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第八章 契り  その五

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 あの日、まだ風が冷たく感じられた。
 あの医者に煽られたわけではなく、ふたりの間で、傷が癒えたら……という黙契がすでに出来上がっていた。
「新三郎、今宵、お話においで?」
 目も眩むような羞恥に打たれながら、何げない様子を懸命に装って、さ栄のほうから誘った。新三郎は棒を飲んだように立ちすくんだが、命を受けたときと同じく低頭すると、足早に縁先を立ち去り、自分の住む母屋に戻っていく。
 それから、さ栄にとって、不安に苛まれる時間が過ぎた。互いの想いを打ち明け合ったあのあと、新三郎とまた慌ただしく抱き合ったことはある。おずおずと唇を合わせたこともあった。たがいに、その甘さに驚いた。文や歌のやりとりも一度ずつあった。何より、新三郎の心にもう何の不明もない。それは安心できていた。
(わたくしは、あれを出さずに済むのか?)
 思うと、すでに背中に汗が染み出ている。これが全身を覆う赤い痒みに変わってしまわないか、そんな肌を新三郎の目に晒してよいのか、と思うと、やりきれない。
(もう大事ない。新三郎とならば、決してあのようにはならぬ。これまでも大事なかった。)
 強く抱き締められたとき、さ栄は無上の安らぎを覚えていた。これ以上は望まぬ、もうこれだけでよい、と思い、そう呟いてしまった。
「落ち着く……。これだけで、よい。」
 だが、新三郎が当然、それより先を欲しているのにも気づいている。さ栄の充足のあまりのつぶやきを耳にして、すこし悲しそうな表情になったのが、まるで目にしたようにわかった。
(……あ、新三郎を気の毒な目に遭わせている!)
 さ栄ははっとして、新三郎にそのまま床に押し倒されてもよい、と心に決めた。自分を抱きしめる男の袖を引いて、うながす様子さえみせた。だが、十六になったばかりの若者は、また一層やさしく抱いてくれるばかりで、いたわりを示す仕草から踏み出そうとはしなかった。
 だが、いつまでも新三郎に自制を促してばかりではならないだろう。
 そして、抱き締めるよりもさらに進んだときにどうなるのかは、まだわからないのであった。
もしも肌が赤くなってしまったら、これは何かを説明するのか、ありえぬ、と震えた。
 新三郎はさ栄の過去については何も訊かないから、いまだに兄とのことは洗いざらいを喋ってはいないのだ。どこかでそれも打ち明けなければならないのか、という迷いにも苛まれている。
(新三郎は、兄上の邪まな想いを昔から知っている。じゃが、かつて本当に契りを籠る仲じゃったとはまさか知るまい。ありうべからざることゆえ……。薄々疑っていても、もしたしかにそれがあってしまったとわかれば、とても耐えられるものではなかろう。)
(もう兄上とふくしか、この世であれを知っている者はいない。わたくしが懺悔せねば、伝わりようがない。……じゃから、口を拭って、黙っているのか、さ栄は?)
(……ああ、可哀想な新三郎! やはり、わたくしなど、お前に相応しくなかった! それを、まだ女も知らぬお前の気持ちに、わたくしは甘えて、こうして今かいまかとお前を待っているのじゃ! 女の躰を餌に、つけこもうとしておるも同然。なんと忌まわしい!)
 考えがぐるぐると回りだすと、さ栄はひとり頭を抱えた。そして、決意ができたように思えた。
(そうじゃ、今宵、別れてやろう。新三郎に全てを打ち明けよう。あの子が何と言おうと、去らせよう。あの子を汚してはいけない!)
「姫さま……何故泣いておられました?」
「泣いてなど、おらぬ。」
「お涙のあと、お化粧にも隠せませぬ。お目が赤い。」
「厭な子。」
「……姫さま。」
 新三郎は少し考えると、膝を進めた。いつも手を広げるように近づいてくれるはずのさ栄姫さまが、厭がるように無意識に退くのを見て、確信を持った。
 すばやく、抱きかかえた。さ栄が息を呑み、首を振った。何か言おうとするのを押しとどめるように、唇を合わせた。言わせない。長い時間、息を切らしたさ栄が呻いて乞うても、口を貪るのをやめない。かつて年上の女がつい教えてしまったように、舌で相手の舌を探る。さ栄はそれに応えるうちに、ついにぐったりとした。
 その小さな頭を、新三郎はそっと抱きかかえて、言った。
「姫さま……。もう、お心はわたしひとりに向けて下さるのでしょう?」
「……む、無論じゃ。」
「ならば、わたしは何も思うことはない。姫さまの今も、これからも、わたしだけがいただきまする。それで新三郎は、本望。それだけで仕合せにございます。」
 さ栄は涙が弾けるのを覚えた。だが、それでいいはずはない、と決意を思い出した。
「新三郎! さ栄は、罪深い! お前に、甘えてよい女ではない!」
 おっしゃらないで、と新三郎は、さ栄の歯にあたる勢いでまた唇を強引に奪った。口吸いを続けた。さ栄は、おそろしい幸福感に酔う。つい、自分も甘い唇を夢中で貪ってしまう。
「……お教えいただいた通りに、できましたか?」
「あほう……。」
「もし、お辛い日々がおありだったとしても、……」
「新三郎!」
 さ栄は男にしがみついた。広い背中に指を張り付けた。新三郎は、女の細すぎる腰を、やさしく撫でた。
「……それは過ぎたことじゃ。お忘れくださいませぬか。忘れられぬ、お辛かったお気持ちだけ、わたしに下さいませ。姫さまのものを、すべて、わたしがいただきたい。」
「……貰っておくれ。有り難い、有り難いよ、新三郎。さ栄は、残らずお前のものになりたい。」
 新三郎の余裕は、ここまでだった。姫さまを夜着の上に押し倒した。胸元を荒々しく開き、憧れていた白い胸を眺めて思わず溜息をつくと、硬く盛りあがった乳房に唇を夢中で当てた。震えて尖っていく乳首にむしゃぶりついた。
 さ栄は、頭に突きあがるような快感に身をよじった。
 すでに、溢れている。男の不器用な唇と手が肌を這うたびに、自分でもおぼえがないほどのところまで、躰が熱を帯びて高まっていくのがわかる。
(これほどになっても、あれは、出ない……! やはりこのひとだけは、別儀(特別)……!)
 安堵と喜びに、叫び出したいほどであった。
 大光寺にいたころ、かつての夫婦の営みのときには、夫がついに立腹するくらいに、躰の反応は冷淡だった。とくに嫌悪したり拒絶したりすべき相手でもなかったのに、躰は冷え、乾ききっていた。心がそうだったからだろう。男女の行為そのものへの忌避感があり、最後までそれは薄れることがなかった。まるで面倒な汚れ仕事の家事のように思えるばかりだった。
 だからかどうか、そのときには肌は赤くならなかった。むしろ、ひとりになってふと過去を思い起こしてしまうときにこそ、ふく以外には誰にも見守られず、孤独に発作に苦しんだのである。
 それが、これほどのぼせるように興奮し、肌を熱くしても、魚の鱗かと怯えさせた、痛痒い醜い腫れは姿を見せない。
(新三郎、お前のおかげで……!)
 さ栄は泣いた。
「あっ、申し訳ありませぬ! 手荒くなってしもうた……?」
「違う、違う。……有り難くて、ありがたくて、泣ける。……かたじけない、新三郎。」
「姫さま……?」
「お前の、好きにしておくれ。わたくしも、うれしうてならない。」
 新三郎は勇む気持ちになって、さ栄の下半身にとりついた。寝衣の帯を解いていく手が震えた。
 さ栄は躰の最も熱っぽい部分に急に空気を感じて、当惑した。全てを目の下にした若者が感動に息を呑む音が聞こえて、当惑と羞恥のあまり気が遠くなりそうだ。
 「厭じゃ……。」
呟いてしまうが、若者がはっとしたのがわかると、気になさるな、と首を振る。不器用な指がとりつき、探る動きがはじまると、身を揉んで応えた。自分でも驚くほどに豊かに潤い、とめどもなく溢れだすのがわかる。
「恥しい。厭などといいながら、これほどになって。」
 少し乱暴に動き続ける手の甲を上からそっと抑えて、微笑んだ。無我夢中の単調な指の動きにもどかしさを覚えるとともに、年上の女らしい余裕が戻っている。
「もう、おいでなさい、新三郎?」
「よ、よろしうございますか?」
 十六歳の若者は、がくがくとした震えがあらためて身を襲うのを感じた。先ほどから愛おしさで狂わんばかりだったが、うながされると、初めてのときに男なら誰でも思い浮かべる一言が頭を占めた。
(おれも、いよいよ……。)
 変に大きく重たく感じられる女の白い腿を開いて、割って入った。さ栄は視線を横にそらしている。少しの時間と手間があって、女の横顔が一つ頷いたのを確認すると、体重をそのまま乗せた。前へ進む。
「えっ?」
 さ栄は突き刺される痛みに全身を強張らせた。そんなはずはないのに、と意外だった。
「姫さま?」
 目を固く閉じ、さ栄は痛みに耐えている。眉間に深く皺が刻まれ、苦しい息が漏れた。
「姫さま……? お痛いのか?」
「……うん。」
「痛いのなら、……もう?」
 とは言ったが、やめられるものではなかった。ついに恋しいひとと繋がったという自足と喜びに、全身が支配されていた。新三郎は柔らかく包まれている中で、ぎこちない動きを止めることができない。姫さまも返事はない。きつく閉じた瞼の下に、涙がにじむ。
(美しい……。苦しいお顔をされているのに……!)
 新三郎は涙と汗に濡れたさ栄の顔にかかる髪の毛を払い、唇をついばんだ。さらに愛撫を加えたいと思った時、唐突に終わりが来るのがわかった。
 女に許可を乞う。さ栄は目を固く閉じたまま、うん、うんと二、三度頷いた。手足を絡みつけるようにして、さらに密着したがった。若者は、その女の躰の上でもがいた。押し寄せてくるものに耐え、やがて限界が来て、放つ。さ栄は身を震わせ、何かに堪えているかのようだ。
……
「……これほども、汗をかいて……。」
 さ栄は新三郎の躰を拭ってくれた。どんなに遠慮して断っても、そうすると言って聴かない。かたじけない、勿体ない、と新三郎は緊張しながら、されるままになった。さ栄は固い体に布を動かしながら、あらためて若者への愛おしさがこみ上げてくるのを感じていた。
「姫さま、申し訳ございません。お痛くしてしまいましたか。」
 何を聞くやら、とさ栄は顔が赤らむのを感じたが、
「長いことしておらなんだゆえ、娘の躰に戻ってしもうたのかもしれぬ。」
 出血こそ見えなかったが、昔、小次郎に最初に刺し抜かれてしまったときに似た疼痛をおぼえている。新三郎は何と言っていいかわからないが、さ栄ははにかむ笑顔を、頬に血の気が差してすこし幼くも見える顔に浮かべると、
「変じゃねえ、痛かったけれど、うれしいとも感じたよ。まるで、わたくしも、……その……。」
「初めてであったかのような?」
「……言うな。言わないでおくれ。」
 新三郎は、さ栄をまた抱き寄せた。怒ったような、わざと澄ました表情をじっと見つめ、ついに女が照れて目を伏せると、唇を唇で追い、捕えて、また深く重ねた。

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