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断章 馬と猫(十)
しおりを挟む「お考えはわかりますが、それはなりませぬよ。」
「……何も言うておらぬ。」
「昨日の今日でございますので。……天才丸どのに、お馬を買ってやりたいと思し召しでしょう。」
「そこまでは。ただ、あの蠣崎だかの家の借金を返してやれば、……。」
「アオでしたかを、これからも手離さずとも済む。左様ではございますが、……よろしうございますか、姫さま、そのようなお金を、姫さまはお持ちではございませぬ。」
「えっ。ないのか?」
尊いご身分の方々は斯様じゃな、とふくは内心で溜息をついた。ふくとて御所の侍女からそこそこの武家の妻となり、その後は乳母、侍女として姫さまに仕えて続けてきただけだから、さほど世間を知るわけでも金銭に詳しいわけでもない。その目からしても、この人たちはどうもお金は御所のどこかから湧いて出てきて、必要に応じて持って来させれば良いとお思いよ、と嘆息するしかない。
「お馬をカタにとったわけですし、利銀がすでに一貫文。まあ借銭あわせて三貫文、四貫文はくだりますまい。」
「……あまり、銭の話など」
「するでない、と言われましても、姫さまからお話にあげられましたので、失礼いたしておりまする。」
「あの天才丸が出せた額が、一、であるが……。」
「ああ見えてあの子は、……いえ、天才丸どのは松前の出。蠣崎蝦夷代官どのは、近ごろはなかなかの有徳人(金持ち)ですから、ああやってわが子を送り出すときに、当座なにがあっても困らぬくらいのお金をつけてやったのでしょう。それをいっぺんに使い果たしてしまって、可哀想なことです。」
「であれば、いまふくの口にした額、天才丸は松前に頼むもできるわけか?」
なんだか逆につまらないような気分になったが、いや、と思い直した。
「……なかなかそれは、すまいな?」
「左様にございましょうね、天才丸どのは。さもなくば、ああはお困りではない。」
そうだ、遠い実家に弱音を吐いたり泣きついたりする真似を、あの子はなかなかできぬだろう、とさ栄は思った。
(それができるような者なら、とっくの昔に、―兄上に殺されかけたときにも、松前に逃げ帰っていよう。)
「意地張り。」
さ栄は呟くと、天才丸の姿を思い浮かべて、ふと笑った。
「武家の子ですからね。誇りがございましょう。……姫さまが、お命じになられますか。見苦しいゆえ、やせ我慢はやめて、お実家(さと)に言うて金を送って貰え、と。それならば、天才丸どのも従いましょう。なに、内心ではこれで助かったと思うやも知れぬ。お父上がいかに厳しくとも、あちらもご猶子になって貰わねば困るのじゃし、まあ、五、六貫文くらいすぐに出せるでしょう。」
さ栄は考えたが、首を振った。
「……助かった、とは思えまい。喜ぶまい。あの子の面目を潰す真似はできぬ。……左様なことをすれば、……」
こちらがあの子に見限られるわ、と言いかけて、さ栄は何故かその言葉は飲み込んだ。
天才丸は童子姿のまま隊列に加わることになったので、蠣崎家が属している備(部隊)の組頭は、最初戸惑ったらしい。
上からは事情を聞かされているし、その「上」の先が「兵の正」こと西舘さまらしいと聞いては厭も応もなかったが、蠣崎の耄碌どの(じいじどの)の名代だと言ってやってきたのは、いかにも子供であった。
(たいした仕事ではないと思って、舐めているのではないか。)
と、自分自身もきりのない巡視ばかりの「出動」に飽きかけているこの組頭は、誰にともなく苛立ちを覚えた。とりあえずは、よく知っている、蠣崎家の耄碌どのにたいしてである。
「内蔵助は先のお戦にて腰を痛め、いま折悪しくお勤めかないませぬ。身内の松前蠣崎より手助けに参りました次第です。」
「……それは大儀。」
この少年に怒っても仕方がないが、蠣崎家にも、ひいては上の方にも、言ってはおかねばならぬ。
「街道筋の掃除は、お家の大事な仕事じゃ。元服もまだの童を代わりに立てるのは、蠣崎内蔵助に些かの心得違いないか。」
「お叱り、ご懸念ごもっともと心得ます。この身の不徳の致すところに存じます。蠣崎天才丸は御覧の通りの未熟にて、……。されど、内蔵助の怪我の身にてお役に立てず。蠣崎からはせめてわたくしが、組頭さまのご教導に預かり、お勤め果たしたいと存じております。」
「左様は言うてもなあ、天才丸、か。危なくないとも言えんぞ。付近をざっと見回るだけでは、済まぬ日もある。今日がその日かもしれぬ。矢も飛んでくるぞ。」
「はい。」
「今日は何もない、ような気がする。じゃが、明日はわからぬ。これは気の長い仕事じゃ。野盗どもに出くわせば、とたんに小競り合いになって、人死にも出ぬとは限らぬ。逆に、こちらが待ち伏せを喰らうことすら、少し昔はあった。いまの西舘さまが我らを束ねられるようになって以来、それは減ったがな。」
(あっ、そういえばこやつは、西舘さまにお目通りあったとかで、特に目をかけられているらしいな。蝦夷代官だかの子か。なにか上のほうであるのじゃったな?)
組頭は、これは連れて行かないといけないのかと思ったが、少年の姿があまりにまだ子どもらしく、気が進まない。
「とにかく、気の長い仕事になるのよ。……だいたい、あの耄碌どのの腰は、戦の傷でもなんでもないわ。齢を取って痛めておるだけじゃろう。つっとおぬしがやるのじゃぞ?」
「浮浪の輩を退治る機会があれば、身の光栄、幸いに存じます。」
「いやな、おぬしのように小さい者が目の前で怪我をしたり死んでしもうたりするのは、勘弁じゃよ。」
組頭は本音を吐いた。気のよいこの武士は、子どもが戦いに参加するのを本能的に忌避しているらしい。
朝もやが晴れかけている。そろそろ出立しなければいけないところだが、こうして話をしてしまった以上、組頭としても引くに引けない。
「ともあれ、今日は、おぬしは置いていく。戻り、蠣崎の耄碌どのにわしの話を伝えよ。」
「それは、困りまする。」
「おぬしが、なにが困る?」
「おまちください。」
と、幼い声がした。ほんの小さな子が駆けてきた。
「千尋丸?」
「あ、蠣崎の、小さいのではないか。」
(また子供か。)
「兄上、お下がりください。じいじさまが、参ります。」
「ほう、よかったではないか。天才丸、ほら、おぬしが出るまでもないようじゃ。」
「そんなはずは……。じいじどのは、床から起き上がれなくなっておられる。」
「おい、そこまで悪いのか? 腰が?」
「でございますので、アオをお返しください。馬の背にしばりつけよ、と申されました。」
「じゃから、おれが代わりに出ると。」
「さすがにおひとりでは出せぬ。じいじさまが手本をしめさねば、まだおわかい兄上に、みな、おまかせするわけにはいかぬ。」
「お若い、とお前に言われても。いや、じいじどのが、左様言われたわけだが……。」
「はい、おもどりになられ、じいじさまをアオにしばりつけてくだされ。」
「左様なわけにいくか。」
「いい加減にせよ。」
組頭はたまりかねた。子供二人を戻らせて、自分たちは知らぬ顔で進発してもいいのだが、蝦夷足軽どもは連れていきたいし、後あとが面倒だ。
「蠣崎の耄碌どのが出られぬのはわかった。しかも、聞いた調子では、しばらくどころではないな。これ以上話が面倒になっても困る。天才丸、お前が出よ。小さいの、お前は気をつけて家に戻れ。」
天才丸は顔を輝かせた。
「わたしがじいじさまに叱られます。」
千尋丸が足をばたばたさせるかのような調子で言う。
(蠣崎には年寄りと子供しかおらんのか?)
「あとで天才丸と一緒に謝れ。……いや、組頭が左様に命じた。先達の蠣崎内蔵助どのとはいえ、命には服して貰う、とな。」
「かたじけのうございます。」
「邪魔になるなよ。行くぞ。」
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