65 / 177
第十二章 浪岡に還る その六
しおりを挟む
新三郎は頭を抱えるようにして、震えた。何か、とてつもなく恐ろしく、そして悲しい。
「……姫さま、何故、そのようなお考えを? ……わたしはわからない! 面白くなどございませぬ。」
「さようかな。……ぬしさまは軍師も務まりそうに知恵が回るくせに、正直者じゃ。」
さ栄は笑った。そんなところが昔から好ましく、愛おしくてたまらぬ、と思った。天才丸はよい子じゃったが、蠣崎新三郎はそのままに逞しく、強くなってくれた。
「わたしのことなどではございませぬ。たとえ憎い敵であろうと、ひとを騙すなど、尊い御身の、……あなたさまのおやりになっていいことにはあらず。わたしは、姫さまに、そのような真似をさせとうない!」
さ栄は息を呑んだが、また羽交いのなか躰をずり下げて、頬を男の胸にあてた。
「それほどまでに、さ栄のことを大事に思って下さり、お礼いたします。……前も言うたの? さ栄はさほどに立派な者ではない。ぬしさまが思って下さるよりも、ずっと小狡くて、嘘ばかりじゃったよ。いや、ひとですらなかった。ひととして、生きてはおらなんだ。……さような者が、ぬしさまとここまでのご縁があった。お子が授かれるほどの深いご縁があった! わたくしはそれが有難うて、うれしうて、……。」
「……その子! その子とて憐れじゃ。姫さまが、自分のお子にさような運命を与えられるなど、あってはならぬ。……その子は、大浦の血を受けぬとは知らずに育つのか? 他人を父に仰ぐのか? 実の父親とは、もしかすると戦場でまみえるやもしれぬ! そして、もし、まことのことを知れば、……知らせるのでございますか? あわれじゃ! ありえぬ! さ栄さま、大浦へおくだりはおやめ下され! あなたさまは、罪もない子をむごい目にあわせるなど、できるお方ではない!」
「新三郎どの、有り難いお言葉。そして、うれしい。ぬしさまはやはり、わたくしの慕うてきたとおり、子どもの頃から変わらず、心真直ぐなおひと。」
「お願いにござります。わたくしが罰せられても構わぬ。大み台さまにご懐妊を打ち明けて下さいませ! 大浦に行ってはならぬ……! さような不徳義の真似をなさっては、ならぬ……!」
「不徳義か……。」
さ栄は目を閉じた。そして、教え子に静かに言い聞かせる、懐かしい口調になった。
「新三郎どの。ぬしさまが尽くしてくれた、この浪岡の城内では、絶えず人がひとを騙し、嘘をつき、背信と裏切りが続いてきた。ぬしさまもそれを見てきた。それなのに、このおそろしい浪岡の迷路の中で、よくぞ心惑わずにこられたもの。蠣崎新三郎のような見事なお人に出会えたは、さ栄の生涯の仕合せと、また思いましたぞ。」
「……わ、わたしとて、似たようなものじゃ。つっと、このお美しいお城の迷い道で、惑って参りましたとも。何人もなんにんも、この手で死に追いやった。……わたしのことなどよろしい。姫さま、何より、あなたのお身とて、危ない。そんな企みがもし知れようものなら、お子ごと命とられましょう! さような危ない目に、あわせられぬ!」
さ栄は、自分の身を案じてくれる新三郎の言葉を、頷きながら聞いたが、
「有り難い。新三郎どの。まことに、おやさしい。愛しいおひと! ……じゃが、言うぞ。そのおやさしさでは、この忌まわしい世で、ぬしさまのお志を全うできぬやもしれませぬ。」
「おれの、志?」
「蝦夷島のあるじになられるのじゃろ?」
さようなことはもうよいのだ、と新三郎は叫びかけたが、さ栄がそれを目と、相手の唇に当てたひとさし指で制した。
「言うてはなりませぬ。口に出すは、もう許されぬ。ぬしさまは蠣崎新三郎慶広じゃ。蠣崎の家督をとり、いずれ蝦夷島を外のたれのものでもない、蝦夷島の人びとのものにする。それが蠣崎慶広の大志であり、天の与えた使命じゃ。あだやおろそかにも、天命を蔑ろにする言葉を口にするでないぞ。」
「……はい。」
答えたとき、新三郎の目から、涙が溢れた。
「姫さま……お許しください。じゃが、おれは、姫さまを離したくない。姫さまとお別れしては、もう生きておられぬ気がする。」
「新三郎……。言いましたな? ぬしさまには」
「志。そうじゃ、捨てはしませぬ。天命と信じ、拒みはせぬ。……じゃが、姫さまを喪って、それになんの甲斐がございますか。姫さまに、ご覧いただきたかった。それがかなうたとき、姫さまとともに喜びたかった……!」
さ栄も、泣き叫びたかった。天才丸に戻ってしまったかのように、若者がぼろぼろと涙を流している。心から慕う、この世で一番好きなひとが悲しんでいる。自分も泣き喚きたい。
そして、できることなら、ほんとうに新三郎が言ってくれた通り、この城など抜け出して京や堺を目指したいのである。それがかなえば、なんと素晴らしい日々が待つのだろう。お城暮らしには想像もつかぬほど貧しい暮らしだろうが、そんな中でも、賑やかな都会の隅では、この若者がまた夢を見せ続けてくれるに違いない。
(じゃが、さような真似できぬ。新三郎の身を危険にさらす。たとえうまく逃げおおせたところで、その大志を奪う羽目になる。そのようなこと、あってはならぬ。)
「新三郎どの。ぬしさまはまだお若い。もう二十歳過ぎたさ栄などいなくなっても、よいではないか。きっとすぐに、ぬしさまに相応しい、若く見目良い娘が現われよう。そのひとを奥方に迎えるがよい。さ栄など、潔く身を引こう。」
「何を言われるか? 」
「……なんぞとは、言うてあげませぬよ、新三郎どの?」
「え?」
さ栄は茶目を言って舌を出すような表情をしてみせた。
「別れてさしあげませぬ。つっと、さ栄は新三郎どのと切れてやらぬ。新三郎どのがどんなに疎ましがっても、離れてやらぬのじゃ。」
「……それはよろしいが、……疎ましいはずなどないから、……うれしいが、……なにを申されているのか。あっ、姫さま、大浦には……?」
「大浦には参らねばなりますまい。」
「……。」
「じゃが、別れてはあげませぬ。さ栄は、新三郎のつまじゃろう? お子までなした、つまじゃから。」
「さようにございます。しかし、……?」
「……最後まで、お聞きあれ。お頼みがあるぞ、必ず迎えに来てくだされ。わたくしと、わたくしたちのお子と二人ながらに、取り戻してくだされ。」
取り戻す、と新三郎はぼんやりと呟いた。泣き疲れたようになっている。
さ栄はその新三郎の虚ろな表情を黙って見つめ続けた。やがて、新三郎がはっと気づいた様子で、みるみる頬が紅潮するのに、何か安堵したような、好ましい思いを抱いた。
「おわかりか?」
「……さ栄さま、お命じになられたのか?」
「はい。屹度、あなたのつまと子を、取り返してくだされ。大浦どのに預けたままは、許しませぬよ。……大浦を討つもよし、年月はかかりすぎるかもしれぬが、もしもその子が大浦のお家を継ぐ者になれば、親子の名乗りをあげてくれてもよい。……いや、もしも、この津軽で、もう浪岡も大浦もない日がいずれ来れば、……。うん、やはり、大浦を討って貰うが早いか、の? この浪岡から兄上とともにでも、ひとり対岸の松前からでもよい。……命じたのではない。約定のお願いじゃ。さにご約定くだされば、わたくしたちはけして、離れ離れではない。」
新三郎は、こみ上げてくる感情に震える。姫さまが言われるのは、途方もないことだ。そこには、まだ何のあてどもない。それなのに何か、悲しみの色を濃く帯びているのに勁い気持ちが湧く。悲壮な決意の力が、再びみなぎる気がしてきてならない。
「……姫さまは、待ってくださいますのか? 浪岡御所が立ち直るには、臥薪嘗胆の年月がいりまする。」
さ栄は頷いたが、あっ、と新三郎はまた気づいた。
「……それまでに、わたしたちの子は、大きくなってしまう。男にせよ女にせよ、大浦の子として育ちましょう。その子が、あわれじゃ、やはり……?」
「あわれではないよ。さようにはならぬ。」
「何故でございますっ?」
「新三郎どのの子じゃもの。けして、おのが出生の運命を恨んだりはせぬ。たとえ大浦の血ではないと気づいても、苦しみ悩みを必ず乗り越えられる。」
「さようなことっ?」
「……いや、母が必ずさようにする。させてみましょう。……うん、さ栄のせめての意趣返しじゃ。仕返しして差し上げねば、間尺に合わぬ気がして参ったわ。」
そんなことを言いながらさ栄は、屈託もなさげに笑顔になっている。新三郎は、不思議がらざるを得ない。
「……たれに、仕返しなさるのか? おれに?」
「滅相もない。……兄上じゃ。大御所さまには、さ栄は、やはり些か含むところがあってな。思い出してみれば、やり返せたことがなかった。せめて、少し性悪(さがわる)(意地悪)を言うてさしあげたい。」
冗談なのか、と訝しく思いながらも新三郎は、姫さまの明るい口調にやや安堵する。
「性悪とは……?」
「たとい、生まれの悩みを持ったとて、必ず、迷い路に踏み込んで取返しもつかぬ過ちを犯すものではありませぬ、それを振り切り、心正しく生きられる者の方が多いのじゃ、とさように兄上に教えて差し上げよう。」
新三郎は、北畠宗家の秘密について何か決定的なことを打ち明けられた気がした。だからこそ、何も言うまいと思う。
たしかにさ栄は、この後、金木館で大御所に面会したとき、ひそかにそれを告げた。
憔悴の色が濃い兄は、自分と捕虜の引き換えのように―いや、それに違いないが―ここで大浦勢に側室として出迎えられる妹と、最後に二人だけで茶の席に向かい合っていた。衝撃をうけたあまり、茶碗を取り落とした。
「……腹に赤子がいる、だと?」
さ栄は微笑んでみせた。
「よせ、さ栄。産むのはいかぬ。すぐにおろしてしまえ。……薬をやる。きっと効く。」
「厭でございます。」
「さ栄、お前は、……おれのような者をこの世に生むと言うか? 我が子に、地獄の苦しみを与えると言うか?……まさか、お前はそれで、大浦の家に災いをなすつもりか? その子も、やがて、まるでおれのように……と?」
「なるほど、それには思い至りませんでした。」
さ栄は感心したかのように薄く笑った。
「じゃが、残念なことやもしれぬが、さようにはなりますまい。」
「な、何故じゃ?」
「……この子は、兄上とは違う。」
「……。」
それを言っただけで、大御所はさ栄の意を悟っていた。
「……わかった。さ栄、お前はおれに恨み言を並べたこともなかったな。ただの一度とて、わがことでは怒ってみせなんだ。……今、おれに仕返しをしよったか。酷いことを言いよる。……」
兄は力なく、苦い笑いを見せた。
妹は涙を浮かべて、かすかに首を振った。しかし、否定するのではないらしい。
「これで、長きにわたった胸のつかえが、ようやく下りました。あとは、浪岡で兄上に、もとの兄上にお戻りいただくだけじゃ。」
「もとの?」
「悪人どもに迷い路に追い込まれる前の、ご元服の頃の兄上さまに帰られるだけでございますよ。やさしく、賢く、お強い。あれが、さ栄の兄上さま。」
新三郎は、さ栄の躰を離すと、起き直った。さ栄もまた、同じように着衣を直し、正面で相対した。新三郎は低頭し、そして顔をあげた。
「姫さま。新三郎は、心決めました。どうか、しばし、お待ちくださいませ。必ず、お迎えに参りまする。浪岡に……いえ、新三郎のもとにお帰りくださいませ。」
それを聞いたとき、はじめてさ栄の目に涙が盛り上がり、流れた。まだ変化のない、下腹のあたりにふと手を置いた。
「待っておりまする。早く来て下されるよう、さ栄も勤めましょう。そして、……そ、そして……また、……」
とうとう絶句した姫さまを、新三郎はまた抱き寄せた。震える肩の衣に、新三郎の涙が落ちた。
「姫さま! さ栄さま!」
「約定じゃよ、ぬしさま。新三郎どの。」
若者は、愛おしい女の顔を正面から見つめた。声が出ない。ただ、頷いた。
互いに寄せた熱い頬の上で、涙が混じるようだった。
「……姫さま、何故、そのようなお考えを? ……わたしはわからない! 面白くなどございませぬ。」
「さようかな。……ぬしさまは軍師も務まりそうに知恵が回るくせに、正直者じゃ。」
さ栄は笑った。そんなところが昔から好ましく、愛おしくてたまらぬ、と思った。天才丸はよい子じゃったが、蠣崎新三郎はそのままに逞しく、強くなってくれた。
「わたしのことなどではございませぬ。たとえ憎い敵であろうと、ひとを騙すなど、尊い御身の、……あなたさまのおやりになっていいことにはあらず。わたしは、姫さまに、そのような真似をさせとうない!」
さ栄は息を呑んだが、また羽交いのなか躰をずり下げて、頬を男の胸にあてた。
「それほどまでに、さ栄のことを大事に思って下さり、お礼いたします。……前も言うたの? さ栄はさほどに立派な者ではない。ぬしさまが思って下さるよりも、ずっと小狡くて、嘘ばかりじゃったよ。いや、ひとですらなかった。ひととして、生きてはおらなんだ。……さような者が、ぬしさまとここまでのご縁があった。お子が授かれるほどの深いご縁があった! わたくしはそれが有難うて、うれしうて、……。」
「……その子! その子とて憐れじゃ。姫さまが、自分のお子にさような運命を与えられるなど、あってはならぬ。……その子は、大浦の血を受けぬとは知らずに育つのか? 他人を父に仰ぐのか? 実の父親とは、もしかすると戦場でまみえるやもしれぬ! そして、もし、まことのことを知れば、……知らせるのでございますか? あわれじゃ! ありえぬ! さ栄さま、大浦へおくだりはおやめ下され! あなたさまは、罪もない子をむごい目にあわせるなど、できるお方ではない!」
「新三郎どの、有り難いお言葉。そして、うれしい。ぬしさまはやはり、わたくしの慕うてきたとおり、子どもの頃から変わらず、心真直ぐなおひと。」
「お願いにござります。わたくしが罰せられても構わぬ。大み台さまにご懐妊を打ち明けて下さいませ! 大浦に行ってはならぬ……! さような不徳義の真似をなさっては、ならぬ……!」
「不徳義か……。」
さ栄は目を閉じた。そして、教え子に静かに言い聞かせる、懐かしい口調になった。
「新三郎どの。ぬしさまが尽くしてくれた、この浪岡の城内では、絶えず人がひとを騙し、嘘をつき、背信と裏切りが続いてきた。ぬしさまもそれを見てきた。それなのに、このおそろしい浪岡の迷路の中で、よくぞ心惑わずにこられたもの。蠣崎新三郎のような見事なお人に出会えたは、さ栄の生涯の仕合せと、また思いましたぞ。」
「……わ、わたしとて、似たようなものじゃ。つっと、このお美しいお城の迷い道で、惑って参りましたとも。何人もなんにんも、この手で死に追いやった。……わたしのことなどよろしい。姫さま、何より、あなたのお身とて、危ない。そんな企みがもし知れようものなら、お子ごと命とられましょう! さような危ない目に、あわせられぬ!」
さ栄は、自分の身を案じてくれる新三郎の言葉を、頷きながら聞いたが、
「有り難い。新三郎どの。まことに、おやさしい。愛しいおひと! ……じゃが、言うぞ。そのおやさしさでは、この忌まわしい世で、ぬしさまのお志を全うできぬやもしれませぬ。」
「おれの、志?」
「蝦夷島のあるじになられるのじゃろ?」
さようなことはもうよいのだ、と新三郎は叫びかけたが、さ栄がそれを目と、相手の唇に当てたひとさし指で制した。
「言うてはなりませぬ。口に出すは、もう許されぬ。ぬしさまは蠣崎新三郎慶広じゃ。蠣崎の家督をとり、いずれ蝦夷島を外のたれのものでもない、蝦夷島の人びとのものにする。それが蠣崎慶広の大志であり、天の与えた使命じゃ。あだやおろそかにも、天命を蔑ろにする言葉を口にするでないぞ。」
「……はい。」
答えたとき、新三郎の目から、涙が溢れた。
「姫さま……お許しください。じゃが、おれは、姫さまを離したくない。姫さまとお別れしては、もう生きておられぬ気がする。」
「新三郎……。言いましたな? ぬしさまには」
「志。そうじゃ、捨てはしませぬ。天命と信じ、拒みはせぬ。……じゃが、姫さまを喪って、それになんの甲斐がございますか。姫さまに、ご覧いただきたかった。それがかなうたとき、姫さまとともに喜びたかった……!」
さ栄も、泣き叫びたかった。天才丸に戻ってしまったかのように、若者がぼろぼろと涙を流している。心から慕う、この世で一番好きなひとが悲しんでいる。自分も泣き喚きたい。
そして、できることなら、ほんとうに新三郎が言ってくれた通り、この城など抜け出して京や堺を目指したいのである。それがかなえば、なんと素晴らしい日々が待つのだろう。お城暮らしには想像もつかぬほど貧しい暮らしだろうが、そんな中でも、賑やかな都会の隅では、この若者がまた夢を見せ続けてくれるに違いない。
(じゃが、さような真似できぬ。新三郎の身を危険にさらす。たとえうまく逃げおおせたところで、その大志を奪う羽目になる。そのようなこと、あってはならぬ。)
「新三郎どの。ぬしさまはまだお若い。もう二十歳過ぎたさ栄などいなくなっても、よいではないか。きっとすぐに、ぬしさまに相応しい、若く見目良い娘が現われよう。そのひとを奥方に迎えるがよい。さ栄など、潔く身を引こう。」
「何を言われるか? 」
「……なんぞとは、言うてあげませぬよ、新三郎どの?」
「え?」
さ栄は茶目を言って舌を出すような表情をしてみせた。
「別れてさしあげませぬ。つっと、さ栄は新三郎どのと切れてやらぬ。新三郎どのがどんなに疎ましがっても、離れてやらぬのじゃ。」
「……それはよろしいが、……疎ましいはずなどないから、……うれしいが、……なにを申されているのか。あっ、姫さま、大浦には……?」
「大浦には参らねばなりますまい。」
「……。」
「じゃが、別れてはあげませぬ。さ栄は、新三郎のつまじゃろう? お子までなした、つまじゃから。」
「さようにございます。しかし、……?」
「……最後まで、お聞きあれ。お頼みがあるぞ、必ず迎えに来てくだされ。わたくしと、わたくしたちのお子と二人ながらに、取り戻してくだされ。」
取り戻す、と新三郎はぼんやりと呟いた。泣き疲れたようになっている。
さ栄はその新三郎の虚ろな表情を黙って見つめ続けた。やがて、新三郎がはっと気づいた様子で、みるみる頬が紅潮するのに、何か安堵したような、好ましい思いを抱いた。
「おわかりか?」
「……さ栄さま、お命じになられたのか?」
「はい。屹度、あなたのつまと子を、取り返してくだされ。大浦どのに預けたままは、許しませぬよ。……大浦を討つもよし、年月はかかりすぎるかもしれぬが、もしもその子が大浦のお家を継ぐ者になれば、親子の名乗りをあげてくれてもよい。……いや、もしも、この津軽で、もう浪岡も大浦もない日がいずれ来れば、……。うん、やはり、大浦を討って貰うが早いか、の? この浪岡から兄上とともにでも、ひとり対岸の松前からでもよい。……命じたのではない。約定のお願いじゃ。さにご約定くだされば、わたくしたちはけして、離れ離れではない。」
新三郎は、こみ上げてくる感情に震える。姫さまが言われるのは、途方もないことだ。そこには、まだ何のあてどもない。それなのに何か、悲しみの色を濃く帯びているのに勁い気持ちが湧く。悲壮な決意の力が、再びみなぎる気がしてきてならない。
「……姫さまは、待ってくださいますのか? 浪岡御所が立ち直るには、臥薪嘗胆の年月がいりまする。」
さ栄は頷いたが、あっ、と新三郎はまた気づいた。
「……それまでに、わたしたちの子は、大きくなってしまう。男にせよ女にせよ、大浦の子として育ちましょう。その子が、あわれじゃ、やはり……?」
「あわれではないよ。さようにはならぬ。」
「何故でございますっ?」
「新三郎どのの子じゃもの。けして、おのが出生の運命を恨んだりはせぬ。たとえ大浦の血ではないと気づいても、苦しみ悩みを必ず乗り越えられる。」
「さようなことっ?」
「……いや、母が必ずさようにする。させてみましょう。……うん、さ栄のせめての意趣返しじゃ。仕返しして差し上げねば、間尺に合わぬ気がして参ったわ。」
そんなことを言いながらさ栄は、屈託もなさげに笑顔になっている。新三郎は、不思議がらざるを得ない。
「……たれに、仕返しなさるのか? おれに?」
「滅相もない。……兄上じゃ。大御所さまには、さ栄は、やはり些か含むところがあってな。思い出してみれば、やり返せたことがなかった。せめて、少し性悪(さがわる)(意地悪)を言うてさしあげたい。」
冗談なのか、と訝しく思いながらも新三郎は、姫さまの明るい口調にやや安堵する。
「性悪とは……?」
「たとい、生まれの悩みを持ったとて、必ず、迷い路に踏み込んで取返しもつかぬ過ちを犯すものではありませぬ、それを振り切り、心正しく生きられる者の方が多いのじゃ、とさように兄上に教えて差し上げよう。」
新三郎は、北畠宗家の秘密について何か決定的なことを打ち明けられた気がした。だからこそ、何も言うまいと思う。
たしかにさ栄は、この後、金木館で大御所に面会したとき、ひそかにそれを告げた。
憔悴の色が濃い兄は、自分と捕虜の引き換えのように―いや、それに違いないが―ここで大浦勢に側室として出迎えられる妹と、最後に二人だけで茶の席に向かい合っていた。衝撃をうけたあまり、茶碗を取り落とした。
「……腹に赤子がいる、だと?」
さ栄は微笑んでみせた。
「よせ、さ栄。産むのはいかぬ。すぐにおろしてしまえ。……薬をやる。きっと効く。」
「厭でございます。」
「さ栄、お前は、……おれのような者をこの世に生むと言うか? 我が子に、地獄の苦しみを与えると言うか?……まさか、お前はそれで、大浦の家に災いをなすつもりか? その子も、やがて、まるでおれのように……と?」
「なるほど、それには思い至りませんでした。」
さ栄は感心したかのように薄く笑った。
「じゃが、残念なことやもしれぬが、さようにはなりますまい。」
「な、何故じゃ?」
「……この子は、兄上とは違う。」
「……。」
それを言っただけで、大御所はさ栄の意を悟っていた。
「……わかった。さ栄、お前はおれに恨み言を並べたこともなかったな。ただの一度とて、わがことでは怒ってみせなんだ。……今、おれに仕返しをしよったか。酷いことを言いよる。……」
兄は力なく、苦い笑いを見せた。
妹は涙を浮かべて、かすかに首を振った。しかし、否定するのではないらしい。
「これで、長きにわたった胸のつかえが、ようやく下りました。あとは、浪岡で兄上に、もとの兄上にお戻りいただくだけじゃ。」
「もとの?」
「悪人どもに迷い路に追い込まれる前の、ご元服の頃の兄上さまに帰られるだけでございますよ。やさしく、賢く、お強い。あれが、さ栄の兄上さま。」
新三郎は、さ栄の躰を離すと、起き直った。さ栄もまた、同じように着衣を直し、正面で相対した。新三郎は低頭し、そして顔をあげた。
「姫さま。新三郎は、心決めました。どうか、しばし、お待ちくださいませ。必ず、お迎えに参りまする。浪岡に……いえ、新三郎のもとにお帰りくださいませ。」
それを聞いたとき、はじめてさ栄の目に涙が盛り上がり、流れた。まだ変化のない、下腹のあたりにふと手を置いた。
「待っておりまする。早く来て下されるよう、さ栄も勤めましょう。そして、……そ、そして……また、……」
とうとう絶句した姫さまを、新三郎はまた抱き寄せた。震える肩の衣に、新三郎の涙が落ちた。
「姫さま! さ栄さま!」
「約定じゃよ、ぬしさま。新三郎どの。」
若者は、愛おしい女の顔を正面から見つめた。声が出ない。ただ、頷いた。
互いに寄せた熱い頬の上で、涙が混じるようだった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
16世紀のオデュッセイア
尾方佐羽
歴史・時代
【第13章を夏ごろからスタート予定です】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。
12章は16世紀後半のフランスが舞台になっています。
※このお話は史実を参考にしたフィクションです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる