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第十章 松前の夢  その二

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「ふくをお許しあれ。」
 さ栄姫さまがすまなさげに切り出したので、新三郎は慌てて首を振りながら低頭した。
「許すも何も……。おふくどのは、何も……。」
「余計なこと、……いや、ご無礼を申しましたな。」
(ご存じか。おふくから喋ったな。)
 今朝、母屋にふくがやってきて、お手討ち覚悟でお尋ねいたしますが、と声を潜めたのだ。
「あなたさまは、春になれば姫さまを松前にお迎えになるのでしょうな?」
 もちろん、しかるべき儀礼を踏み、正室として、と言う意味である。ふくなどにとって、それ以外にはない。
「……さにしたい。」
「お代官からのお許しがございませぬのか? 何故じゃ? 浪岡御所さまの姫君が、蝦夷島にお渡りになってよいと言われるのでございますぞ?……もしや、お齢やご死別でお戻りというだけで気にされているのか? ……わからぬではわからぬ。あなたさまのお家のことではござらぬか? いやいや、あなたさまのお考えひとつでございます。いかになさるお積りか?」
「わたしは、姫さまによくして差し上げたい。」
「ならば、決まっておりますな。お父君のお許しをいただきなされ。いや、蝦夷代官さまのお許しなぞ、まことはなくともよいのじゃ。御所さまのお許しがすでにおありなのでしょう? ……知らぬでは済まぬ。さようなこともご存じない? ようございますか、新三郎さま。恋じゃなんじゃと申されても、歌や物語ではございませぬよ。このままでは、野合も同然ではございませぬか! 姫さまにそれで済むとはお思いではありますまいな。……何を怖じておられるか?……男らしくありなさらぬか?」
(おふくめ、言いたい放題に……。)
 新三郎はふくの言う通りだとも思い、逆にあのおばさんなどに何もわかりはしないのだとも思った。腹など立ちはしないが、情けない思いがしてならない。こうしてその日のうちに姫さまのもとに忍んでいるのも、呼びつけられるようだったからそうしたまで、実は気が進まなかった。
「ご存じのとおり、あれは、さ栄の親代わりで、つい要らぬ心配をしてしまうのじゃ。ご無礼申したようじゃが、さ栄に免じて許してやって下され。」
「要らぬ心配……。」
「で、ありましょう?」
 さ栄は微笑んだ。無論にござる、と新三郎がうつむいて呟くのを見て、内心では深く吐息をついている。だが、新三郎を困らせたくはなかった。
 実のところ、さ栄はふくの心配は正鵠を射ているように思う。蝦夷代官家は、家督をとらせようかという今は長子となった三男と、浪岡北畠氏とが婚姻で結ばれるのを避けたいらしい。春には蝦夷代官嫡男の正室に迎えられて松前に渡るというのは、どうやらかなわぬことのようだった。
(ふくが口を滑らせたとおり、野合も同然の仲、……これは改まらぬようじゃ。)
 さ栄はしかし、絶望しているわけではなかった。いささかの落胆は、それはあった。自分の家が安東家の陪臣風情から見下されたようになったのも、内心ひどく不愉快であった。しかし、そこにあるのは侮蔑ではなくしたたかな計算であるのはたしかだったから、無理矢理なら腑に落とせぬこともない。なんといっても最近の浪岡北畠氏は、先代までとは違うのである。
 そして、さ栄自身、蝦夷代官の北の方と呼ばれたくてならないかと言えば、そうではなかった。蝦夷代官家の主婦の座などには、最初から憧れも何もない。名族北畠氏の姫君の感覚としては、当然であろう。
(新三郎につっと添うには、それが一番じゃと思うたのみ。)
 新三郎が安東家から独立して蝦夷島の主になるという夢を持つのは知っていたから、それにどこまでもつきあいたいという願望はある。ならば、正室であるのが最も都合がよいであろう。しかし、それが難しいと言われるのなら、やむを得ないくらいに思っていた。
「ぬしさま、何もさ栄をご正室にお迎えくださらなくてもよいのですよ。」
「なにを言われるのです?」
「いつか、松前にはご一緒したい。つっと離れてやらぬ。」
「無論のことでござる。わたしとて、姫さまと離れなどせぬ。じゃから、必ず、松前大舘にお迎えします。」
「その、大舘じゃが……。どれほどの広さで?」
「このお城とは比べものになりますまい。」
「では、ご城内にこうしたお部屋をいただくのは、憚り(気が引け)ます。松前の町には、庵を結ぶくらいの場所はございますな? さ栄はそこに住むことにいたしましょう。」
「なにをおっしゃるのか。あなたさまは代官の奥として、大舘の女あるじに……。」
「それも、なにやら物憂い(億劫だ)。ご存じのとおり、さ栄は能楽者(なまけもの)ですので、勤まりますかどうか。松前には行きとうございますが、町のどこか海の見える場所をいただいて、ぬしさまのお立ち寄りをお待ちして暮らすほうが、楽しいかもしれませぬ。」
「姫さま! 姫さまを、さような日陰に置く真似、とてもできませぬ。それは、……それでは、側女ではないか。」
「うん。じゃが、つまにはございましょう?」
 さ栄は屈託なさげに笑ってみせた。
「姫さま、申し訳ござりませぬ!……ご無理をなさっておられる。」
「しておらぬ。……急に謝らないでおくれ。いま、死ぬほどに驚きました。お別れを切り出されたのかと思うた!」
「お別れなど、あろうはずもない!……なんとか、父にわからせます。松前に戻り、直接、許しを請う。説き伏せまする。……いや、おふくの申したとおりじゃ。浪岡北畠さまのご婚儀に、蝦夷代官の許しなど、そも要らぬのじゃ。」
「新三郎どの。短気はなりませぬ。さ栄は、親子で言い争いなどして貰うても嬉しくない。言うたとおりよ、松前に連れて行ってくだされば、それでよいのじゃ。煩わしい婚礼なども要りませぬ。代官さまの奥方になって何がしたいと言うわけでもないのじゃ。ただ、新三郎どののお側にいたい。もしも、……あっ。」
 さ栄は言葉を途切れさせた。知らぬ間に、目が潤んで、一筋涙が流れていた。ただ、悲しいというだけではない。いろいろな感情の混じった、昂奮のあまりだろう。
「……もしも、……もしも新三郎どのが、さ栄に横にいて欲しい、自分の為すべきを為すのを見せてやりたい、見届けて欲しいとお思いならば……!」
「思っております! お願いいたします! わたしは、新三郎は、さ栄さまに見ていて下さらないと、……!」
 肩を抱かれ、涙に濡れだした頬に顔を寄せられた。新三郎の頬も、気の昂ぶりに熱くなっていて、泣き出しそうなのがわかる。
「申し訳ございませぬ。泣かせぬ、と言いましたのに……。」
「したたに(しっかりと)なさって。さ栄のことなどで、お悩みあられては、いかぬ。それだけが気懸り。」
 あっ、と小さく叫んだのは、新三郎に一層強く抱きしめられたからだ。新三郎はさ栄の耳朶をやわらかく噛んだ。息が止まり、戦慄が全身に走った。
 昂った若者の、抑えようのないらしい手荒い所作に身を委ねながら、さ栄は不確かな未来のことなどで気を病むまいと自分に言い聞かせた。この新三郎の気持ちに、何の不安もない。春になれば、またきっと何か良いように事態が変わるかもしれぬし、また、別に変わらなくてもよいと思った。

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