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断章 馬と猫(二十二)
しおりを挟むりくは、ミケを胸に抱いている。
真昼の台所の土間には、研ぎ師の風体の若い男がいて、りくが座っている背後にいた。研ぎ仕事はとっくに終わったのに、愚図愚図と居残っている。
「ご主人さまは、その、ミケをお可愛がりかね?」
「さあね。まあ、左様じゃね。」
(前よりも素っ気ないな、この娘は?)
研ぎ師は気づいた。
西舘からの者だ。無名舘のこの離れに出入りして、あるじの貴人の暮らしぶりを探ってこいと言われている。本職は研ぎ師ではあるが、半端者だから、その手の仕事も喜んで引き受ける。容姿に自信があり、口が上手いから、女子から情報を拾い上げるのが得意だ。
(……と思っていやがる。馬鹿め。)
下女のりくを名乗っている、この少女のような、生まれながらの本職からすれば素人である。あしらってやって、逆に足を掬うつもりだ。
(もう少しうまい聴き方があろうよ。こんな奴をお使いでは、西舘さまもお考えが浅い。もとは検校舘に流れ着いた奴らなど、役にたたぬ。)
とはいえ、りくたちの一党を使えるのは、御所さまだけなのだ。いまは病臥されている先々代の四位さま(浪岡具永)から、孫が直接引き継いでいる。
このあたり、親子の間で三代にわたって、いくらかの感情の齟齬が生じているらしい、とは、りく程度の若衆ですら、「上」の頭たちから聞かされてはいた。それはよいとして、
(『兵の正』さまが、わしらを使わぬでよいのか?)
とは、松蔵などは危惧しているらしい。近年の軍事行動は、兵の正こと左衛門尉が一手に握っているはずではないか。なぜ、活発な軍事活動を指揮している兵の正、左衛門尉は、自分たちの一党をもっと活用しようとせぬのか。
「何故にです。」
「……わからぬ。いずれ話してやる。」
いつだったか、松蔵は矛盾したことを言ったが、要は秘事があると言うのだろう。
もっとも、熱心に先輩の話を聞くふりをしていたものの、りくは実はあまりそんなことに興味はなかった。
この離れに下女の態で潜り込んでから、当の左衛門尉の、実の妹への異常な執着を知り、いくらかは事情がわかった気がした。
その弟の不徳義を知っているに違いない御所さまとの間に、何の感情のもつれもなかった筈はない。
今の世のことだ、それがどんな家中の争いに直結するものやら、わからない。仲良さげな兄弟と言えども、なにもかも分け合うわけにはいかないのだろう。ふたりの間には、眼に見えぬ警戒が潜んでいた。姫さまは、その磁場に身を置いているとも言えるのだ。
年若い自分はともかく、やや老いたとはいえ松蔵のような手練れが、こんな場所で黙々と仕事をしているのにも、考えてみればお家の大事に関わることだからなのだと思った。
ただ、りくは、お家のいくすえにもあまり興味がない。
両親を早くに亡くしているが、四位さまに使い潰された末だとの意識も、別に怨みはしないが、かすかにはあるからかもしれない。
(浪岡を出て、どこか遠くにいきてえな。)
ふと思うことがある。噂に聞く親たちの故郷である上方でも、関八州でもよい。父母に死に別れた哀しい思い出と、日々のつまらない仕事だけの奥州は、出ていけるものならおさらばしたいものだと夢想していた。
(京、堺、奈良……。小田原や駿府のお城下でもいい。大きな街でのびのび暮らしたい。)
松前、という土地の名が思い浮かんで、変な気がした。
研ぎ師は、若い下女の様子が前とは違うな、と気づいた。なにかぼんやりとした様子だし、あえて言えば、自分が来てやっているのに不機嫌である。
(妙に口が固くなったのは、なにかあるな?)
それには気づいた。
あたっていなくもない。
りくは、姫さまが猫のせいで咳が止まらないらしいのを、当然知っている。それをこの男に喋ろうかと思って、迷っている。
姫さまが咳き込まれるのは、お気の毒だと思う。それなのに左衛門尉に遠慮してか―隠れて三人の話を聞いていた松蔵は、どうもそれとも違うようだと言うのだが―猫を返してしまおうとはしないらしい。
天才丸が、土間の隅に繋いでおけ、と言ってこのミケを抱いて持ってきた。
驚いたことに、それから姫さまは毎日、この台所までお顔を出される。そして離れた場所からミケに呼びかけたり、泣き声に頷かれたり、ちいさく片手を振られたりするのだ。
「西舘さまに、ああやって、ご義理をお果たしするおつもりなので?」
さすがに直接は聞けぬから、りくは天才丸に尋ねた。天才丸も、困った様子で曖昧に頷いたが、
「姫さまは、ご立派であられる。」
立ち上がるときに、それだけは感に堪えぬ調子で言った。りくは、わけもなく胸が痛んだ。
この研ぎ師にありのまま話して西舘さまに通じれば、まず間違いなく猫は返されることだろう。ふくなどが想像しているという左衛門尉の悪意などを、少女はまるで感じない。これも松蔵から聞いて、りくは首を傾げた。
(単に、妹さまに好かれたくて仕方がないのさ。気色の悪いことじゃが……。)
その妹を猫の毛だか何かが悩ませていると知れば、一も二もなく猫は離されるに決まっている。姫さまからそれを言いだされないのは、ご遠慮か、あるいはお二人の仲の面倒さがそうさせているのだろうが、無理をされることもなかろうに、とりくは不思議であった。
(天才丸さまは、不思議ではないのかしら?)
ふと気づくと、研ぎ師の男が後ろから自分の両肩に手を置いていた。
(なにをしやがる。)
「おりくよ、なにかあったのか? お前みたいにかわゆい子が、今日はぼうっとしておる? なにか隠し事があるな? 口止めされたことでもあったか?」
そのまま抱きつく勢いだ。息が首元にかかりそうだ。
(下手だな、こやつ。そんな聴き方で、なにかあったって、たれが喋るものか。)
りくは無感動で無反応だが、一応は息を呑んで驚き、身をよじって逃げようとはしてみせるものの、まんざらでもない……振りをした。
(しかし、あたしはなんで喋りたくないのかな?)
姫さまに意地悪をしたいわけではない。
胸の中で、ミケがあくびをした。
(そうか、あたしはこの子と別れたくないのか。この子が返されてしまっては、哀しい。)
わかった気がしたが、自分はそれほどの猫好きになったのかな、とそれが今度は不思議であった。
そのとき、りくは研ぎ師の背中にあたる門口に、気配を感じて、今度こそほんとうに硬直するほどに驚いた。
(天才丸さま……?)
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