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第「零」章 浪岡城址 その四

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 松前、そして出羽と、武者たちの一行がひそかに船を乗り継いでいく。
 それは、かつて「さ栄」だった者には、また無人の浪岡城址に一瞬に戻ってきたときにも、はっきりとわかった。空間的にも時間的にも、距離というものは、このようになった者にとってもう関係がないのだ。
 明るい海、昏い海を、武者が主君一家を守って、懸命に行くのがありありと見える。小さな船で波を浴び、松前からはやや大きな船に、落ち延びる一行を隠した。

 海とはこのようなものか、とはもう思わない。海についての知識そのものは溢れるほどに豊富にある。ただ、
(潮の香も、海風も感じぬな。そうしたものがあるのはよく知っているのだが……。)

「御所さま……これにてご無礼申し上げます。」
「やはり、おぬしは我が家を離れるか。亡き先代さま―父君のご猶子であったが。」
 み台所の実家である秋田安東家に匿われる身になった浪岡顕村は、ここまでつき従ってくれた武者に去られるのが心細く、つらいようであった。
「御恩は終生忘れませぬ。しかし、松前に戻らねばなりませぬ。」
「よい。蝦夷島にこそ、おぬしの仕事があろうよ。……別れるは、身を切られる思いがするが。」
「いえ、この檜山屋形(秋田安東家)にて、お目にかかれることもございましょう。」
「……じゃが、もう、我が家臣とは呼べぬな。」
 わかってくれるのか、と武者はあらためて低頭する。かれ自身の複雑な立場がある。
「おぬしの家は、この安東どのの代官じゃ。その厄介(居候)となった浪岡北畠が、おぬしを家の者扱いしてはならぬな。」
「御所さまには、累代の立派なご家臣がなお側におられます。」
「もう、御所ではないが……。この命を拾わせてくれたのは、おぬしであった。かつて出仕していたというだけで、よう命を張ってくれたな。礼を言う。」
 武者は身を震わせた。青年君主への思いもあるが、なぜここまで尽くしたのかを考えると、激しい感情が起きる。
「勿体のうございます。……もし、もしもお礼ならば、御所さまの、亡き叔母上さまに申されてくださりませ。拙者がまかり越しましたは、御恩を被りました、元服前の最初のおん主たる、かのお方のご遺命とも存じております。」
「叔母上?」
「お覚えにござりましょう。無名舘にお住いでいらした……。」
「おお。無名舘の天女さまか。覚えておる。」
 
 (無名館……。)
 かつて「無名(ノ)舘」とも呼ばれる城の外郭だった平場のあたりに眼をやると、あの頃の「無名舘」の姿が蘇えった。櫛が抜けるように建物が減っていったことがわかる、寂しい「舘」だが、記憶がある。

 廃屋に近い古びた屋敷に隣接した離れ屋に、息せき切って元服前の少年が駆けこんでいく。
(また、なにかの用事を頼まれたのじゃな。大儀なことで、すまぬの。)
 その少年は、走りながら、先ほどの武者の姿になった。
 また、落城の夜だ。屋敷は燃えている。離れ屋にも火が回った。
 武者は、怒りと悲しみを抑えきれない様子で瞬時、立ちすくんだ。
 だが、なにかの感傷を振り払う様子で、兵をまとめ、敵兵の満ちる北館への道を急ぐ。
 そこから内館に突入し、「先ほど」のように若い主君を救出「した」のであろう。

 「まだ」燃えていない、離れ屋に、わざと、生身の人間が歩くように近づいてみた。足音などたつはずはないのに、なぜかこっそりと忍ぶように生け垣をくぐる。
 落城の阿鼻叫喚とは、別の夜だ。落城よりも十年以上前だろうか。
月が明るいなか、静かであった。虫の声がする。
 小さな灯が黄色く照らす部屋のなかで、まだ少年の気配を残した武者が、誰かを相手に楽し気に笑っている。
ふと会話が途切れたとき、ひどく真面目な顔になった。座ったまま、誘うように手を広げた。
向かい合っていた女が、ゆっくりと身を傾けて、倒れるように、その胸の中に入った。若者は、愛おしい女の背に手を回し、力を込めた。女が、切なく息を吐く。男の広い胸に頬を当てて、仕合せそうな笑みを浮かべた。
(あれは……!)

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