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第九章 崩壊の兆し その三
しおりを挟む(母上は、おわかりではないのか。)
松前の母親が寄越した書状に、新三郎は軽い落胆をおぼえている。生母である正室は蝦夷島の舘主の家の者だから、浪岡北畠氏の姫を娶りたいという息子の言葉には、まず畏れ多いとも光栄だとも感じたらしい。が、相手が二十歳をとうに過ぎた他家からの出戻りだと知って、危惧を持たずにはいられないようだった。厄介払いに年増の後家を押しつけられるのではないか、と思ったのであろう。そこは母親だから、自分の息子の価値を随分高くみてしまう。行間に不満と心配が溢れていた。
そして、父からの返事はない。父も、両手を打って喜ぶというのでもないのだろうか。浪岡はなにか支障のある姫を、若者の無知に乗じてこれ幸いと……とでも?
(たとえさように見えたとしても、いや、まことにその通りであろうと、おれは構わないのじゃがなあ。)
近頃、生来の美貌に磨きがかかったという噂のさ栄姫を、一度拝ませてやりたいと思った。この城内の噂は、若者を内心で得意にさせている。
「姫さまは、……さ栄さまは、お美しくなられた。」
うれしい睦あいのあと、気づかぬ間に灯の落ちた閨で、月明かりに大きく開いた姫さまの瞳を見つめながら、新三郎は感に堪えて呟く。
「前は、さほどでもなかった、と?」
さ栄は若者が溜息をつくように内心を吐露するのがうれしいので、わかっていて、ついからんでみる。
「つっと、お綺麗でおられました。されど、これほどにお美しくなられるとは……。」
「まあ、どなたのおかげ?」
さ栄は、新三郎の手をあらためてとり、甲に口づけて、笑った。さようよな、と自分でも思う。ふくなども、別にからかうつもりもなく、そんなことを言う。
川原御所の一件以来、前にも増して表に出る機会は減らしてしまったが、内館にたまに顔を出した後は、「無名舘の天女さま」の噂でしばらくは持ち切りになるのだそうだ。
(天女どころか、拗ね者の厄介者。それどころか、自他のおそろしい罪を隠して生きている、人でなしなのに……。)
新三郎と馴染みを重ねるうちに、そうした自責の念をしばしば全く忘れられていることに気づいている。次兄に殺されてしまった長兄たちには申し訳が立たないと思うものの、まるで少女のときのように心がふと青空のように澄み切って、前途に希望だけがあると思える時がある。
「おかげで、近頃は、肌の具合もとてもよい。」
あれほどひどい発作ではなくとも、ふとしたことで赤くなってしまうのが、しばらく出ていないのだ。
「あの国手は、嫁に行けば治る者もいる、と言われたが……。」
「まあ、その通りではございませぬか! お薬をいただいているようなものでございますかね?」
ふくが手を打って喜んでみせたので、さ栄は曖昧に頷いたあと、ふとその露骨な意味に気づいて頬に血を上らせた。軽く叱って、満面笑顔のふくを下がらせたものだ。
新三郎の所作はまだ無骨だったが、さ栄を思いやる気持ちが、いかにもそれらし閨の手練手管に勝るのだろうか。
また、眼も眩む思いで接した女体に少しずつ慣れてくると、愛着や一種の所有意識と相まって、感情の激しさと深さは却って増すものの、相手の反応を確かめる余裕も若者なりに出てきた。
「新三郎どのに、……教えて差し上げるつもりじゃったのに。」
なかなか鎮まらない息と痺れたようになった躰に戸惑いながら、さ栄はふと呟いたことがある。他人のそれかと思うほど濁った声が、老婆のようで恥ずかしい。新三郎は、我を忘れてひとしきり跳ねてしまったさ栄の、汗の浮いた躰をやさしく抱いたまま、名残り惜し気に裸の肩に唇を当てていた。欲望を一度したたかに吐いてしまっても、女への昂ぶった感情が去らない。若い肉体の火はなかなか消えない。
「お教えいただいていますよ?」
「いや、……さ栄のほうが、女を教わりました。」
なんという痴語、とさ栄はつい口に出してしまった言葉に消えいりたいほどになったが、若者は胸いっぱいになったらしい。首筋にきつく唇を押し当てた、誇らしくも思ったのだろう。それならよい、とさ栄もうれしかった。
が、また鬱勃としてきたらしい若者の荒い仕草と逞しさには、苦笑いしてたじろぐような気持ちになる。
「ぬしさま? 少し、躰がつらい。……いま少し、このままで。……夜は長うございますよ?」
「いえ、ご一緒の夜は、短くてなりませぬ。」
「さようか? じゃが、わたくしたちには、長い日が待っておりましょうに?」
若者の動きが、止まった。
おや、と思うと、新三郎は、はい、おっしゃる通りですね、と大人しく女の躰から降り、少し考えて、自分が乱したさ栄の寝衣のあわせを整え、ほつれて顔にかかった髪を丁寧に、愛おし気に払ってくれる。
(それでよかったのか?)
つい、されるままになりながら、少し訝しく思ったが、新三郎はいつもの屈託のない笑顔をみせている。休ませてくれるようだが、その顔を見ているうちに、やがてさ栄のほうが口吸いを欲しくて仕方がなくなってきた。
唇だけ、と言ってねだると、新三郎の笑顔が弾けた。
「さ栄さまは、かわゆらしいのう。」
「また! ……また、齢上の者を、小馬鹿にして!」
「滅相もない。」
そう言うと、待っている女の唇に、自分の唇をそっと落した。
ほんのついばむほどのつもりが、温かさと甘さに惹かれて、長い時間をかけてしまう。一度離したが、また合わせて、味わい、求めずにいられない。それを何度も繰り返してしまう。
さ栄は、休むどころではない。躰がまた熱を帯び、耐えられなくなってきた。欲しがるべきものが変わってしまったのだろう。
「……新三郎どの。また、……もう一度くらいなら……。」
言ってしまったさ栄は、羞恥に目をそらす。新三郎は真面目な顔になって、骨が無いのかと思うほどまた柔らかくなった躰に腕を廻した。
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