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第八章 契り その七
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それに、さ栄のことばかりでもないのであった。若者の胸に、野心が形をとりつつあった。それは西舘―ご名代や、父蠣崎季広のような男の存在が、無垢だった少年の心に植え付けてしまったものだったかもしれない。
(蝦夷島を、おれたちの楽土にしたい。)
若者は、自分の故郷松前や、第二の故郷(ゼルブストゲヴェールテ・ハイマート)ともいうべきこの浪岡で相次いでいる陰惨な争いに、飽き飽きしていた。
(おれは、同じ戦なら、せめて理のある戦がしたい。お家のためと言うて、お家の中で殺し合うのは、沢山じゃ。)
「天下」の北の外れに、そうしたこせこせした、甲斐も名分もない争いとは無縁の場所を作りたい。それが新三郎にとっての理であった。それだけしか、蝦夷島生まれの武家である自分のすべきことはないように、だんだんに思えてくるのがわかる。
もはや新三郎には、「津軽一統」の挙ですら、それほど面白いものではなくなってきた。仮に浪岡北畠氏が津軽を抑えたところで、陸奥国の中で、あるいは出羽国との間に、また争いが続くだけであろう。いずれ天下が定まるまで、今のようなことを続けるのか、続けられるのか、と考えずにいられない。
(蝦夷島は、違う。割拠ができる地じゃ。攻めず、攻められずを通すことができる。中原の趨勢が定まるのをじっと待てる。)
(安東さまからも離れて、おれのくにを蝦夷島につくる。蝦夷島の地が生み出す富、蝦夷島を通る富には、他所の誰も手を触れられないようにしてやる。)
「ご自分のされたいように。さ栄のことはお考えあるな。」
ふとさ栄は気づいて、まだ少し荒い息を鎮めながら、言ってみた。
若者は、何か考えあぐねている。
二人で夢中で求め合い、最後は固く抱き合いながら極めた昂揚の高みからは、男女それぞれの速度で潮が引くように、めいめいで降りていく。女がやや遅れて落ち着くと、傍らにうつ伏せに臥した男はもう、ふと遠くを見ている目になっていたから、わかった。
はじめての日から二か月、毎夜会えたわけではないが、会えば必ずのように求めあった。互いの肉を晒し合うことで、心までを確かめ合えるとされるのはまことだったと、新三郎は自然に、さ栄は驚きとともに、感じている。
躰を重ねるのは心を重ねるのと決して同じではない、と知らされざるを得ない経験ばかり、さ栄はしてきた。だからこそ、その行為への躊躇いも大きかった。それなのに、新三郎の肉体を知って以来、天才丸という子供だった頃よりも、彼の心の内までが見える気がしてならない。
「なにを唐突に、おっしゃるので?」
若者は、女を抱き寄せて、乱れてしまったその髪を撫でた。
「決めねばならぬことがおありじゃね? ご自分のお望み専一ぞ?」
「わたしは、いつも姫さまのことを……。いえ、わたしの望みは、まず姫さまのお身のお仕合せでござるから。」
(ああ、それはわたくしには却ってつらい……。)
胸を突かれたさ栄は、男の腕にすがって、ふざけてみた。
「名で呼ぶように、と申しましたな。ぬしさま?……困ったような顔をするでない、新三郎。先ほども、呼んでくれなんだ。さ栄、と呼ぶがそれほど厭か?」
「その普段のお調子のほうが、楽なのでございます。」
「さようの薄情、許しませぬ。主命じゃ。」
さ栄はうれしそうに笑った。新三郎も微笑む。
「さ栄……さま。さ栄さまは、浪岡を離れたくはございませぬな?」
「新三郎! 言うたよ、わたくしのことで悩まずともよい。悩まないで。さ栄は、新三郎と一緒ならば、どこであろうと構わない。それも申したことがある!」
「有り難き仕合せにて。……さ栄さま。」
「……はい。」
「松前に、お越しくださりませぬか? わたくしは、やはり帰らねばならない。じゃから、さ栄さまにお願いしたい。一緒に、松前大舘に……。」
「はい。さよういたします。連れて行って下さいませ。」
「……姫さま!」
新三郎は驚喜している。そう言ってくれると信じてはいたが、すぐに肯ってくれるとは思えなかったのだ。また固く抱きしめ、さ栄が笑い声をたてて痛がると力を緩めたが、離さない。
喜びのあまり、要らぬことまで言ってしまう。
「よいのですか? 浪岡御所のような典雅なお城ではない。蝦夷島の無粋な丘城でございます。松前も、狭い町じゃ。今は少し変わったかもしれませぬが、山と海に挟まれた小さな町にござります。立派なお寺やお社もあまりござらぬ。蝦夷との戦いに備えるために、東西に袋の口を縛ったように、出入りはわざと不便にしております。湊も大してよくない。風が強く、岩がちで、海の色もさびしいのでございます。」
そこまでまくし立ててしまって、腕の中のさ栄の顔を不安げに覗いた。さ栄は黙って笑っていたので、安心する。
「……とても、お歌ができるような場所ではございませんが、よろしいのですか?」
「よいよ。さ栄は、海を見たことがない。」
「さようなのですか?」
「うん。お城からあまり出たことがなかったゆえ。大光寺は、もっと奥じゃったし。……広い海は、お歌でしか知らぬ。きっと、面白い歌も詠めるでしょう。楽しみ。」
「有り難し。ご案内できるのが、まことに、うれしう存じます。松前も、そこまで悪い土地にはござりませぬ。近頃は随分と拓け、商いで賑やかになりまして。毎日が七日市のようでございますよ。」
「先ほどは違うように言うたのに。」
さ栄はころころと笑うと、
「何度も申しておりまする。さ栄は、新三郎どのとご一緒なら、何処にでも参ります。……それに、松前は、新三郎どの、ぬしさまの生まれた地ではありませぬか。悪いところのはずがない。」
新三郎は、さ栄を抱き起した。抱きかかえるようにして、乱れた髪が額にかかっているのを直してやり、唇をつけた。軽く、口を吸いあう。さ栄がふとはにかんで目をそらしてしまうまで、長い時間、飽きず見つめ合った。
「なんと御礼を申してよいか。……恋しい、愛おしいお方。ご一緒に戻れるとは。」
「何年、戻っておられぬ?」
「お忘れですか。ここに参ったとき以来。わたくしは十三になったばかりでした。足掛け四年か。」
「天才丸。ご立派になられた。」
「姫さまのご恩、忘れませぬ。」
「これから忘れられては、困りまするよ!」
「はい。決して。……姫さまは、海が初めてでいらっしゃる? 困ったな、船にお酔いになられますね。」
「されど、ほんの子どもの天才丸が渡ってこられたのじゃろう?」
「大きな船を用意させましょう。松前の持っている、一番大きな船を出させましょう。」
(蝦夷島を、おれたちの楽土にしたい。)
若者は、自分の故郷松前や、第二の故郷(ゼルブストゲヴェールテ・ハイマート)ともいうべきこの浪岡で相次いでいる陰惨な争いに、飽き飽きしていた。
(おれは、同じ戦なら、せめて理のある戦がしたい。お家のためと言うて、お家の中で殺し合うのは、沢山じゃ。)
「天下」の北の外れに、そうしたこせこせした、甲斐も名分もない争いとは無縁の場所を作りたい。それが新三郎にとっての理であった。それだけしか、蝦夷島生まれの武家である自分のすべきことはないように、だんだんに思えてくるのがわかる。
もはや新三郎には、「津軽一統」の挙ですら、それほど面白いものではなくなってきた。仮に浪岡北畠氏が津軽を抑えたところで、陸奥国の中で、あるいは出羽国との間に、また争いが続くだけであろう。いずれ天下が定まるまで、今のようなことを続けるのか、続けられるのか、と考えずにいられない。
(蝦夷島は、違う。割拠ができる地じゃ。攻めず、攻められずを通すことができる。中原の趨勢が定まるのをじっと待てる。)
(安東さまからも離れて、おれのくにを蝦夷島につくる。蝦夷島の地が生み出す富、蝦夷島を通る富には、他所の誰も手を触れられないようにしてやる。)
「ご自分のされたいように。さ栄のことはお考えあるな。」
ふとさ栄は気づいて、まだ少し荒い息を鎮めながら、言ってみた。
若者は、何か考えあぐねている。
二人で夢中で求め合い、最後は固く抱き合いながら極めた昂揚の高みからは、男女それぞれの速度で潮が引くように、めいめいで降りていく。女がやや遅れて落ち着くと、傍らにうつ伏せに臥した男はもう、ふと遠くを見ている目になっていたから、わかった。
はじめての日から二か月、毎夜会えたわけではないが、会えば必ずのように求めあった。互いの肉を晒し合うことで、心までを確かめ合えるとされるのはまことだったと、新三郎は自然に、さ栄は驚きとともに、感じている。
躰を重ねるのは心を重ねるのと決して同じではない、と知らされざるを得ない経験ばかり、さ栄はしてきた。だからこそ、その行為への躊躇いも大きかった。それなのに、新三郎の肉体を知って以来、天才丸という子供だった頃よりも、彼の心の内までが見える気がしてならない。
「なにを唐突に、おっしゃるので?」
若者は、女を抱き寄せて、乱れてしまったその髪を撫でた。
「決めねばならぬことがおありじゃね? ご自分のお望み専一ぞ?」
「わたしは、いつも姫さまのことを……。いえ、わたしの望みは、まず姫さまのお身のお仕合せでござるから。」
(ああ、それはわたくしには却ってつらい……。)
胸を突かれたさ栄は、男の腕にすがって、ふざけてみた。
「名で呼ぶように、と申しましたな。ぬしさま?……困ったような顔をするでない、新三郎。先ほども、呼んでくれなんだ。さ栄、と呼ぶがそれほど厭か?」
「その普段のお調子のほうが、楽なのでございます。」
「さようの薄情、許しませぬ。主命じゃ。」
さ栄はうれしそうに笑った。新三郎も微笑む。
「さ栄……さま。さ栄さまは、浪岡を離れたくはございませぬな?」
「新三郎! 言うたよ、わたくしのことで悩まずともよい。悩まないで。さ栄は、新三郎と一緒ならば、どこであろうと構わない。それも申したことがある!」
「有り難き仕合せにて。……さ栄さま。」
「……はい。」
「松前に、お越しくださりませぬか? わたくしは、やはり帰らねばならない。じゃから、さ栄さまにお願いしたい。一緒に、松前大舘に……。」
「はい。さよういたします。連れて行って下さいませ。」
「……姫さま!」
新三郎は驚喜している。そう言ってくれると信じてはいたが、すぐに肯ってくれるとは思えなかったのだ。また固く抱きしめ、さ栄が笑い声をたてて痛がると力を緩めたが、離さない。
喜びのあまり、要らぬことまで言ってしまう。
「よいのですか? 浪岡御所のような典雅なお城ではない。蝦夷島の無粋な丘城でございます。松前も、狭い町じゃ。今は少し変わったかもしれませぬが、山と海に挟まれた小さな町にござります。立派なお寺やお社もあまりござらぬ。蝦夷との戦いに備えるために、東西に袋の口を縛ったように、出入りはわざと不便にしております。湊も大してよくない。風が強く、岩がちで、海の色もさびしいのでございます。」
そこまでまくし立ててしまって、腕の中のさ栄の顔を不安げに覗いた。さ栄は黙って笑っていたので、安心する。
「……とても、お歌ができるような場所ではございませんが、よろしいのですか?」
「よいよ。さ栄は、海を見たことがない。」
「さようなのですか?」
「うん。お城からあまり出たことがなかったゆえ。大光寺は、もっと奥じゃったし。……広い海は、お歌でしか知らぬ。きっと、面白い歌も詠めるでしょう。楽しみ。」
「有り難し。ご案内できるのが、まことに、うれしう存じます。松前も、そこまで悪い土地にはござりませぬ。近頃は随分と拓け、商いで賑やかになりまして。毎日が七日市のようでございますよ。」
「先ほどは違うように言うたのに。」
さ栄はころころと笑うと、
「何度も申しておりまする。さ栄は、新三郎どのとご一緒なら、何処にでも参ります。……それに、松前は、新三郎どの、ぬしさまの生まれた地ではありませぬか。悪いところのはずがない。」
新三郎は、さ栄を抱き起した。抱きかかえるようにして、乱れた髪が額にかかっているのを直してやり、唇をつけた。軽く、口を吸いあう。さ栄がふとはにかんで目をそらしてしまうまで、長い時間、飽きず見つめ合った。
「なんと御礼を申してよいか。……恋しい、愛おしいお方。ご一緒に戻れるとは。」
「何年、戻っておられぬ?」
「お忘れですか。ここに参ったとき以来。わたくしは十三になったばかりでした。足掛け四年か。」
「天才丸。ご立派になられた。」
「姫さまのご恩、忘れませぬ。」
「これから忘れられては、困りまするよ!」
「はい。決して。……姫さまは、海が初めてでいらっしゃる? 困ったな、船にお酔いになられますね。」
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