
「お頭の子が産めるとは、思い違いすなよ。可哀そうじゃが、役立たずならば、今日のことをもっと仕込まれるだけじゃ。わしも、また仕込まねばならぬ。」
 そう言いながら女は、少女の剥き出しで震えている乳首をつまみ、ねじった。りくは痛みに呻く。
「くのいちの技ばかりを、の。お前の可愛い顔と、ここ、……を仕事の道具にせねばならぬ。マトの男と床をともにして、騙す。床の中で相手を殺す。どんな部芸達者とて、閨では油断するからな。殺せる。そして時には、殺したマトの子を孕んでいたりする。……わしのようにな。」
 りくは戦慄して、乾いた涙のこびりついた大きな目を見開いた。
「弄ばれ、腹を膨れさせたくなかったら、励め。男も女もない技を磨け。……そして、男女のことに、なんの望みも夢も持つなよ。男と女の間など、今夜お前がされたのが、全てじゃ。あとは偽りよ。」
 偽りか、とりくはぼんやりとしたが、とたんに思い出して、衝撃を受けた。
「あたしには。……おとっつぁん、おかっつぁんがいた。仲が良かった。楽しかった。あれも偽りじゃったか?」
 女は苦い表情になった。知っている。この子の両親が、この稼業の者同士で夫婦になった。「伊勢の者」の同僚として、知らぬ仲では決してなかった。
「偽りではない、何かがあったのかもしれぬな。」
「それは……!」
「じゃから、死におった。生き残れず、小さいお前を残して二人とも、お役で死んでしまいおった。」
 
「斯様にされても文句はない。下女のりくなら、まだ大騒ぎしてよい。じゃが、お前はその『りく』ではないな?」
「……何をいいやがる? 放せ!」
「若旦那が相手する女では、ない。」
「あっ?」
「お手がつくのだって、ありえぬ。お前が若旦那と寝るとしたら、殺さなきゃならん時だろうが?」
「あたしは、その仕事はしねえ!」
「大して変わりはないんじゃよ、お前らは!」
「……!」
 喋りながら、松蔵の手は冷え切った少女の肌に直接触れていた。
 だが、松蔵の言葉に衝撃を受けたらしいりくは、動かなくなっている。

 りくが抵抗をやめてしまったと見ると、松蔵は大きく息をついた。
 そして、硬直した女の躰から離れる。離れ際に、自分が開いた胸元を直してやる。
「……わかったか。」
 起き上がりざま、りくは袂から小さな刃をいくつも投げつけた。恐怖と衝撃から冷めてみると、怒りがまた収まらない。
 松蔵は平然として、それらの全てを難なくかわした。
「わかったか、と聞いた。」
「やかましい、出ていけ!」
 わかっている。りくは、松蔵が言いたかったことがよくわかっている。そのうえ、この老練な先達が、仕事仲間になった少女に、親身になって教えてやる気であんなことをしたのも、もうわかっていた。
 だから、悔しくてならなかった。
(分際が違う、なんてことはとっくにわかっている。松蔵なんかにあんな真似をされてまで、教えて貰うことではない!)
(そのうえ、若旦那は、……新三郎は、あいつは、あたしなんか何とも思ってやしねえ。姫さまに憧れて、憧れて、……それだけじゃ。)
(じゃが、それは、あいつだって、……!)
「あいつだって、分際を知らねえんだよ!」
 あらぬことを言ってしまった少女の目に涙があふれだしたのを、松蔵はいたましい気持ちで眺めた。
「あれは、まだお武家じゃよ。」
「得体の知れぬ蝦夷侍じゃないか!」
「……まあ、わかったようじゃから、よい。」
 りくはまた何か物騒なものを投げたが、当たりはしない。
「りく。ひとつ、大事なことを言うておく。」
 えっ、とりくは固まった。知らぬうちに、松蔵の言葉を待つ態勢になってしまう。
「うむ。明日は早いぞ。もう、寝るがよい。寝過ごしはならぬ。」
 松じいの声と口調であった。背がやや曲がり、ほいほい、と呑気な声を出して戸口から出ていく。
「この野郎!」
 りくは近くにあった鍋をその背中に投げたが、白く雪の浮かび上がる闇の中に、初老の下男の姿はすでに、かき消されていた。

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