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第「零」章 浪岡城址 その五

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(あれは、わたくしじゃ!)
「新三郎……!」
 かつて「さ栄」だった存在は、浪岡城址の草地にしゃがみ込んで、小さく叫んだ。
(なんということ、わたくしは新三郎をすぐには思い出せなかったのか? ……そのようになってしまっていた!)
 おそろしかった。自分が何か得体のしれない者になりかけ、それを自然に受け入れていたのを思うと、ただつらく、おそろしかった。
「死」そのものへの感情に、それは似ていただろう。
(躰から解き放たれ、新三郎のところに行けるかと思うたのに……。)
(このようになれば、ただ見守るのすらも、かなわぬのか。)

 蠣崎新三郎慶広という歴史上の人物の知識は十分に持っていた。織豊時代から江戸初期までを生きた、蝦夷島(北海道)の武将。前時代までは、蝦夷島南部の一角のみ、しかも秋田・安東家の「代官」としての統治に過ぎなかった蠣崎家支配を、中央に成立したばかりの「天下」政権と巧みに通じることで、ほぼ全島規模にまで拡大した。蠣崎家あらため松前家による支配は、のち松前藩と呼ばれる。独占的な蝦夷地交易を軸として富み栄える一方、のちの松前藩による蝦夷地現住民支配は代々苛烈さを増し、……。

 だが、そんな知識ではとうてい及ばぬほど深く、強く、さ栄は新三郎という人間を知っていたではないか。ともに生きていたではないか。
 自分を救い、いつも懸命に守ってくれたひと。そして自分も、全てを捨てても救い出したかったひと。
それを記憶から消去しようとしていたことは、かつてさ栄だった者に、全身が震えてならないほどの深甚な恐怖を与えていた。
(たとい身は滅んでも、新三郎をつっと見ていけると信じたのに……。)
 本物の、取り返しもつかない別れが迫っているのに気づいた。完全な離別とは、忘れ去ることなのだろう。
(……厭じゃ。わたくしは……そう、さ栄は、新三郎を忘れたくない! 新三郎どのをけして、忘れてはならぬ!)

 その時、懐かしい声が響いた。
「お前はなお、それを望むのか。」
 頭を抱えてうずくまっていたさ栄は、声を振り仰いだ。
「御所さま……兄上さま!」
 そこには、かつて御所さまと呼んだ長兄、浪岡北畠氏九世当主、浪岡具運の姿をしたものが立っていた。顔かたちはそのまま、さ栄の記憶にあるとおりだ。だが、
「もはや、兄ではない。浪岡具運の記憶は知っていて、それも自在に取り出せる。それゆえにこの姿もとれるが、もう、別のものになった。」
「……兄上さまではいらっしゃらない?」
「うむ、お前もすぐにそうなるように。」
 しかし、そこにいるのは、先に死んだ兄に違いがないようだった。さ栄は地面に平伏する。
「やめよ。そのような格好で、その礼をとってもらっても、……困る。」
 なるほど、とさ栄は思った。目の前にいる「具運」だった者も、この場所が浪岡城だった時期の本来の服装ではなく、「史跡・城址公園」に立っているのに相応しい服装だ。
 気づけば、自分もそのような格好だった。この時代の服装の知識も持っているので、抵抗感もない。
「そのやさしいおっしゃりよう、兄上さまに違いありますまい。」
 さ栄はうれしかった。大恩のある、それなのに悲惨な最期をみとることもできなかった兄に、また会うことができたと思えた。
「……違うと言うに。しかし、さ栄、……さ栄と呼ぶぞ?」
「はい。うれしゅう存じます。」
「さ栄、少し歩きながら話そう。内館の跡に参ろう。」
 ふたりは、生きていたときにはついぞあり得なかった風に、肩を並べてゆっくりと草を踏んでいった。
 よもやま話の必要は、しかし、本当はなかった。ふたりの姿をとっているのは、巨大な知識・情報や思念の集合体の端末とも言うべき一部と、回収を受け、それになる途中の個体である。ほぼ全ての意思は、出会ったときに、無言のうちに瞬時に通じあっていた。
 風がやむと、鳥の声が降ってきた。


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