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断章 馬と猫(二十)

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「お咳ですと?」
 天才丸も咄嗟に労咳を思い、青くなった。郷里の松前は、激しい寒さに換気の悪い部屋に閉じこもるためもあってか、労咳患者が多い土地でもある。津軽とて―ひどく無理をして上方風の住居を拵えている気配のある、この浪岡御所すらも―それはたいして変わりがないかもしれない。
「それがね、不思議なのですよ。けろりとしておられる時もある。」
 ふくが、天才丸を呼び止めて相談があると言う。姫さまにお咳が出る、と告げたのだ。
「労咳は左様なものです。まさか、……?」
「ご心配はもっとも。ただ、近ごろはとみにお元気で、食も細くはあられず。むしろ、喜ばしいことで、近ごろは少しお太りになられたほどです。」
「さすがはご乳母どの。よくお気づきじゃ。しかし、お熱は? ……労咳のご心配は薄いのか。では、……」天才丸は声を心なしかひそめた。「例の、お肌が赤くなられる、あれが?」
 ふくも顔を思わずしかめたが、どうもそれとも違うらしい、とだけ無言のまま表情で示した。
「不思議と申しますのはね、……ミケが近づくと、咳き込まれるのです。いなくなると、じきに収まる。」
「ミケ? ……お猫さまが、咳の元じゃと言われるのか?」
「左様にございましょう。たまたまとも思えぬのでございます。天才丸さまにお教えのときに、お気づきでは?」
「あ。」
「あの調子です。……ミケがお咳の元としか思えぬ。お舌も、少し腫れるのだとか。」
(お可哀想な、姫さま! ミケをお可愛がりなのに……?)
 天才丸はさ栄のことを思ったが、自分に相談されたというのはなにかと思った。
「……天才丸どのは物知りとうかがいましたが、猫というのは祟るのだとか。やはりなにか、呪詛の念があのミケに込められておるのでしょうか?」
「じゅそ?」
 天才丸は一瞬、何のことやらと思ったが、すぐにふくの言いたいことがわかった。
「……まさか、左様なことは。」
 天才丸は、自分があまり考えたくないことを、ふくが心配しているのだと悟った。

(いくら想いを撥ねつけられたからと言うて、女に呪いをかけるなど、あるまじきことじゃ。いくら、そもそもが邪まな想いとは言え、北畠さまの御大将がそんなことをされるとは思えぬ。……現に、おれの口を塞ぐところか、元服も前なのにいまの蠣崎の家に据え、手柄も立てさせて下さった。あのこと以外は、やはり立派な、……。)
 この頃の天才丸は、左衛門尉の人物に対する評価に迷いがある。姫さまを死ぬほどに悩ませた男であり、この自分を叩き伏せるにも情け容赦なかったが、度量もおありだ。将としてはやはり滅多に出ないひとで、南朝の英雄の子孫は疑いもないと思える。
(いや、それより何より、……。)

「おふくどの。滅多なことを申されるでない。猫が祟るだの、たれか知らぬ者の、……」とそこは語勢を強めたうえで「……呪いだのと、馬鹿げております。」
 近代的な合理主義がこの少年にあるわけではない。ただ、それに似た即物的な感覚は、戦国の世の武将の息子として、叩きこまれていた。目に見えぬものを思考から振り払えぬようでは、いらぬ信心、はては迷信に足を取られる。
 教養としても、一人前の男は怪力乱神を語らない。女子供とは違うのです、とは元服前の天才丸は言わないが、それは態度に出たのであろうか。ふくが妙にこだわって、言う。
「馬鹿げておる? さにおっしゃいますがね、おまじないだの御祈祷だのと、男の方がたも随分と戦の前には縁起をかつがれておりましょうよ。お寺にもお社にも拝まれましょう。祟りや呪いと如何に違いますか。」
「それです。代々かくも敬仏崇神の念篤い北畠さまのご家中に、どこぞの山伏だの歩き巫女だののたぐいが施すのじゃろう、呪詛や祈祷が入り込めましょうか。ましてや、ミケが化けるの、祟るのと、ありえません。そのご懸念は無用、と存じまするが如何。」
 ふくは黙ってしまった。左衛門尉くらいならばもっと高級な祈祷師を使うだろう、とも反論できないし、言われてみれば、特に何かの証左があるではない。
「……医者は、呼ばれましたか。」
「はい。あ、思いだした。医者は、わからぬと言うのです。たしかに猫が関係あるらしいが、お咽喉に毛が詰まったというのではないらしい。左様じゃ、それで、ふくは何やらもっと怪しげな……。」
 天才丸は腕を組んだ。

 さ栄姫には、現在でいう猫アレルギーの症状があったのだろう。さして珍しいものではない。猫の毛から出るごく細かい成分がアレルゲンとなって、呼吸器や皮膚に炎症の発作を起こさせる。咳や咽喉、舌の腫れ、肌の痒みとなって出やすい。それも、猫の存在で急激に起き、いない場所では、たいていは嘘のようにおさまる。
 さ栄を長年にわたって苦しめている「魚の鱗が赤く浮き出る」症状も、はげしい心的抑圧が関係する心因性のアトピー的な皮膚炎であっただろうと考えると、彼女の体質はそうした刺激に人並み外れて敏感だったのである。
 こうしたことは、天才丸の時代の人びとの知り得ることではむろんない。

「目に見えぬほど、細かい毛が、お咽喉に入るのかもしれませんし、何か猫の匂いだの、唾だのにアタられるのかもしれませぬ。」
と、天才丸が苦し紛れに思いついたのは、上出来であると言えた。決して間違いではない対処も思いつける。
「……もしも、じゃとすると、ミケめを姫さまから離さねばなりませぬ。」
「離せばよろしいのか?」
「まずはそれしかござらぬ。……部屋からミケがいなくなっただけで、やがてお咳がやむのでございましょう? わたしは医師でもないから理由もわからぬが、まずは左様するにしくはないと存じます。」
 ふくはなるほど、と同意したが、すぐに困った顔になった。
「……天才丸どの。どうやってお離しいたしましょう? いまさら、お返しするわけにはいかぬのです。」
 どこに、と聞いても仕方がないので天才丸は黙っているが、西舘に一度返そうとして断られたのだな、と想像がついた。左衛門尉の気持ちは測りがたいが、とにかく、引き取ってくれと言うのも、それこそ後々の祟りが怖いだろう。
(あのひとが、ただの妹思いの兄君であれば、なんの面倒もないのじゃが!)
「どこかに捨てて参りましょう。逃げてしまった、と言えば、もし、その、お送り主に知れても、ご弁解がつく。」
「猫は、どんな遠くからでも、ひょっとすると帰って参りませぬか?」
「それは犬でしょう。」
「ミケには紐をつけておりませぬゆえ、普段でもふといなくなるのですが、必ず帰って参りますぞ。いなくなったと言っておいて、お城の内外でまた見つかれば、元も子もない。」
 あのひとも厄介なけものを押し付けおって、と天才丸は西舘さまに内心で舌うちした。もとはと言えば、自分がりくとの会話で口の端に乗せたせいで猫がやってきたのを、本人はまったく知らない。
「いっそ、土に埋めてしまいましょうか? 川に流してやってもよい。帰って参りませぬ。」
 さすがに武士の少年らしく、物騒なことを思いつく。
 ふくは、首を振った。
「それはなりませぬ。姫さまはミケを大事になさっていて、そのミケを試し斬りにされるなど。」
「そこまでは言っておりませぬ。」
「もしも知れたら、むごい。たいそうお悲しみじゃ。」
「しかし、お躰には代えられますまい。どこかに始末せねば……。」
(あっ?)
 少年は、何ものかの気配を感じた。物陰に潜んだたれかに、話を聴かれていた。

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