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断章 馬と猫(二十一)
しおりを挟む「ならぬ。」
姫さまが、薄暗がりの中から、この勝手口にあたる裏手の木戸にまで現れた。
(姫さまだったのか? いかにも違う気配だったが、……)
「それはなりませぬよ、天才丸。ミケを捨てたりしないでおくれ。」
「はい。……いや、しかし、お躰のことがございます。」
「猫が元とは、まだ限らぬではないか。」
「おそれながら、お話を伺っておりますと、いかにも左様としか。」
「たいしたことはない。この通り、咳も出ておらぬ。」
「はあ。……それは何よりと存じます。」
ふくが進み出た。姫さまに意見できるのは、天才丸ではなく、やはりふくなのだ。
「ここにミケがおりませぬからな。姫さま、お部屋でご本をお読みの筈でしたが、ここまでお越しとは、いかがなさいましたか?」
さ栄は言葉に詰まったが、やがて少し目を泳がせながら、
「天才丸の声がしたもので。ああ今日はお稽古の日ではないが、来てくれたかと思うて……。」
「え?」
驚いた少年の顔が喜色に満ちたが、ふくはそれには関せず、
「あだしごとをおっしゃいますな。お部屋から、ここでのお話が聞こえますものか。まずはミケが寄ってきたもので、逃げ出して来られたのでしょう? やはり、猫がお躰に障ると、お気づきではありませぬか。」
少年は内心でなんだ、とがっかりしたが、
「歩いておられると、天才丸どののお声が聞こえたので、寄って来られた。そこで、わたくしどもの話に聴き耳を立てられた……とのわけでございましょう。」
(あ、おれの声を、と言われたは、嘘ばかりでもない。)
天才丸はまた淡い喜びを覚えたが、いまはそれどころではないと気づいた。
「おそれながら姫さま、左様でございましたら、やはり、ミケはお遠ざけになられぬと。」
「ならぬて。」
「祟りが込められているやもしれませぬぞ。」
ふくはまた、真剣な口調で言う。姫さまの顔色が変わったようだが、一瞬沈思の表情になると、すぐに微笑んだ。
「……とりこし苦労じゃよ、ふく。そんなつもりで、猫を下さったのではないと思う。」
「姫さま、それはそれといたしまして……。」
「ミケは捨てぬよ。紐でつないでおいておくれ。そのような飼い方もあるらしい。さ栄は、できるだけ遠くで眺めて、めでてやるとしよう。」
(咳はやはり、おつらいのではないか!)
「それほどにお意地をお張りにならずとも……」
ふくが呟いた。
(意地? なんだ?)
「猫など、たいしたことはない、なにも気に病むに及ばない、……さようおっしゃりたいばかりにございましょう?お強くお気をお持ちになられようとされる、それはよろしうございます。立派なお心がけと存じます。」
さ栄は悲し気に微笑んだ。やはり、ふくは自分の気持ちを一番よく分かってくれると改めて思う。
「……負けてはならぬ、と思うのじゃ。たれに、と言うのではないよ? 猫のことなどで、あたふた、おろおろとしている風には、なりとうなくてな。」
「じゃが、お躰のことでございますよ! どれほどに慌てられようと、構いませぬ。どなたにもお負けではない!」
「言うたのに。たれに対して勝ち負けではないて。……まあ、これまでの情けない、さ栄にかな?」
(あっ、姫さま……! ご自分と戦うとでもおっしゃったのか?)
おいたわしい、一体なんで、そこまで思い詰められるのか……。わけがわからぬままに、天才丸は涙が込み上げてくるような思いに打たれた。
天才丸は上を向くと、きっとした表情になった。
「姫さま、御免被ります。」
歩み出した背中に、さ栄の声がかかる。
「天才丸! ミケを斬ってはなりませぬよ。」
(しもうた、お気づきか!)
「気に病ませてすまぬ。しかし、左様なむごい真似をすれば、……破門じゃ。もうこちらに出入り許さぬ。」
さ栄は、ふっと笑った。その表情のまま、怖い声を出す。
「御所さまにも、あの子は猫など遊びで斬って酷い奴じゃと申し上げます。……やめておくれ。」
天才丸はあきらめた。姫さまは命じているわけでも、ましてや脅しているわけでもない。
(おれなどに、お頼みになられている……。)
「りくに言って、ミケをどこかに紐でつなぎます。そこには、姫さまはお立ち寄りにはなられぬよう。やはり、細かい毛かなにかがお咽喉に入るのでしょうから。……姫さまのお咽喉は、やはりわたくしどもとは、出来が違うのでございましょう。」
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