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断章 馬と猫(十三)
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「お手柄だったそうじゃが、鼠退治でもひとつお手柄を立てて下されよ。」
天才丸が平らげた粥の椀と箸を受け取ると、下女のりくはまた催促した。
「お前、天井裏に上ったことがあるか?」
「……え?」
りくは何故か一瞬、虚をつかれた顔になったが、
「何をおっしゃるやら。あるわけがない。」
「じゃろう? そうそう上るものではないからな。埃だの煤だの蜘蛛の巣だの、虫だの鼠の糞だのが、暗いなかに、な……。で、目の前を太った、黒いのがチューっと鳴いて、横切りおる。」
「おお、厭じゃ厭じゃ。」
「うむ。おれも、厭なんじゃよ!」
馳走になったな、と立ち去ろうとする天才丸を、りくは慌てて引き留める。袖を掴んだ。
「話を聞いてしまったら、余計に怖い。気味の悪いのが頭の上にいると思うと、お仕事になりませぬ。」
「お前でもか。いまの言葉、姫さまがおっしゃったかと思うたぞ。」
「当たり前でさ。」
天才丸は袖を引かれたまま振り向いて、間近にある少女の顔を眺めた。化粧けもなく、煤で汚れた浅黒い顔だが、眼がきれいだと思って、すこしどぎまぎした。
(こいつは下女にしては、かしこい娘じゃな。)
これまでのつきあいでわかる。頭の働きに、鈍重なところがない。
「りく、お前、近在の子か?」
「なじょう(なぜ)、急にあたしのことを? 左様ですよ。みなしごになっちまったがね。」
「いや、お前の顔を見ていると、思いついたことがある。」
みなしごはこの世に少なくないから、天才丸はそれには触れないが、
「死んだ父母のどちらかに、蝦夷の血が混じっていたのか?」
「なんでございますかね。さあ、知りませぬが。あたしの顔が如何なさった?」
「猫。」
「ねこ?」
「知らぬのか、お前。」
りくは少し考えたようだが、曖昧にうなずいた。
「お城にはいないのじゃな。……いや、お前の顔を見ていると、猫というけものを思い出した。」
「けもの? むごいことをおっしゃるね。」
「いや、猫というのはなかなかに可愛いけものじゃよ。目が大きいところが、お前に何となく似ておる。」
へへっ、とりくは笑った。
「若旦那は、あたしを口説いてらっしゃるのかい?」
「馬鹿、馬鹿。そんなはずがあるか。……もうよい、離せ。おれは帰る。」
「まあ左様言われず、猫のお話ですか。あたしに似て可愛いそうで。聞かせてくださいよ。逃がしませぬよ。」
「逃げぬゆえ、その手を離さぬか。……お前の顔なんぞのことではないわ。鼠のことじゃ。つまり、猫は鼠を捕る。」
「……そうじゃったかね。」
「お前、ほんとうに猫を見たことがないのじゃなあ。たしかに、珍しい獣じゃが。山におる獣の親類ゆえ、家に飼われておっても、鼠くらい食いよるのよ。……ああ、知っておるとも。松前は港町じゃからな、結構いたぞ。米を積んだ船に乗ってきおるのじゃ。」
天才丸は、しばらく帰っていない故郷を思い出した。賑やかな湊の光景だ。
「なるほど、それはいい。若旦那が、猫を連れてきてくださるんで。」
天才丸は言葉に詰まった。
「それじゃがな。……子供のとき、船から降りてきた猫を追いかけまわして遊んでいると、船頭にどやされたものじゃ。お猫さまになにさらす、とな。お猫さまに何かあってみろ、わっぱの一人や二人なんぞの値段では、とても足りへんでえ、と。」
「変な言葉だ。」
「上方の荷を積んできた船ゆえな。若狭か近江か、そのあたりの言葉じゃろ。……わかったか。武家はあまり銭金のことは口にできぬゆえ、察せよ。」
「つまり、珍しいけもので、値が張るってことですね。若旦那にはとても手が出ない。」
「はっきり言いおる。……御所でお飼いではないのか? 雅な家ではよく飼われていると聞いたぞ。代官家でも、姉上方が一度飼うたことがある。すぐに死んでしもうたが……。」
「おふく様に伺えばよろしかろう。あの方は、御所のお女中をされていたそうじゃから、ご存知よ。」
「左様なのか。お前、よく知っておるな。……たとえお飼いだとしても、借りだせぬかのう?」
難しそうだな、と天才丸は思っている。もしも御所でどなたかがお飼いだとしても、鼠など獲らせるのはどうも厭がられそうであった。この時期の猫は、高価な愛玩動物だと思われていて、首輪をつけて紐で繋がれていることが少なくない。そこらへんに野良猫がいるわけでは、まだなかった。
「仕方ない。鼠ワナ(鼠取器)を工夫するか。」
どのみち天井裏にあがることにはなるのだ、と天才丸は嘆息した。
「それがよい。若旦那はちかごろ急に大きくなられたから、あんな騒ぎになったら天井板が落ちはすまいかと思うておりましたよ。」
りくが楽しそうに言った。
「なにか、毒を仕掛けておきますか。」
「毒はならぬ。」
天才丸は反射的に、強い調子で言ってしまう。
りくが怯えたように息を呑み、黙り込んでしまった天才丸を前に、自分は何か悪いことを言ったと思ってか、おろおろし始めた。
「あ、すまぬ。……何でもないのじゃ。ただ、そのようにおれは教えられたから、つい。」
「あたし、何か妙なことを申しましたか。毒、が悪うございましたか。」
天才丸は、ああ、と頷いたが、もう笑っているので、りくは安心した。
「毒を使う者は毒に溺れる。」
「はい?」
「と、父上に、……いや、南条の義兄上にも教えられた。お家の来し方を習ったときに……。」
天才丸は言いよどんだ。これ以上は、下女になど、いやたれにも言ってよい話ではなかった。
天才丸が平らげた粥の椀と箸を受け取ると、下女のりくはまた催促した。
「お前、天井裏に上ったことがあるか?」
「……え?」
りくは何故か一瞬、虚をつかれた顔になったが、
「何をおっしゃるやら。あるわけがない。」
「じゃろう? そうそう上るものではないからな。埃だの煤だの蜘蛛の巣だの、虫だの鼠の糞だのが、暗いなかに、な……。で、目の前を太った、黒いのがチューっと鳴いて、横切りおる。」
「おお、厭じゃ厭じゃ。」
「うむ。おれも、厭なんじゃよ!」
馳走になったな、と立ち去ろうとする天才丸を、りくは慌てて引き留める。袖を掴んだ。
「話を聞いてしまったら、余計に怖い。気味の悪いのが頭の上にいると思うと、お仕事になりませぬ。」
「お前でもか。いまの言葉、姫さまがおっしゃったかと思うたぞ。」
「当たり前でさ。」
天才丸は袖を引かれたまま振り向いて、間近にある少女の顔を眺めた。化粧けもなく、煤で汚れた浅黒い顔だが、眼がきれいだと思って、すこしどぎまぎした。
(こいつは下女にしては、かしこい娘じゃな。)
これまでのつきあいでわかる。頭の働きに、鈍重なところがない。
「りく、お前、近在の子か?」
「なじょう(なぜ)、急にあたしのことを? 左様ですよ。みなしごになっちまったがね。」
「いや、お前の顔を見ていると、思いついたことがある。」
みなしごはこの世に少なくないから、天才丸はそれには触れないが、
「死んだ父母のどちらかに、蝦夷の血が混じっていたのか?」
「なんでございますかね。さあ、知りませぬが。あたしの顔が如何なさった?」
「猫。」
「ねこ?」
「知らぬのか、お前。」
りくは少し考えたようだが、曖昧にうなずいた。
「お城にはいないのじゃな。……いや、お前の顔を見ていると、猫というけものを思い出した。」
「けもの? むごいことをおっしゃるね。」
「いや、猫というのはなかなかに可愛いけものじゃよ。目が大きいところが、お前に何となく似ておる。」
へへっ、とりくは笑った。
「若旦那は、あたしを口説いてらっしゃるのかい?」
「馬鹿、馬鹿。そんなはずがあるか。……もうよい、離せ。おれは帰る。」
「まあ左様言われず、猫のお話ですか。あたしに似て可愛いそうで。聞かせてくださいよ。逃がしませぬよ。」
「逃げぬゆえ、その手を離さぬか。……お前の顔なんぞのことではないわ。鼠のことじゃ。つまり、猫は鼠を捕る。」
「……そうじゃったかね。」
「お前、ほんとうに猫を見たことがないのじゃなあ。たしかに、珍しい獣じゃが。山におる獣の親類ゆえ、家に飼われておっても、鼠くらい食いよるのよ。……ああ、知っておるとも。松前は港町じゃからな、結構いたぞ。米を積んだ船に乗ってきおるのじゃ。」
天才丸は、しばらく帰っていない故郷を思い出した。賑やかな湊の光景だ。
「なるほど、それはいい。若旦那が、猫を連れてきてくださるんで。」
天才丸は言葉に詰まった。
「それじゃがな。……子供のとき、船から降りてきた猫を追いかけまわして遊んでいると、船頭にどやされたものじゃ。お猫さまになにさらす、とな。お猫さまに何かあってみろ、わっぱの一人や二人なんぞの値段では、とても足りへんでえ、と。」
「変な言葉だ。」
「上方の荷を積んできた船ゆえな。若狭か近江か、そのあたりの言葉じゃろ。……わかったか。武家はあまり銭金のことは口にできぬゆえ、察せよ。」
「つまり、珍しいけもので、値が張るってことですね。若旦那にはとても手が出ない。」
「はっきり言いおる。……御所でお飼いではないのか? 雅な家ではよく飼われていると聞いたぞ。代官家でも、姉上方が一度飼うたことがある。すぐに死んでしもうたが……。」
「おふく様に伺えばよろしかろう。あの方は、御所のお女中をされていたそうじゃから、ご存知よ。」
「左様なのか。お前、よく知っておるな。……たとえお飼いだとしても、借りだせぬかのう?」
難しそうだな、と天才丸は思っている。もしも御所でどなたかがお飼いだとしても、鼠など獲らせるのはどうも厭がられそうであった。この時期の猫は、高価な愛玩動物だと思われていて、首輪をつけて紐で繋がれていることが少なくない。そこらへんに野良猫がいるわけでは、まだなかった。
「仕方ない。鼠ワナ(鼠取器)を工夫するか。」
どのみち天井裏にあがることにはなるのだ、と天才丸は嘆息した。
「それがよい。若旦那はちかごろ急に大きくなられたから、あんな騒ぎになったら天井板が落ちはすまいかと思うておりましたよ。」
りくが楽しそうに言った。
「なにか、毒を仕掛けておきますか。」
「毒はならぬ。」
天才丸は反射的に、強い調子で言ってしまう。
りくが怯えたように息を呑み、黙り込んでしまった天才丸を前に、自分は何か悪いことを言ったと思ってか、おろおろし始めた。
「あ、すまぬ。……何でもないのじゃ。ただ、そのようにおれは教えられたから、つい。」
「あたし、何か妙なことを申しましたか。毒、が悪うございましたか。」
天才丸は、ああ、と頷いたが、もう笑っているので、りくは安心した。
「毒を使う者は毒に溺れる。」
「はい?」
「と、父上に、……いや、南条の義兄上にも教えられた。お家の来し方を習ったときに……。」
天才丸は言いよどんだ。これ以上は、下女になど、いやたれにも言ってよい話ではなかった。
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