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第八章 契り  その三

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(苦しいようじゃな、新三郎?)
 さ栄は新三郎が熱に喘いでいるそばに座り込んで、じっとその片手を握っていた。ときどき、頭を冷やす布を換え、汗を拭く。
 医者は脇の下の肉の削げた傷口を開いて、割れてめり込んでいた銃弾のカケラをとりだし、膿んだ傷を洗い直したようだ。新三郎がたびたび鋭い悲鳴をあげ、無意識のうちに暴れたのを、さ栄たちも一緒になって抑えつけ、見たこともない荒い処置が施されるのを助けた。膿を出さなければ、熱は下がらないと言った。
 傷口に当てた麻布を取り換えてやる刻限は、まだのようだった。
(できることなら、さ栄の命をやるぞ。汚れてしもうた愚かな魂じゃが、命は命じゃろう。欲しければ、今すぐ取っていっておくれ? ……神さま、さになさってくださいませぬか?)
 さ栄は、新三郎が生きていてくれるならば、なんでもできると思っていた。医者を呼んだ時も、もしも兄が自分の躰などで代償を要求するのならば、それも辞さぬと覚悟していた。爾後、兄に飼われるような存在にされてもよいと思い詰めた。幸い、左衛門尉は何も言ってこないが、そこに別に安堵も感じなかった。新三郎の命ばかりが大事なのである。
(なにもできぬ……。さ栄には、なにもしてやれぬ。)
 それが悔しく、つらくて、病人の側を離れられない。
 布にはまだ、血膿がこびりついていた。それを新しいものと換え、また全身の汗を拭ってやる。
(新三郎……お前の寝顔を見たのは、二回目か。……すまぬ、これほどにお前は苦しげなのに、そしてわたくしもこれほどに心が痛いのに、……へんじゃねえ、綺麗で、愛おしいよ。……されど、この綺麗なお顔のまま、仏さまになったりしてはいかぬよ? また目を開けて、わたくしを見ておくれ! お口を開いて、へんなこと、楽しいことで、またさ栄を笑わせておくれ!)
 新三郎の息が荒い。さ栄は、額に浮いた油汗を拭ってやる。
(新三郎、お前とわたくしは、似てしまったの。きょうだいを、おそろしい形で喪った。わたくしは父上もきょうだいに殺されてしもうたが、お前もきっと父君がごきょうだいを殺したのじゃろう? 一家で殺し合う。なんとむごいことであろう。こんな目に遭いながら、わたくしたちは平気のようにこの世を生きている。思えば、不思議じゃねえ。何故、そんな真似ができる……?) 
(お前は、……お前は見事じゃったよ。ひとりで耐えた。乗り越えた。あの日もわたくしを、助けに来られるほどに。)
(友……友じゃったろう、瀬太郎は? 友を引きたてようと努め、その死に涙できる、ひとの心を持ち続けていた。)
(……わたくしは違う。とても、さようにはいかなかった。おそろしい罪を隠して、澄ました顔で嫁になど行って、ただただ身の穢れに怯えていた。人の心を忘れ、魚になってしまっていた。)
(……新三郎! お前だけなのじゃ。お前だけがさ栄を、ひとにしてくれる。生きようと思わせてくれる。)
(……お前と生きていきたい。お前がいない世には耐えられぬ。お前と生きていきたい!)

 さ栄はそのまま二夜を過ごした。ふくや一太郎がどんなに代わると言っても、黙って首を振った。自分が倒れぬ程度にものは口にしたが、あとは病床の横に座り、ひたすらに祈り、苦しげな新三郎に心のなかで話しかけた。
 夜明けにはうつらうつらしたが、はっと目が覚めると、怪我人の様子を見て、失望して涙ぐんだ。夜着から出た片手を握って、頬に当ててみた。まだ熱い。唇を結んで、激情を抑えた。
 医師は、そのつもりはあっても、とても出立などできなかったであろう。雪がやむまでに、結局、三日目の午までかかった。

 新三郎のほうが目覚めていた。まだ起き上がれないが、意識ははっきりしている。枕元にさ栄姫さまが目を閉じたまま、座っている。頭をがくりと落した拍子に、ふと目を開いて、こちらを見た。
「……新三郎?」
「……!」
 新三郎の声は、咽喉にかかったように出にくい。
「無理なさるな。平気か? 痛みは? 熱は?……あ、いま、お医者を呼ばせる!」
 立ち上がりひとを呼ぼうとするさ栄姫に、お待ちを、と目で訴える。
「しばらくは……。」
「何じゃ?」
「……しばらくは、このままで。」
「じゃが、新三郎、お前は大怪我で……。」
 さ栄は新三郎の額に手を当てた。熱は下がっているようだ。
「よかった……。よかった! あ、平気か? 苦しうはないのか? 」
「はい。……姫さま。お願いが、……ございます。」
「何か? 何が欲しい? 何でも言うがよい!」
 さ栄が勢いこんで尋ねた。回復が見られるのだ、と痛いほどの喜びが心に充ちている。
 新三郎は、少し苦しんで、傷とは逆のほうの馬手(みぎて)を、姫さまのほうに差しだした。握ってやろうと反射的に前にかがんだ姫さまの肩に、その手を回す。柔らかく掴んで、ゆっくりと引き寄せた。
 さ栄は驚いたが、されるままに体重を預けた。横臥したままの新三郎に覆いかぶさる形で、片手抱きにされた。伸びた首筋に、新三郎の溜息がかかった。
「……!」
「お許しください。ご無礼を、どうかお許しを。……これで、もう……。」
 鉄砲傷で倒れたとき、新三郎は戦場に出るようになって以来、はじめて明確に自分の死を意識した。
 これまでは、どれほど苦しくても勝ち戦ばかりであったし、たとえ手傷を負ったとしても、意識を喪うところまで来たこともない。無我夢中で戦うだけで済んでいた。そして、死はもとより覚悟の上だと思い込んでいた。
 ところが、ついにはじめて死に直面したと思わざるを得なかったとき、武家の子としての教育で植えつけられ自分のものにしたはずの生死の心得など、なんの意味もなかった。死の手に掴まれたと認めた恐怖の一瞬、逆に自分の生きてきた日々を思い、無念の思いに叫びたくなった。
(一度でいい、姫さまをこの腕に抱きたかった。)
 担ぎ込まれた時、姫さまのお顔を見た瞬間、剥き出しの悔恨に襲われた。最期にお顔を見られてうれしいと思う気持ちとともに、自分が何を切実に望んでいたのか、はっきりとわかって悔しかった。
 今、半身を引き寄せ、姫さまの細い、しかし柔らかい肩に手をまわし、温かい背中に腕を置いている。驚くほど軽い体重を快く味わい、甘い肌の匂い、髪の匂いに包まれている。 
 こうしたかった。
 身動き取れないように押さえつけているわけでもないのに、驚いたあまりか、姫さまは抱き寄せられた姿勢のままで、黙って動かない。跳ね退いてもいいのに、そうされない。新三郎はそれに安堵し、有り難いと思った。
「……お許しください。本望にございます。……これで、もう死ねる。」
 姫さまが息を呑んだのがわかる。はじめて、少し躰を動かしたので、肩に回した手を外したが、起き直るでもない。横たわる新三郎の胸に縋るような、そのままの姿勢で、言葉が漏れた。
「……うつけを申されるでないよ。これで死んでしまわれては、困る。……困るのじゃ、新三郎!」
「……はい?」
「わたくしは、……さ栄は、お前とつっと一緒に、……」上から新三郎の顔を覗きこむような姿勢になる。はじめて顔が見えると、本当に困ったような笑顔に、涙が流れている。「……一緒におりたいのじゃから。こんなところで、……こんなことで、本望などと言うて、……死なれて、なるものか!」
「はい。申し訳もございません。……新三郎は、ここでは死にませぬ。」
「約定じゃぞ。……ゆるりとでよい、必ず、お怪我を治すのですぞ。」
「はい。」
「……お医者を呼ぶよ。」
 躰を起こしてよいか、と言うのであろう。新三郎はこのまま息のかかる間近に姫さまの顔を見ていたかったが、頷いた。姫さまは座りなおすと、ふくを呼んだ。医者を呼びにたれかをやらせよ、と命じる。人手がないのだろう、ふく自身も去った。
 さ栄は息を整えた。抱き寄せられたとき、自分の中で何かが喜ばしく弾けている。
(新三郎もやはり、わたくしと同じ想いを……!)
「新三郎、さきほど、つっと一緒に、とさ栄は言うた。」
「はい。……さきほどの不埒な真似、もしお忘れいただければ、これよりも変わらず、忠義を尽くし」
「忘れぬ! 忘れてやらぬ!」
「……お許しくださいませぬか?」
「違うよ。違うのじゃ、新三郎。……お前の変わらぬ忠節、いかほどにも有り難いと思うてきたことか。じゃが、……のう、勇を奮うて、頼むよ。」
「はい。なんでございましょう?」
「……考えて貰えぬか、新三郎? 主従のそれとは異なる契り(関係)は、二人にはありえぬのか、と……。」
 さ栄は顔を伏せた。契り、の言葉が、そのつもりはなかったのに「愛情関係」という意味を越えて生々しく感じられて、羞恥に打たれていた。この時代、「契りを籠むる」とまで言えば、肉体的な結合の意味になる。新三郎は黙り込んでいる。
(新三郎、たったいま、お前はわたくしを抱き寄せてくれた! あれは夢か何かだったか?)
「姫さま……。」
 新三郎は、躰を起こそうとする。痛みに顔を歪めた。
「無理はならぬ! 傷口が開く!……ああ、すまぬ、すまぬ、新三郎?」
 痛みを必死の思いで我慢して、新三郎は半身を起こし、さ栄の肩をまた片手で抱いた。さ栄は驚きと喜悦に一瞬で包まれた。新三郎は、すぐに力尽きたように、そのまま、また小さな悲鳴のような息を吐きながら崩れ、仰向けになった。さ栄が寄り添って倒れる形になる。
「姫さま……お許しください。また!」
「なにを気に病む? さ栄が、かようにしてほしくて、させた。」
 新三郎は、さ栄の髪の匂いを嗅いだ。泣くような声が出る。
「ああ、……姫さま、あなたさまを、お慕いいたしておりまする。前からつっと、心の底で願うておりました。あなたさまと、かように、と!……言うてしもうた。ご無礼を、お許しください……。」
 さ栄の胸のなかで、新三郎の言葉が反響している。喜びに、気が遠くなりそうだった。
「……うれしい、新三郎。これほどうれしいことが、おそろしいことの後にあってよいのか? うれしい! 新三郎、さ栄も前から、望んでおった!」
 新三郎は、生まれてはじめて味わう感動に震えた。さらに強く、さ栄の柔らかい躰を抱き寄せようとしたが、左腕を上げた途端に、痛みに呻く。
「……あ、あ? 無理はいかぬ。」
「無理がしておきたい。姫さまと、……。夢のようで……。夢が醒めてしまえばもう、愛おしい姫さまには触れられぬ、と思うと……。」
「これ!」
 さ栄は笑み崩れた。半身を起こして、二晩で深く落ちてしまった新三郎の頬を両手で挟んだ。この世で一番好きな顔を眺めて、笑顔を見せた。泣いている。抱き寄せられている悦びのなか、新三郎の口から出た言葉に、うれし涙が止まらない。
(やっと、言うてくれた……。わたくしの、愛おしい新三郎。)
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