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断章 馬と猫(十六)
しおりを挟む猫が来た。
茶色と黒の斑をもつ若い猫が、さ栄のもとに届けられたのは、初雪の頃だ。
「可愛らしいけものにございますねえ!」
下女のりくなどは庭先で大はしゃぎだが、ふくは複雑な表情になっている。
「では、わたくしどもはこれにて。」
なかなかに裕福らしい商人とそのお付きの者たちは、頭を下げて縁先を下がろうとする。
「置いていくのですか?」
ふくは思わず呼び止めたが、馬鹿なことを言ったと後悔した。それはそうであろう。彼らは頼まれてそうしているのだし、もう代金も受け取っているはずだ。
「……いえ、ご苦労でありました。」
猫を受け取って腕に抱いた下女は笑み崩れているが、そばでふくは頭が痛い。怒りも湧いてきた。
(左衛門尉さま……。いや、小次郎さま、なんのおつもりか?)
案の定、姫さまは全身が凍りついたようになった。
黙り込んだが、頭の中でどんな思いがぐるぐるとまわっているのか、ふくには手に取るようにわかる。
(兄上さま……! さ栄のことなどいつもお見通し、絶えず見張っているぞと仰りたいのか?)
兄―左衛門尉は一度忍んできて、天才丸が身を張って押しとどめるのに似た形になって以来、音沙汰がなかった。だからさ栄は内心で安堵しかけていたのだが、どうやらこの自分のことを左衛門尉はそれからも絶えず見張っているらしいと知れた。でなければ、鼠のことなどわかりようがない。
「姫さま、この家に鼠が出るなどは、たれも思い当りのつくことにございます。それで、猫などおつかわしになったのでございましょう。」
かもしれぬ。現に西舘の家宰からの送り状には、もしも鼠などでお困りであればとの殿(左衛門尉)のご懸念あり、とだけあった。鼠で困っているのを知っているぞ、とは書いていない。
だが、だからと言っても、
「さ栄を、まだ、気にかけておられる……。」
そうには違いない。考えもできぬことではなかったのだが、それにこうして気づかされるだけで、さ栄は混乱した気持ちになる。
(なじょう、そうっとしておいて下さらぬ? さ栄に構って何がしたいと言われるのじゃ?)
ふくは、いまにもさ栄の肌に赤いものが出はじめるのではないかと気が気ではない。
「おそれながら、御所さまにお申し上げになられては如何でございましょう?」
「……何を? 何を申し上げる?」
西舘さまが妹の棲家の鼠退治にとわざわざ猫をくれた、と言って、何がどうしたと言うのか、というものであろう。
(西舘さまは、お狡い。)
ふくは思わざるをえないが、しかし、昔、御所さまに自分が泣いて訴えたからこその、かろうじて別れさせることができた今であるのを思いだした。
「御所さまは、昔からおわかりにございます。」
さ栄の顔色が一瞬、変わった。まざまざと、兄が泣いていさめた夜の衝撃を思いださずにはいられなかったのだろう。ふくはまずいと思ったが、姫さまは目を伏せると、息をしずめながら、意外に落ち着いた声を出した。
「……兄上を叱っていただくのか。余計な真似をするな、とたしなめ、金輪際、いかなる形でも無名舘の厄介(居候)に近寄るな、と言ってくださるようにお願いするのか。」
「さようにて。」
「……できぬ。ふく、それはできぬよ。」
「何故にございますか。」
さ栄は黙っているが、すでにふくは相手の沈黙に理由を悟っている。
(小次郎さまはいまや『兵の正』として、家中の重鎮。御所さまの兵をお預かりの身。)
(しかし、姫さまはそれが怖いのではない。左衛門尉さまのお力を恐れていらっしゃるのではない。)
(迂闊に御所さまと西舘さまの間にひびを入れるのを、怖がっておられる。御所さまのお心を悩ませとうないのじゃ。)
(御所さまと西舘さまの血を分けたご宗家兄弟の絆こそが、御所を支えておる。それを少しでも揺らがせてはならぬと、お家のために、……御所さまのために……。)
「猫は、お返しいたしましょうね。」
「……さようしたいが、できるか?」
「せっかくの兄上さまからのご親切を断るなど、気の引けることでございますな。……じゃが、それくらいはよい。それくらいは、我慢なさらずともよろしいのです、姫さま。」
さ栄は、兄の心遣いを感謝し、しかし幸い鼠害はおさまったのでお返しいたしますという手紙を添えて、下男に西舘に猫を持っていかせた。
しかし西舘の家の者が、すぐに猫を戻してきたのである。せっかく差し上げたものであるし、鼠取りは気の長い話、また、もしも鼠取りに用がないのなら、手元に置いて愛玩すればよい、と左衛門尉は言ったのだという。
「無名舘の姫の好きだった『枕草紙』にも飼い猫が出てくる。中宮彰子さまのように、猫を可愛がるがよかろう。」
それを聞かされ、さ栄は額に片手を当てた。こめかみが痛む。
(兄上、……ご勘弁くださいませ!)
『枕草紙』はたしかに好きだった。それも、親しい兄の小次郎が教えてくれて、幼い日に夢中になった本のひとつではないか。腹違いの小さな妹を可愛がり、手に手を取るようにして、一緒に読んでくれたではなかったか。
(さほどにさ栄が憎いのか。……憎いのであろう。急にあなたを裏切り、嫁に行ってしもうたのだから。)
(いや、そもそもは、わたくしが兄上を惑わせた。兄上はわたくしをいきなり掻き抱いても、すぐにお放しになった。無理無体に手籠めにしようなどとはされなんだ。それをのぼせ上がってしまい、抱きついたのはさ栄のほうからじゃった。愛しい兄上は、じつは恋の相手にできるお方だと知らされ……そう思い込み、自分から躰を開いた!)
(それからも、あのお方の前で、わくわくしながら肌を晒し、息を荒げて、田の蛙のように足を広げた。肉に肉を刺されて、痛みと悦びの混ざった心持ちに耐えきれず、ついには涎をたらして呻き、のたうちまわった。恥ずかしい姿態を見せあい、埒もつかぬ言葉を交わし合った……。)
(それが、地獄とも知らず!)
(さ栄が、あのひとを地獄に落としたのじゃ。まだ、それをご存知ないとは言え……。なにで憎まれても、恨まれても、仕方がない。)
(ただ、つっとどこかで見られている、放してやらぬ、というお気持ちだけは、……つらい! 苦しい!)
さ栄は今にもあの赤い痛痒が躰を覆いだすかと怯えたが、それで息がつまり、口がきけなくなる前に言っておかねばならぬと気づいた。
「ふく。……後生じゃ。このたびは御所さまには、申し上げないでおくれ。」
たまりかねて、ふくがまた御所にひとりで駆け込んではならないと思った。
「よう考えれば、猫一匹くらい、何ということもない。」
ふくは、さ栄の言葉に涙ぐんだ。
(姫さまは姫さまで、お強くならねばと思われているのじゃ。)
「可愛がってやろう。名前は、もうあるのか?」
「……いえ、どうでございましょう。りくなどはもう勝手にミケなどと呼んで、台所で餌をやっておりましたが……。」
「ミケ? ああ、三毛か。あの子が、猫をそんなに好きとはな。よい。ミケと呼ぼう。」
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