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第三章 十三湊  その六

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「新三郎は、なにか近頃は心軽くなった様子じゃな? 何かよいことがありましたか?」
 久しぶりに姫さまと差し向かいでお茶をいただきながら、尋ねられた。新三郎は、明るく笑う。
「新三郎の気の持ちようなどお気に留めて下さり、恐悦でござります。特にうれしいことなど……。いや、大きな戦にも勝ち、ご領地のお話合いも丸く収まり、お家はおめでたいことです。」
「それはまだ、雪の降る前の話であろう。……それより後に、何かよいことがあったのでは?」
 新三郎は少し考えた。あなたさま方のご過去への詮索など止めたのです、邪念を棄てて、お慕いするご主人たる姫さまのために、お家にお仕えするだけと心に誓ったのです、とは答えられない。
(姫さまはここにこうして、いて下さる。それだけでよいではないか。)
「新三郎?」
 自然に微笑んでは、自分の顔をただ見ている新三郎を、さ栄は訝しく思った。
「……よいことと言えば、さよう、こうして姫さまにお茶を頂戴している。斯様に姫さまにお目通りが叶う。それがよいこと、この上なくうれしいことにござりますよ。」
「は? お前、何を。」
「いや、お目通り叶わぬときも、姫さまがここにお健やかにいらっしゃる、こころお静かに、ご本などお読みになっている、そう思うだけで、蠣崎は仕合せでござります。それが今は、お目にもかかれている。これほどの果報はござりませぬ。」
「からかうものではない。何を、なにを言い出すのじゃ。」さ栄はあたふたした。「あっ、お前、まさか昼から酒を飲んで来よったか?」
「お茶だけでござりますよ。茶では酔わぬ。……いや、姫さまのお手ずからのお茶ゆえ、新三郎、うれしうていささか酔ったのかもしれぬ。」
 新三郎は笑った。さ栄は頬が熱くなるのを感じ、子供にからかわれてどうするか、と自分を叱った。
「いくら寒いからと言って、お酒を飲み過ぎてはなりませぬよ。」
「飲んでおりませぬ。」
「ならば、女だからと言うて、目上の者をからかってはならぬ。」
「からかってなどおりませぬ。考えた通りを申しました。」
「さ言いながら、笑っておる! にくいことじゃ。」
「申し訳ござりませぬ。」
「もうよい、お下がり!」
「はい。……あの、お怒りでございますか?」
「腹をたてております。あの天才丸に、いつの間にか、からかわれるようになってしまった。主筋というに、女というだけで……女の身は口惜しい。」
 さ栄はそう言うと、どこか本当に口惜しい思いがせりあがってくるのを感じた。ただそれが、元服して一年にもならぬ家来に馬鹿にされたためではないのも、薄々感じている。
「姫さま、申し訳ありませぬ。ただ、からかうなど! まことに思った通りを口にしましただけで、……」
 さ栄は心の中で悲鳴をあげた。新三郎、新三郎よ、と呼びかけた。
(それが、口惜しいのじゃ。悲しい。……さよう、さ栄は悲しいのじゃ、新三郎。それほどに真直ぐにさ栄のことを想ってくれても、いかにもならぬ。わたくしたちは、いや、わたくしは、……。)
「姫さま? ああ、申し訳ございませぬ!」
 うつむいて肩を震わせてしまっている姫さまに、新三郎は動転して声をかける。
(泣いておられるのではないか? また、お身体が?)
「新三郎、詫びる。さ栄は……うむ、身体はなにもない。心配かけたの。狼狽えてしもうた。お前のせいではない……いや、お前のせいでもあるが、それよりも、心惑うて(取り乱して)しもうて、すまない。」
「姫さま、わたくしこそがお詫びいたします。ご無礼をいたしましたか、どうかお許しを……」
 よいのじゃ、とさ栄は横にうつむいて顔を隠したまま、首を振った。
「今日は、お帰り。」
「はい。」
「これは、病ではないから、すぐに納まります。……またおいで。次は、お前などになにを言われても、北畠の姫は、決して惑ったりせぬよ。」

 また雪が積もり、寒さの中で縮こまるばかりの日々が続いた。雪に閉ざされると、何か熱の入った活動をしようにも、全ては休まざるをえない。人びとは身分の上下を問わずそれぞれに、苛酷な冬に抗して生をつなぐのに専心せねばならず、自然、息を潜めたように静かに暮らす。現代とは違う時代の、豪雪地帯である。
 だが、この永禄四年の終わりの冬の浪岡城こそが、蠣崎新三郎慶広が生涯思い出す景色であった。厳しく冷たい空気のなかで、新三郎の十四歳の最後の日々は穏やかに過ぎていった。
 その後、郷里に変わりはないようだ。便りの返事は母親からしか来ないが、新三郎は徐々に長兄の死を忘れ、次兄の健康だけを気にするくらいになった。松前は随分遠く感じられる。
 浪岡こそが自分の土地だ、とたまに少し離れた余所への使いから戻った馬上では、強く感じるようになっていた。
 姫さまはやさしく、美しい。西舘さまは雪を踏んで立つ所作だけにも、無双の勇将をやはり思わせた。御所さまは心の広い、考えの深い名君であった。津軽蠣崎家の人びとや郎党たちとの信頼は揺るがない。おふくは急に涙もろくなったようだ。あの図書頭すら、本の話をさせると喜んで止まらないのがわかった。あの学僧と言い、本読みにはお喋りが多いのだと、いくらか読書に淫するきらいがある新三郎は自戒した。
 ごくたまに晴れたとき、浪岡御所は一面の白銀に輝き、美しかった。御前さまの言葉も図書頭のほのめかしも杞憂の産物で、お城は永遠のものに違いないと思えた。少年は自分もまたこの城の一部であるのを感じて誇らしく、うれしく思えた。

 だが、年が改まって間もなく、俄かに天が落ちてきたかのような衝撃が十五歳になったばかりの新三郎を襲う。
それより立て続けに、と言ってよいだろう。新三郎の少年期は、くりかえされるこれらの凶事によって、ずたずたに断ち切られるようにして終わる。


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