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断章 馬と猫 (九)
しおりを挟む天才丸は一度、下女の悲鳴を聞いて土間の台所に駆け付けたことがある。
「若旦那(と天才丸は呼ばれていた)、鼠、鼠の大きいのが……。」
りくという下女は、齢の近い天才丸を自分の仲間のように思っているらしく、お武家だと知っていても気安い。
「なんじゃ、鼠くらい。おれは忙しい。」
(ふくといい、この家の女は、どうもおれを気安く呼びつけおる。)
「そうは言いますがね、若旦那。鼠はお米や麦を食いますよ。」
「じゃろうな。」
「若旦那にこっそり差し上げている握り飯の分、あれも鼠に食われてしまいますよ。」
(それは困るな。)
十三歳で成長期にある天才丸は、長屋の炊き出しの飯だけでは腹が減ってならないのだ。この当時は無論朝夕の二食だが、昼日中には目が回るほど空腹になることがある。
「この前、屋根から落ちかけたのでしょう? つまみ食いができないと、またああなりますよ。」
「……つまみ食いではないが。その、鼠はどこへ行った。」
りくは天井を見た。
「やれやれ、また、高いところにのぼるのか?」
(この音はなんじゃ?)
さ栄は茶道具から目をあげた。天井裏を走る音がする。
(鼠か? おお厭。……まだ昼間ぞ?)
埃が盛大に落ちてくる。さ栄は袂で器をかばって、上を向いた。
ふくがやってくる。
「鼠……?」
「左様にございますが、これは……。」
ふくは困った顔になる。
ひときわ大きな音がした。さ栄はありえぬほど巨大な鼠を想像して、顔から血の気を引かせる。
誰かが叫んだ。天井裏だ。
(ひと……?)
天井板が空いた。逆さに、ひとの顔が覗く。
「あっ。」
「鼠……?」
さ栄には、煤がついて真っ黒な、小さな顔が鼠のように見えた。
「……ご無礼いたしました!」
「天才丸どの! なじょう(なぜ)ここに出てこられる? ここは姫さまのお茶のお部屋ですよ。」
(よその家の天井裏だ。わかりゃあしませんよ。)
天才丸は言い返しかけたが、姫さまもいるのでは、そこまではできない。
「……降りる場所を、間違えました。」
「最初にのぼったところ―台所から降りればよろしかったのじゃ。」
「いや、鼠を捕まえましたので、早く下りないと、と思い、片手で開けられる板が、ここにちょうどございましたもので。」
「片手ですと? あ、あなた今、手に……?」
天才丸は片手に鼠を捕まえている。噛まれると面倒なので、抑えつけてくびり殺してしまった。気味が悪く、早く捨ててしまいたかったのだ。
「鼠をとらえるは、一苦労でございました。」
「早くお戻りなさいませ! ここで下りてはなりませぬ。」
鼠の死骸か何かを手に、下りてこられてはたまらないのである。
「もちろん、滅相もございませぬ。ご無礼いたしました。」
首をひっこめようとしたとき、天才丸は驚いた。
「……!」
うつむいていた姫さまは、怖いので目を背けていたのではないらしい。
笑い声が漏れた。腹を抑え、身を揉んで笑っている。
(姫さまが大笑いされているが……?)
天才丸は、不思議なものを見ているとしか思えない。頭を逆さにしたまま、逆立ちして見える姫さまが、笑い転げんばかりになっているさまに驚いていた。
「鼠かと思うたぞ? 鼠か、天才丸? 大きい鼠のような? ……ふ、ふくの様子も!」
「姫さま?」
ふくが、不思議におろおろした様子になる。こんな姫さまを何年ぶりに見たことか。どう振る舞ってよいのかがわからないのである。
笑い涙を拭って身を震わせる姫さまの姿に、天才丸は思わず、
「お笑いに、なられるのですね?」
落ち着きかけていたさ栄は、それにまた吹きだした。
「お前! お前が笑わせたくせに!」
(笑ったのう。ほんとうにおかしうて、……嬉しうて……。)
そうだ、さ栄はなにか嬉しくなったのだ。騒ぎを聞きつけて、下男や下女がやってきたが、笑いを抑えられなかった。そんな自分がおかしくて、また笑いが弾けた。
(あの子はまことに面白い。)
あれからいろいろあったが、今日は今日で、ようやく戦場での働きのきっかけを掴んだ間なしに、預かり先の借銭の利銀を払ってやり、おかげで懐中が空になってしまったと言う。
(さすがは武家の子じゃ。心映えすずやかなり。されど、……おかしい。)
さ栄は、天才丸の困った表情を思いだして、闇の中でひとり笑みがとまらない。
(よい子、……まことによい子じゃな、天才丸は。さ栄も、お前に何かしてやりたい。お手柄を立て、望み通り、御所さまのご猶子になれるとよいの。その手助けは、できぬかの?)
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