78 / 177
断章 馬と猫(二)
しおりを挟む
その西舘の左衛門尉が、天才丸に家中の「蠣崎家」での勤めを命じてきたのは、意外であった。
「お受けしなさい。」
と一も二もなく勧めてくれたのは、姫さまである。
家中に蠣崎などという家があるのを主家の自分が初めて知ったくらいだから、おそらくはそう大した武門ではない。だが、元服前だから好都合とばかりに、後家の出戻りの世話をさせられているのでは、少年に浮かぶ瀬はないだろう。望んでいると聞く、猶子としての元服の邪魔をしてやってはならないと思った。
(おれという番役を姫さまから引き剥がそうという魂胆ではないか?)
天才丸はふと―少年らしく自意識過剰なことを―思ったが、そういうことでもないらしい。
「さ栄のところで、歌や茶道具の扱いの話を聞かねばならぬのは、厭かえ?」
姫さまは少し笑みを浮かべて、からかう。内心では、この子がまったく離れていくのではなかったので、なにか安堵するものがある。
「滅相もございませぬ。たしかに浪岡御所にお仕えする立派な北畠武士になりたければ、蝦夷島での手習いなどでは済みますまい。まことに、かたじけなく存じ上げております。」
「ならば、よろしいでしょう。忙しかろうが、このように日を定めて修練するが肝要。さ栄などのところであっても、何か役には立ちましょう。」
天才丸は低頭したが、あの、ほとんど口もきかれなかった姫さまがこんなにもやさしく喋ってくれるのが、うれしくてならない。
(姫さまはお声もまろく、美しい。)
「はい。無論、ありがたきことにて。それにしても、西舘さまは何故……いや、何でもございませぬ。」
「何故、兄上が津軽の蠣崎家に行くように計らってくれたのか、か?」
姫さまの声が尖ったりしていないので、慌ててまた顔を伏せた天才丸はほっとした。
(あの兄上さまのことなど、思い出されたくもないであろうに、口に出してしもうた。お怒りがなくて、幸い……。)
「お前に見込みがあるとお考えなのであろう。」
「左様なことは。」
たしかに番役として、命懸けで戦おうとしたが、結局は素手で立ち向かってもまるで歯が立たず、気を喪っただけではないか。
「……通りすがりに、剣の稽古をつけて下さったことがあったのじゃな?」
「あれは。」
無名舘の空き地で木刀を振っているところを、通りすがりのように現れた西舘に、言ってみればからかわれ、地面に転がされたのだ。結局は脅かしに真剣で斬りつけられただけだとも言えるし、とくにスジの良いところを見せられたとも思えない。
しかも、そもそも西舘がなんのために供連れでとはいえわざわざ無名舘までやってきたかを考えれば、
(姫さまの周囲を探りにきたのではないか。そして、番役が大したことはないと確かめたから、そのあと、ひとりで忍んできおった。)
(このたびのこととて、何を考えてのことか……。)
天才丸の疑心は顔に出ている。さ栄は溜息をつく思いだ。
(無理もない。この子は、危うく殺されかけたのだ。)
しかも、
(……この、わたくしのせいで!)
それを思うと、さ栄は天才丸に済まない気持ちでいっぱいになる。
と同時に、やや内心で混乱している。
天才丸の怖れや迷いをよく知りながら、何故西舘の命に服して蠣崎家に行くことを自分が勧めているのか、ふとわからなくなってくるのだ。はたして、蝦夷島の少年の前途を思ってやってだけのことだろうか。
(兄上のよきお心根を、このわたくしが信じたいがゆえではないか? 兄上は、やはり心やさしき、よいお人じゃ、見込みのある男の子を鍛え、引き揚げてやろうという気がおありじゃ、……と、さ栄がまだ信じたくてならぬから、気のすすまぬこの子を急き立てているのではあるまいか?)
(天才丸の疑う通り、事情を知る番役を、わたくしから少しは引き剥がしておこうという企みやもしれぬ……そう思いながら?)
(まさか、わたくしは心の底で、また待ちわびている?)
さ栄は、思わず頭を抱えそうになった。
(左様なはずはない! いくらさ栄が愚かというても、さすがに、あのような罪を重ねたいとは思わぬ! 御所さまに申し訳がたたぬ! いや、わたくしが、このわたくしが、あの汚らしいあやまちはもうご免なのじゃ!……二度と、兄上と、あのような、……!)
さ栄は、何年も前の、男の身体の重みを思い出してしまう。衝撃に、目の前が昏くなった。
「姫さま、ご気分がお悪いようでございます?」
気づくと、天才丸が心配げに下座からこちらを覗っている。さ栄は息を整えた。幸い、あの全身を覆う赤い「鱗」の痒みは起きていない。
「天才丸や。いろいろお考えのようじゃが、一番大事なのは何か。お前が御所さまのお目にとまり、ゆくゆくご猶子として元服を許されることじゃろう。繰り返すまでもないが、このたびの話は、そのきっかけ……ではないのかえ?」
「まことに左様にはございましょうが、……。」
「お前にもご大志があろう。その大志は如何する?」
天才丸ははっとしたようだったが、何かうれしげに低頭すると、明るい顔をあげた。
「姫さま、ご懸念下さり、まことにかたじけなく存じます。」
さ栄は天才丸が生気みなぎる様子になったので、安心した。
「よう、おわかりのようじゃな。」
「はい。大志。……」
天才丸は微笑した。ふふ、と声が出て、恐縮する。
(なにを、笑う?)
「……申し訳ございませぬ。畏れ多いことながら、姫さまが、郷里の姉と同じことをおっしゃられたもので。」
「姉君がおいでか。……志を大事に、と申されたのじゃな?」
「はい。……左様に言われて、天才丸は松前を発ちました。いまこちらで、まるで同じお言葉を賜りました。それが何やら、うれしうて……。」
さ栄はなぜか頬が赤くなる気持ちがしたが、咳払いして、頬笑んだ。
「その姉君から、さ栄はお前をお預かりしておる。同じ忠言は、出るであろうよ。」
今度は、どうしたものか、天才丸が上気した。
(姫さまは、この浪岡での姉上のようじゃなあ。)
と思うと、何か気恥ずかしい思いになったのだ。
「お受けしなさい。」
と一も二もなく勧めてくれたのは、姫さまである。
家中に蠣崎などという家があるのを主家の自分が初めて知ったくらいだから、おそらくはそう大した武門ではない。だが、元服前だから好都合とばかりに、後家の出戻りの世話をさせられているのでは、少年に浮かぶ瀬はないだろう。望んでいると聞く、猶子としての元服の邪魔をしてやってはならないと思った。
(おれという番役を姫さまから引き剥がそうという魂胆ではないか?)
天才丸はふと―少年らしく自意識過剰なことを―思ったが、そういうことでもないらしい。
「さ栄のところで、歌や茶道具の扱いの話を聞かねばならぬのは、厭かえ?」
姫さまは少し笑みを浮かべて、からかう。内心では、この子がまったく離れていくのではなかったので、なにか安堵するものがある。
「滅相もございませぬ。たしかに浪岡御所にお仕えする立派な北畠武士になりたければ、蝦夷島での手習いなどでは済みますまい。まことに、かたじけなく存じ上げております。」
「ならば、よろしいでしょう。忙しかろうが、このように日を定めて修練するが肝要。さ栄などのところであっても、何か役には立ちましょう。」
天才丸は低頭したが、あの、ほとんど口もきかれなかった姫さまがこんなにもやさしく喋ってくれるのが、うれしくてならない。
(姫さまはお声もまろく、美しい。)
「はい。無論、ありがたきことにて。それにしても、西舘さまは何故……いや、何でもございませぬ。」
「何故、兄上が津軽の蠣崎家に行くように計らってくれたのか、か?」
姫さまの声が尖ったりしていないので、慌ててまた顔を伏せた天才丸はほっとした。
(あの兄上さまのことなど、思い出されたくもないであろうに、口に出してしもうた。お怒りがなくて、幸い……。)
「お前に見込みがあるとお考えなのであろう。」
「左様なことは。」
たしかに番役として、命懸けで戦おうとしたが、結局は素手で立ち向かってもまるで歯が立たず、気を喪っただけではないか。
「……通りすがりに、剣の稽古をつけて下さったことがあったのじゃな?」
「あれは。」
無名舘の空き地で木刀を振っているところを、通りすがりのように現れた西舘に、言ってみればからかわれ、地面に転がされたのだ。結局は脅かしに真剣で斬りつけられただけだとも言えるし、とくにスジの良いところを見せられたとも思えない。
しかも、そもそも西舘がなんのために供連れでとはいえわざわざ無名舘までやってきたかを考えれば、
(姫さまの周囲を探りにきたのではないか。そして、番役が大したことはないと確かめたから、そのあと、ひとりで忍んできおった。)
(このたびのこととて、何を考えてのことか……。)
天才丸の疑心は顔に出ている。さ栄は溜息をつく思いだ。
(無理もない。この子は、危うく殺されかけたのだ。)
しかも、
(……この、わたくしのせいで!)
それを思うと、さ栄は天才丸に済まない気持ちでいっぱいになる。
と同時に、やや内心で混乱している。
天才丸の怖れや迷いをよく知りながら、何故西舘の命に服して蠣崎家に行くことを自分が勧めているのか、ふとわからなくなってくるのだ。はたして、蝦夷島の少年の前途を思ってやってだけのことだろうか。
(兄上のよきお心根を、このわたくしが信じたいがゆえではないか? 兄上は、やはり心やさしき、よいお人じゃ、見込みのある男の子を鍛え、引き揚げてやろうという気がおありじゃ、……と、さ栄がまだ信じたくてならぬから、気のすすまぬこの子を急き立てているのではあるまいか?)
(天才丸の疑う通り、事情を知る番役を、わたくしから少しは引き剥がしておこうという企みやもしれぬ……そう思いながら?)
(まさか、わたくしは心の底で、また待ちわびている?)
さ栄は、思わず頭を抱えそうになった。
(左様なはずはない! いくらさ栄が愚かというても、さすがに、あのような罪を重ねたいとは思わぬ! 御所さまに申し訳がたたぬ! いや、わたくしが、このわたくしが、あの汚らしいあやまちはもうご免なのじゃ!……二度と、兄上と、あのような、……!)
さ栄は、何年も前の、男の身体の重みを思い出してしまう。衝撃に、目の前が昏くなった。
「姫さま、ご気分がお悪いようでございます?」
気づくと、天才丸が心配げに下座からこちらを覗っている。さ栄は息を整えた。幸い、あの全身を覆う赤い「鱗」の痒みは起きていない。
「天才丸や。いろいろお考えのようじゃが、一番大事なのは何か。お前が御所さまのお目にとまり、ゆくゆくご猶子として元服を許されることじゃろう。繰り返すまでもないが、このたびの話は、そのきっかけ……ではないのかえ?」
「まことに左様にはございましょうが、……。」
「お前にもご大志があろう。その大志は如何する?」
天才丸ははっとしたようだったが、何かうれしげに低頭すると、明るい顔をあげた。
「姫さま、ご懸念下さり、まことにかたじけなく存じます。」
さ栄は天才丸が生気みなぎる様子になったので、安心した。
「よう、おわかりのようじゃな。」
「はい。大志。……」
天才丸は微笑した。ふふ、と声が出て、恐縮する。
(なにを、笑う?)
「……申し訳ございませぬ。畏れ多いことながら、姫さまが、郷里の姉と同じことをおっしゃられたもので。」
「姉君がおいでか。……志を大事に、と申されたのじゃな?」
「はい。……左様に言われて、天才丸は松前を発ちました。いまこちらで、まるで同じお言葉を賜りました。それが何やら、うれしうて……。」
さ栄はなぜか頬が赤くなる気持ちがしたが、咳払いして、頬笑んだ。
「その姉君から、さ栄はお前をお預かりしておる。同じ忠言は、出るであろうよ。」
今度は、どうしたものか、天才丸が上気した。
(姫さまは、この浪岡での姉上のようじゃなあ。)
と思うと、何か気恥ずかしい思いになったのだ。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる