魚伏記 ー迷路城の姫君

とりみ ししょう

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断章 馬と猫 (八)

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 やってきたのは、明るい眸をした、十三歳にしては幼く見える顔立ちの少年だった。
(松前は蠣崎の、……天才丸、か。)
 背丈もさほどではなく、挨拶の声を耳にしても、たしかにまだ子どもであった。長兄にあたる御所さま―浪岡具運が気をつかってやった通り、それにさ栄は安堵していた。
(御所さまの猶子になりたいとか。……蝦夷侍の子には過ぎた望みにも思えるが、……。まあよい、その望み、かなおうとかなうまいと、いずれ。ここからすぐにいなくなるのじゃ。)
 さ栄は、他人に興味をもてない。
 目に見えて行儀正しくしようと努めている天才丸の姿にも、それ以上はなんの感想も浮かばなかった。通り一遍の声をかけてやると、すぐにその存在さえ頭から消えた。
 魚が陸に未練もなく、水底にすぐに潜ってしまうようであった。
 
 その少年をしょっちゅう、そばで見るようになった。
 ふくが彼を便利使いするからである。
 この離れ屋は、かつて上方の建築の流行を取り入れたものだったようだが、母屋ともにたち腐れしかけていた。補修の手間が絶えず、少年は壁の穴を塞いだり、歪んだ戸が開くようにしたり、崩れかけた垣根を整えたりに追われている。それは下男とともにであったが、一度はほんとうに屋根に上り、雨漏りを直した。すべて、たまにしか来てくれない大工職人の見様見真似であった。
「左様に荒く使うものではない。」
 天才丸が気の毒とはそれほど思えないが、少年がこの離れ屋で仕事を始めると、その目を恐れるように隠れるようにしなければならないから、さ栄は面倒でもあった。
 ふと眼をやると、庭先に職人のようないでたちになった童子髪の少年がいて、あわてて低頭されたりする。さ栄は緊張して、無言で逃げるように奥に下がってしまったものだ。
「そも、あれは番役であろう。」
「屋敷の前に立たせておればよいというわけに参りませぬよ。ご番役であればこそ、守りを固めて貰わねば。」
「守り。」
「……左様申しましたら、納得されたようで。」
(それは如何かな?)

 西舘・左衛門尉のことを知らない天才丸は、無論なにも納得はしていないが、だからと言って抗弁して仕事をやらぬわけにもいかないのであった。
(元服までの辛抱じゃ。ここで粗相がなければ、いずれ御所さまからお呼びがあろう。)
 そこは子供らしく、一人合点の希望的観測がある。また、それにすがらねば、この蝦夷代官家の三男坊は、ただひとりの異郷でやってはいけないのである。

 さ栄もやがてそれに気づくと、はじめてひどく殊勝にも哀れにも思った。
(このようなところにいては、なかなかお目にもとまるまいに。)
(それなのに、言われるままによく働いてくれおるようじゃ。)
(なにかねぎらいの言葉でもかけてやりたいが、……。)
 相手はほんの子供だというのに、やはり他人はおそろしくてならない。会話の果てに、どんなにつらい目に遭わされるかわからないと思えるのである。あのふくですら、意図せずにさ栄の気持ちを沈ませる一言を時どき吐くではないか。それにくらべて、
(書物はよい。書物のうちのひとは、決してわたくしを苦しめぬ。思いもよらぬ言葉や振る舞いも、決してわたくしを傷つけぬ。)
 浪岡に戻れてうれしいことがあったとすれば、ひとつはそれであった。
 
 浪岡御所の中枢部がある内舘には、御書庫と呼ばれる行政文書の保管庫があったが、そこには武家化した公家の家らしく、さまざまな書籍も所蔵されていた。官位を得た先々代以来の蒐集が主だが、それより前から伝えられてきた本も多い。
 浪岡入城より前、奥州の北畠氏自体は南部氏の客将に過ぎなかったが、本家ともいえる伊勢北畠氏との交流は切らさず、南部氏に対しては京文化のある種の指南役の働きもあったようだ。そのときから、上方の様々な書物を取り寄せていたのだろう。
 少女時代のさ栄は、近ごろ流布し始めた抄本や版木本ではない、貴重な写本の『源氏物語』や『枕草子』を夢心地に読みふけったし、名のある歌人の筆写と伝わる『古今』『新古今』の華麗な写本にも熱中した。
 そうした文藝への耽溺が空想癖や性的早熟につながり、あの悲劇の下地になったのは否定できない。自分でもそれがわかるから、あれほど愛していた『源氏』などの物語にはこの数年手を触れることがなかったし、恋の歌に近づくのも避けた。
 代わって歌論を読み直すようになったのは、浮ついた感情をある種のルールやテクニックで整理してしまう議論にこそ、心落ち着くところがあったからかもしれない。
 浪岡城の外郭部にひっそりと住みついてから、思いついては御書庫から本を取り寄せてみた。近頃は、やや廉価な書物も出ているから、それらは気兼ねなく手元に残しておける。
 天才丸を御文庫に使いに出すと、毎回なんの間違いもなく書物を持ってきてくれた。
 最初、それを命じたとき、
(あれは、漢字(まな)が読めるのか?)
 と気づいて心許なかったが、これは見損なっていた。
 御文庫の者に紙片を手渡すだけではないらしく、むこうからの伝言も心覚えに記して持ってくる。いかなる本かもちゃんとわかっているようだ。蝦夷武士なども、立派なこの時代の読書階級ではあるらしいと、さ栄は知った。

(あの子に、褒美でもやりたいものだが、なにもないな。)
 珍しい菓子でもと思ったが、引っ越したばかりのこの離れには、甘いものなど見当たらない。わざわざ北館に頼んで、持ってこさせるのもおかしいように思った。
 そのとき。ふと考えついた。
「『源氏小鏡』。これは、お前が読みなさい。」
 持ってこさせる本の名を記した書付けの末尾に、『源氏物語』の梗概をまとめた本の名を書いた。
「浪岡北畠の士ならば、知っておかねばならぬものじゃ。」
 それだけ言うと、やや驚いているらしい少年にくるりと背を向けた。これだけで、息が詰まる。
「かたじけのうございます。源氏は久しぶりに読みまする。懐かしうございます。」
 元気な声を背中に受け、振り向いた。
「蝦夷島にも、……光源氏の物語は渡っているのかえ?」
「はい、おそらく抄本にはございましょうが、いくらかは。」
 貿易港として栄えはじめている松前には、諸国の物産が入る。上方から敦賀に流れ、さらに船に乗って秋田あたりでは下りず、蝦夷島に渡って干し鮭や昆布や毛皮と交換された『源氏物語』もあったのだろう。それが代官の家の者に読まれていたのだと、さ栄は思った。
「お前も読んだのか。」
「はい。わたくしは、若紫の巻のお話をとくに好みまして。」
「それはよいな。……おいき。」
 少年は恭しく低頭して内館の御書庫に向かったが、その背中を見ながら、さ栄は笑いがこみ上げてくるのを覚えた。
(あんな子供が、若紫!)
 自分も子供の頃に読んで、悪い恋愛の夢を見たのではないか、とほろ苦く思い当たるまで、さ栄の中に笑いだしたい気持ちがさざ波のように立ってやまなかった。

 
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