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第「零」章 浪岡城址 その三
しおりを挟むそのとき、また、先ほどの落城の場所に身を置いていた。
目の前を、一人の武者が駆け抜ける。供を連れ、喊声とともに、燃え盛る御所の本館に飛び込もうとしている。
(あっ!?)
思わずその姿に手を伸ばした。
(誰だったか……あれは?)
また、わからなくなっていた。体感ではつい先ほど、そうなりかけていた「全てを知る者」から、いくらかも元に戻っているのがわかる。
血と泥にまみれ、火の熱を受けてささくれだった防具の肩に、触れようとした。疾走する武者が飛び込もうとする火のなかに先んじて入ることなど、もはや造作がない。
ところが、手は彼の躰を通り抜けた。やはり、……という失望感がある。
「御所さま! お早まりなさるな!」
主君の青年―最後の浪岡御所、浪岡顕村だろう―が切腹しようとするのを止める。こちらもまだ三十手前か。
「御所はたしかに陥ちましょう。しかし、北畠さまの尊いお血を絶やしてはなりませぬ。……ご安心召され。出羽にお連れ申す。」
武者は、こんな業火の迫るなかで、笑ってみせた。火に照らされた横顔は精悍の限りだが、瞳は知性に光っている。
(たれだったか? たしかに見覚えある! ああ、思い出したい!)
「亡き御所さま、大御所さまに託された城を守れなんだ。生き恥をさらせと申すか? 秋田の実家に逃がしてやってくれるは、み台と若だけでよい。」
「左様は参らぬ。……わたしがまた浪岡御所に参りましたのは、亡きご旧主のお命じになったを守らんため。……わが力もまた至らず、この仕儀となりました以上は、御所さまのお命お守りいたします。……それだけは譲れませぬな。」
言いながら、部下たちに城主夫人と小さい子供たちを守らせ、敵勢のまだ少ない出口に向かわせる。その指図は、落ち着いていた。
「儂は残るぞ。」
「大浦なんぞの前で切腹するよりは、……と思し召しか。……安東さまのもとで臥薪嘗胆いたされ、いつかは逆にやつが腹を切るのをご覧あそばせ。」
「……。」
「参りますぞ。」
武者は、顕村の腕をやや強引にとった。
「御所さま。わしは御所さまをほんのお子の頃から存じております。年寄りの頼みを聴いて下され。」
「おぬしとて、儂と十くらいしか変わらぬ、子どもであったろう。」
「違いもござらぬ。」
武者は、主君の気持ちを変えられたと見て、やや安堵したのだろうか、髭面を崩して笑った。
二人は火を避けて走り出した。生き残った御所の者たち数名がつき従い、その周囲を守る。
武者たちが血刀を振るって囲みを破り、自分の家の兵たちが抑えて待ち受けていた海辺の村落に逃げこんだときには、すでに夜はしらじらと明けていた。
「ここはどこか。あれは海じゃろう。」
小さな若君が珍しそうに訊いた。昇ったばかりの陽が波を金色に輝かせている。
「海が東にあるのか。」
「畏れながらさすがのご凛質じゃ」
と、疲労の極にあるくせに、武者は笑った。子供が好きなのだろうか。
「ここより、わが松前にいったん向かいまする。」
(松前……!)
傍に立っているが誰の目にもみえない者は、その名に緊張した。
(わたくしが、如何様にしても行きたかった町の名ではなかったか?)
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