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第十章 松前の夢 その三
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「行ったこともないのに、……松前の夢を見た。」
さ栄はあるとき、言った。
冬が終わりかけている。昼日中には、顔を見せるときの増えたやや明るい日に照らされて、雪が崩れて何処かから落ちる。その重い音を、聞くことが増えた。
それでも夜はひどく冷え込む。ふたりは、素肌のまま寄り添って、ひとつの毛皮にくるまって座り、火桶の弱弱しい小さな火を眺めていた。
そのままの姿勢でうとうとし、夜が明けようとする頃に目が覚めた。眠っている新三郎の顔に、さ栄は愛し気な視線を当てていたが、気配で気づいたのだろうか、彼も目を覚ます。
お眠りになられなかったのか、と尋ねられて、首を振った。浅い眠りの中で、長い夢を見たのだ。
「……それはうれしい。どのような町でございました?」
「思うていたより、大きな町でしたよ。海が広々として、美しい。海鳴りが丘の上の館でも聞こえる。」
「大舘の中にいらっしゃったのか?」
「はい、ぬしさまもご一緒じゃから、あれが松前大舘でございましたか。」
新三郎の表情が少し曇ったのは、やはり姫さまは正室に迎えられるのを望んでいるのだろう、と思ったからだ。
(いくら陪臣の蝦夷代官でしかなくとも、その奥方ですらなくて如何せん。やはり、姫さまを遊び女、慰み者のように扱うわけにはいかぬ。)
さ栄は新三郎の考えがすぐにわかったので、笑ってみせた。
「いや、蝦夷代官所にしては、風情があった。やはりあれは、さ栄が結んだ庵じゃったかもしれませぬ。」
「……さに違いござらぬ。」
新三郎も笑った。さ栄の気遣いが知れて切なく思えたが、ここは笑うのだと思った。
「つっと、ぬしさまのおそばで、……蠣崎新三郎慶広さまのご事績を拝見していました。」
「そのように願います、これからも。……慶広は、何をしでかしておりました?」
「いろいろな場所にお出かけでしたよ。松前だけではない。秋田、京洛、九州にまで……おや、さ栄がなぜそれを見られたか?」
「お夢でございますから。」
そうね、とさ栄は微笑んだ。
「秋田、というのは、安東さまのところでしょうか?」
「さ栄にはそこが秋田としかわかりませぬが、何やら怖いお人にお仕えで。小さな内輪もめのお戦が絶えないので、お疲れでした。」
「お夢の中でも、さような具合か。いや、戦働きは武家の本分にござりますが。……わたしは松前で、姫さまに愚痴を申していたのか。」
「それは夢じゃから、さ栄は松前でお留守番のはずなのに、秋田のお戦も見ましたので。……お帰りのときには、お髭も増えて、お歳も召して、ご立派に。」
「髭は、……姫さまが、ちくちくして痛いと、お厭がりになるから……。」
さ栄は真っ赤になって、これ、と呟いたが、夢の話の続きをしてよいか、と断る。
「すぐにご上洛になられました。羨ましい。」
「京に上れたというのは有り難いが、何用がございましたやら。」
「決まっております。天下の大将軍にお目にかかられたのです。お仲立ちいただき、ありがたくも天子さまより、ご官位ご官職を賜られましたよ。おめでたいことじゃ。朝臣になられた以上、もはや秋田安東どのの臣ではない。蝦夷島を国主してお治めです。」
「おお。」
「ぬしさまは、どこに参上されるにもわざと蝦夷めいた恰好をなされ、虜囚の長がはるけく朝貢に参じた風を装われる。ご覧になった上様は、まんまとそれにお喜びですよ。連歌なども巻かれ、お茶を人一倍お嗜みのぬしさまが、わざわざに蝦夷錦をお纏いになって、頭に何か巻かれて! それでいて、謁見が済んだあとはお供の蝦夷兵―ああ、瀬太郎によく似ておりました―と、してやったりと顔を見合わせてお笑いになる。それが、もう、おかしくて、……。」
「いかにも、わたしが思いつきそうなことじゃ。是非もござらぬ。」
「是も是! そのおかげか、馳せ参じた九州のどこかで、蝦夷島の商いは一手に松前が束ねるとのお許しを頂戴できました。」
「なんとも有り難い! 夢のような、……いや、ははは、夢でございましたな。ただ、その夢、わたしも是非見てみたかった。」
このお頭の中にそんな素晴らしい景色があったのか、と新三郎はさ栄の額にそっと唇を当てた。
「まことになさいませ。いや、きっと、まことになさる。」
さ栄は、何故か本当にそう確信できた。このひとは、これから後、どんな苦難をくぐっても、必ずそこに辿り着くだろうと、望むというよりは、わけもなく自然に信じられた。
「姫さま……さ栄さまに、見ていただきましょう。」
「はい。楽しみ、楽しみ。」
「お見せする……必ず、お見せいたす。」
唇を交わしながら、さ栄は夢の話はここまでにしようと思った。長かった夢には、まだ続きがあった。
栄達と富を手に入れていく蠣崎慶広が、しかしひとの世の陰惨な労苦も存分に舐め続けるところまで、夢として目にしてしまった。それもまた、まことになってしまうに違いないと思えてならない。
(家中の不幸も多々あった。……異腹の弟の一人を故郷から逐い、一人は他家に駆り出されたつまらぬ戦で討死した。息子の一人をお家のためにやむをえず誅殺し、娘の一人は望まぬ嫁ぎ先-あれは、大浦の家か?-で自害してしまう。このひとは、そのたびにひとり忍び泣いた。)
壮年の、あるいはやや老いてからの、新三郎の背中が慟哭に震えるのを後ろから黙って撫でてやったのは、そのたびに自分だったかどうか。さ栄には、それがどうもわからない。手の哀しい感触は残っているのに、全くの別人であったような気もする。そのあたり、いかにも、夢であった。
さ栄はあるとき、言った。
冬が終わりかけている。昼日中には、顔を見せるときの増えたやや明るい日に照らされて、雪が崩れて何処かから落ちる。その重い音を、聞くことが増えた。
それでも夜はひどく冷え込む。ふたりは、素肌のまま寄り添って、ひとつの毛皮にくるまって座り、火桶の弱弱しい小さな火を眺めていた。
そのままの姿勢でうとうとし、夜が明けようとする頃に目が覚めた。眠っている新三郎の顔に、さ栄は愛し気な視線を当てていたが、気配で気づいたのだろうか、彼も目を覚ます。
お眠りになられなかったのか、と尋ねられて、首を振った。浅い眠りの中で、長い夢を見たのだ。
「……それはうれしい。どのような町でございました?」
「思うていたより、大きな町でしたよ。海が広々として、美しい。海鳴りが丘の上の館でも聞こえる。」
「大舘の中にいらっしゃったのか?」
「はい、ぬしさまもご一緒じゃから、あれが松前大舘でございましたか。」
新三郎の表情が少し曇ったのは、やはり姫さまは正室に迎えられるのを望んでいるのだろう、と思ったからだ。
(いくら陪臣の蝦夷代官でしかなくとも、その奥方ですらなくて如何せん。やはり、姫さまを遊び女、慰み者のように扱うわけにはいかぬ。)
さ栄は新三郎の考えがすぐにわかったので、笑ってみせた。
「いや、蝦夷代官所にしては、風情があった。やはりあれは、さ栄が結んだ庵じゃったかもしれませぬ。」
「……さに違いござらぬ。」
新三郎も笑った。さ栄の気遣いが知れて切なく思えたが、ここは笑うのだと思った。
「つっと、ぬしさまのおそばで、……蠣崎新三郎慶広さまのご事績を拝見していました。」
「そのように願います、これからも。……慶広は、何をしでかしておりました?」
「いろいろな場所にお出かけでしたよ。松前だけではない。秋田、京洛、九州にまで……おや、さ栄がなぜそれを見られたか?」
「お夢でございますから。」
そうね、とさ栄は微笑んだ。
「秋田、というのは、安東さまのところでしょうか?」
「さ栄にはそこが秋田としかわかりませぬが、何やら怖いお人にお仕えで。小さな内輪もめのお戦が絶えないので、お疲れでした。」
「お夢の中でも、さような具合か。いや、戦働きは武家の本分にござりますが。……わたしは松前で、姫さまに愚痴を申していたのか。」
「それは夢じゃから、さ栄は松前でお留守番のはずなのに、秋田のお戦も見ましたので。……お帰りのときには、お髭も増えて、お歳も召して、ご立派に。」
「髭は、……姫さまが、ちくちくして痛いと、お厭がりになるから……。」
さ栄は真っ赤になって、これ、と呟いたが、夢の話の続きをしてよいか、と断る。
「すぐにご上洛になられました。羨ましい。」
「京に上れたというのは有り難いが、何用がございましたやら。」
「決まっております。天下の大将軍にお目にかかられたのです。お仲立ちいただき、ありがたくも天子さまより、ご官位ご官職を賜られましたよ。おめでたいことじゃ。朝臣になられた以上、もはや秋田安東どのの臣ではない。蝦夷島を国主してお治めです。」
「おお。」
「ぬしさまは、どこに参上されるにもわざと蝦夷めいた恰好をなされ、虜囚の長がはるけく朝貢に参じた風を装われる。ご覧になった上様は、まんまとそれにお喜びですよ。連歌なども巻かれ、お茶を人一倍お嗜みのぬしさまが、わざわざに蝦夷錦をお纏いになって、頭に何か巻かれて! それでいて、謁見が済んだあとはお供の蝦夷兵―ああ、瀬太郎によく似ておりました―と、してやったりと顔を見合わせてお笑いになる。それが、もう、おかしくて、……。」
「いかにも、わたしが思いつきそうなことじゃ。是非もござらぬ。」
「是も是! そのおかげか、馳せ参じた九州のどこかで、蝦夷島の商いは一手に松前が束ねるとのお許しを頂戴できました。」
「なんとも有り難い! 夢のような、……いや、ははは、夢でございましたな。ただ、その夢、わたしも是非見てみたかった。」
このお頭の中にそんな素晴らしい景色があったのか、と新三郎はさ栄の額にそっと唇を当てた。
「まことになさいませ。いや、きっと、まことになさる。」
さ栄は、何故か本当にそう確信できた。このひとは、これから後、どんな苦難をくぐっても、必ずそこに辿り着くだろうと、望むというよりは、わけもなく自然に信じられた。
「姫さま……さ栄さまに、見ていただきましょう。」
「はい。楽しみ、楽しみ。」
「お見せする……必ず、お見せいたす。」
唇を交わしながら、さ栄は夢の話はここまでにしようと思った。長かった夢には、まだ続きがあった。
栄達と富を手に入れていく蠣崎慶広が、しかしひとの世の陰惨な労苦も存分に舐め続けるところまで、夢として目にしてしまった。それもまた、まことになってしまうに違いないと思えてならない。
(家中の不幸も多々あった。……異腹の弟の一人を故郷から逐い、一人は他家に駆り出されたつまらぬ戦で討死した。息子の一人をお家のためにやむをえず誅殺し、娘の一人は望まぬ嫁ぎ先-あれは、大浦の家か?-で自害してしまう。このひとは、そのたびにひとり忍び泣いた。)
壮年の、あるいはやや老いてからの、新三郎の背中が慟哭に震えるのを後ろから黙って撫でてやったのは、そのたびに自分だったかどうか。さ栄には、それがどうもわからない。手の哀しい感触は残っているのに、全くの別人であったような気もする。そのあたり、いかにも、夢であった。
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