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第「零」章 浪岡城址 その六
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「左様か。さ栄でいたいのじゃな?」
「具運」は、格好に似合わない、生前に似た言葉遣いであった。さ栄は頷く。
「このままでおりますれば、いずれ兄上と同じになれます。……じゃが、さ栄は蠣崎新三郎を忘れとうございませぬ。」
「それを確かめんために、儂はここに戻った。」
「お手数、痛み入りまする。」
「なに、妹と斯様に話をしたかった。……浪岡具運ならば、さに思うたはず。」
「具運」は、かつて愛する妹に向けていた笑みを浮かべた。
「兄上。……お教えください。如何いたせばよろしいのでございましょう? わたくしは、新三郎と一緒にいとうございます。その方策が、思い浮かびませぬ。わかりませぬ。」
「わからぬ? 左様か、さ栄はわからぬのか。……それはもう、お前がなすべきことをを果たしておるがゆえじゃな。」
「あっ。」
「さ栄、お前の望みはもうかなっているようじゃ。お前は、ひとに戻っているのじゃよ。無論、斯様になっておる以上、お前の身はすでに滅しておる。生身の躰にて生き返る、という真似はとうにできぬ。じゃが、……。」
「はい。ではござりますが、いったい、この後、如何すれば……?」
後、ではないな、とさ栄は気づいた。この城がある時代で、自分はそのために何かをすでにしたのだ。それは、……。
瞬時閉じていた目を、さ栄は開いた。
「松前、蠣崎家臣、河野氏の娘でござりますか。」
さ栄には、心に無惨なひびを入れられてしまった、幼女の姿が見える。
(だが、これ以上は、見るまい……。知るまい……。)
さ栄は決意した。すべてを見通すことは、まだ自分にはできるだろう。だが、もうすまいと思った。
(ひとに戻りたいのなら、それはならぬ。)
「具運」は、少し寂し気な表情にもなったが、さ栄の様子には満足げに頷いた。
「わかったようじゃな。……さ栄、お前は茶器の割れたを接ぐのが上手かった。あのように、やってやれような。」
さ栄は、はい、と頷いた。そして気づいて、尋ねる。
「兄上さま。……もうお目にかかれませぬか?」
「具運」は黙っている。さ栄は、自分たちと一体化して無窮の存在の一部になるよりも、蠣崎新三郎というひとりの人間とともに生きるのを選んだのだ。
「河野の幼い娘……真汐もまた、いずれその身は滅する。そのときには、また斯様な形でお前に会うことになるやもしれぬ。」
「それまでは……?」
さ栄の震える声を、「具運」は感知した。それによって、肉親との別離の悲しみ……と簡潔に整理できるものだけではない、なにものかの情動が自分の中に生じたのがわかった。
こうしたときに、生前の浪岡具運という人間ならば何をどう言うのかはわかる。「具運」の形を取った者は、それを言いたくなった。微笑んだ。
「嫁に出してやるは、二度目か? このたびこそは、兄としてうれしいぞ。」
「あ、兄上っ……!」
呼びかけた相手の力であったのだろうか、一瞬で時間と空間を移動していた。
(さ栄、忘れてはならぬ。お前はもう、母になったではないか。)
さ栄の両手に、いつの間にか、心細いほど軽い、赤子がいた。
「兄上さま、かたじけなく存じます……。」
さ栄は自分が、松前にいるのがわかる。蠣崎家の本拠地、大舘のある松前である。
(やがて、あやつも来おる。きょうだい揃うて会うときも、いずれあろうぞ。)
あやつ、とは小次郎―次兄のことだろうか。
さ栄は嗚咽しながら、頷いた。
松前は雪だ。大館の武骨な建物の下に、家々の板屋根が白い雪に化粧されて、うずくまっていた。その尽きる先に、昏い水の色がある。
(じゃが、これではまだ、海を見たことにはなるまい。)
これからしなければならぬことは、さ栄にはすべてわかっていた。
「具運」は、格好に似合わない、生前に似た言葉遣いであった。さ栄は頷く。
「このままでおりますれば、いずれ兄上と同じになれます。……じゃが、さ栄は蠣崎新三郎を忘れとうございませぬ。」
「それを確かめんために、儂はここに戻った。」
「お手数、痛み入りまする。」
「なに、妹と斯様に話をしたかった。……浪岡具運ならば、さに思うたはず。」
「具運」は、かつて愛する妹に向けていた笑みを浮かべた。
「兄上。……お教えください。如何いたせばよろしいのでございましょう? わたくしは、新三郎と一緒にいとうございます。その方策が、思い浮かびませぬ。わかりませぬ。」
「わからぬ? 左様か、さ栄はわからぬのか。……それはもう、お前がなすべきことをを果たしておるがゆえじゃな。」
「あっ。」
「さ栄、お前の望みはもうかなっているようじゃ。お前は、ひとに戻っているのじゃよ。無論、斯様になっておる以上、お前の身はすでに滅しておる。生身の躰にて生き返る、という真似はとうにできぬ。じゃが、……。」
「はい。ではござりますが、いったい、この後、如何すれば……?」
後、ではないな、とさ栄は気づいた。この城がある時代で、自分はそのために何かをすでにしたのだ。それは、……。
瞬時閉じていた目を、さ栄は開いた。
「松前、蠣崎家臣、河野氏の娘でござりますか。」
さ栄には、心に無惨なひびを入れられてしまった、幼女の姿が見える。
(だが、これ以上は、見るまい……。知るまい……。)
さ栄は決意した。すべてを見通すことは、まだ自分にはできるだろう。だが、もうすまいと思った。
(ひとに戻りたいのなら、それはならぬ。)
「具運」は、少し寂し気な表情にもなったが、さ栄の様子には満足げに頷いた。
「わかったようじゃな。……さ栄、お前は茶器の割れたを接ぐのが上手かった。あのように、やってやれような。」
さ栄は、はい、と頷いた。そして気づいて、尋ねる。
「兄上さま。……もうお目にかかれませぬか?」
「具運」は黙っている。さ栄は、自分たちと一体化して無窮の存在の一部になるよりも、蠣崎新三郎というひとりの人間とともに生きるのを選んだのだ。
「河野の幼い娘……真汐もまた、いずれその身は滅する。そのときには、また斯様な形でお前に会うことになるやもしれぬ。」
「それまでは……?」
さ栄の震える声を、「具運」は感知した。それによって、肉親との別離の悲しみ……と簡潔に整理できるものだけではない、なにものかの情動が自分の中に生じたのがわかった。
こうしたときに、生前の浪岡具運という人間ならば何をどう言うのかはわかる。「具運」の形を取った者は、それを言いたくなった。微笑んだ。
「嫁に出してやるは、二度目か? このたびこそは、兄としてうれしいぞ。」
「あ、兄上っ……!」
呼びかけた相手の力であったのだろうか、一瞬で時間と空間を移動していた。
(さ栄、忘れてはならぬ。お前はもう、母になったではないか。)
さ栄の両手に、いつの間にか、心細いほど軽い、赤子がいた。
「兄上さま、かたじけなく存じます……。」
さ栄は自分が、松前にいるのがわかる。蠣崎家の本拠地、大舘のある松前である。
(やがて、あやつも来おる。きょうだい揃うて会うときも、いずれあろうぞ。)
あやつ、とは小次郎―次兄のことだろうか。
さ栄は嗚咽しながら、頷いた。
松前は雪だ。大館の武骨な建物の下に、家々の板屋根が白い雪に化粧されて、うずくまっていた。その尽きる先に、昏い水の色がある。
(じゃが、これではまだ、海を見たことにはなるまい。)
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