魚伏記 ー迷路城の姫君

とりみ ししょう

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第八章 契り その二

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 千尋丸あらため蠣崎一太郎季忠。立派な名だが、十一になったばかりだから、つまりまだ子供である。
(初陣ゆえ、まずはこの程度の仕事のほうがよいか。)
 新三郎は、あまり気乗りのしない、いつもの警察出動めいた出陣に付き添ってやりながら、この幼い当主を教育してやるくらいのつもりでいた。
 新舘の強清水殿は圧迫に耐えかねて、ついに一家ぐるみ逐電し、郎党の多くも四散した。ただ、残党が新舘に残り、不穏である。あるじがいなくなったはずの新舘の「御所」たる屋敷を不法占拠しているので、これを退去させねばならない。
 冷える。夕刻にはまた雪が降るのは、この土地の者なら誰でもわかった。
「蠣崎、つまらぬ仕事じゃな。早く済ませよう。」
「承知。」
 と、明らかに油断した西舘の顔見知りの備の頭(かしら)に頷いてしまったのは、新三郎にも弛みがあったとしか言えない。
 思ったより抵抗は激しく、やがて本格的な戦闘になってしまう。そして、あろうことか押された。立て籠もった者の数と戦意を、大きく見誤っていた。
(まずい。斯様な薄い囲み、破られるではないか?)
「いったん引きましょう。加勢がいる。他にもどこか近くに敵が潜んでいるやもしれぬ。」
新三郎の進言に、西舘の備を預かる頭はかえって昂奮し、意固地になった。
「なんの、もう門は破れた。かようなれば、叛徒は全て首を刈り取ってやらねばならぬ。」
「押し返されております。」
「引きずりだしてやったのではないか?」
 と笑ってみせた将が、馬上で伏せた。冷気を含んだ陰鬱な色の空から、驚くほど大量の矢が降ってきたのだ。
(こんなに居りおったか。これは、残党どころではない。図られた?)
 四散したとみせて、強清水殿の兵の大半は残っていたのだ。逐電したはずの主人が命じたのかもしれぬ。乾坤一擲の逆襲を図ったのだろう。
 首を射抜かれた西舘の備頭(そなえかしら)が、馬から転がり落ちた。雪の上に真っ赤な血がたちまち広がる。指揮権が新三郎に移ったわけである。
(踏みとどまっても抑えきれぬ。)
 退却を決意した。早いほうがよい。追撃の勢いで内館に攻め込まれぬよう、撤退戦をうまくやらねばならぬ。せめて相手が新舘から出られぬうちに加勢を呼び、新舘そのものを囲む戦の態勢を整えねば、浪岡城内を敵に席巻されかねない。
 屋敷を包囲する形で散らばっていた兵を集結させ、門から飛び出てくる敵をいったん押し返した。
「深追いするな。」
 相手を怯ませたところで、自分たちが殿軍となって、大半の部隊を下がらせる。
「よし、退く。走れ。」
 矢の雨が再び襲って来た。
 子供の足を忘れていた。十一歳の男子となると、抱きかかえて走るわけにもいかない。背後から降って来る矢の盾になるつもりで、新三郎は一太郎をかばうように汚れた雪をふんで走った。あまり斬りあわず、逃げるのが先決だと兵たちにはすでに命じている。
 後ろから何かが弾ける音がした。その瞬間、新三郎はあばらを砕く勢いで背中から殴られたかと思った。銃弾が腕の付け根にちかい脇腹を撃ち、鎧の胴に穴を開けていた。
(しまった! 鉄砲まで持っておったか?)
 よろめいたが、片手と膝をついただけで倒れない。一太郎をかばって立ち、走らせた。声は、出る。左手の脇の下に鈍い痛みはあり、血が噴き出ていているらしいが、
(どうやら弾は逸れた。心の臓もはらわたもやられてはいない。)
 もう一発が、目の前の地面で爆ぜた。よし、とまっすぐに走る。
 橋のかかった門に辿りついた。新舘に栓をするように集まっている自軍に迎えられたときは、兵をまとめる元気があった。

「鎧を脱がせると、桶から水が溢れるように血がざっと流れ出ました。」
 一太郎は泣いている。大袈裟な言いようだったが、自分をかばって撃たれたように思い、動転しているのだろう。
屋敷で迎えたさ栄姫は、戸板で担ぎ込まれた新三郎のさまに、一瞬茫然とした。
 幸い血も止まり、手当を受けたはずなのに、まだ戦場にとどまっているうちに、ほどなく躰に変調が来たのだと言う。躰が熱を帯びていた。熱が出ていればまず破傷風ではないのが救いであったが、すぐに全身高熱になった。立っていられなくなり、これは応急処置では済まないのが誰の目にもみえた。
 血の気が失せた顔の新三郎は薄目を開け、戸板の上で躰を起こそうとしたが、さ栄が止めるまでもなく、そんなことはできない。何か呟いて、目を閉じてしまった。昏倒したに近いのではないか。さ栄は新三郎の手を握りしめ、心中で叫んだ。
(死ぬな、新三郎! 死なないでおくれ!)
 さ栄の顔も蒼白になっているが、涙を抑え、てきぱきと新三郎を寝かせる指図をした。そして、
「あの国手(医者)を呼んでやって下さい。」
と、内舘の兄に頼む使いを走らせた。

 さ栄を憂鬱にさせたことに、女の躰の変調を知ったあの夜からしばらくすると、左衛門尉は京から医者を呼びよせたのである。
 さ栄の肌の病を治したいというのであった。左衛門尉は多額の報酬をおしまなかったのだろうが、それにしてもいかなる気紛れか、あるいは医師として珍しい症例を見たかったのか、忙しいはずの名医はたくさんの患者を置き去りにして、はるばる下ってきた。
 たしかに国手(名医)かもしれぬ、と髭の似あわない痩せ面の京の医師の前に、もろ肌を晒して診せたさ栄が、秘かに思わざるを得なかった。些か軽佻な都会人らしく見えた医師が、自分には治せない、とあっさりと言ったためである。
「おそらくは、心気のお乱れが引き起こすものでしょうから、わたくしがモトから治せるものではござりませぬな。お痒くなられたときは、これまでどうなされていた? うむ、油はよい。似たような、痒み痛みを抑える塗り薬しか出せませぬが、よろしいか? ……いかなるご苦労おありか医者の知るところではないが、お気の流れをよくし、お心を落ち着かせてお過ごしになるとよろしい。お命にかかわる病ではない。長く、宥めながら過ごすべし。ご結婚されていた?……そうか、お嫁に行かれたとたんに、これに似たような、肌の腫れが不思議に引いた方もいらっしゃったから、それは残念にござる。」
「まあ、また嫁に行けば、治るもので?」
 さ栄はこの医師の洒脱が何か気に入って、冗談のように尋ねた。兄もまさか言っていないだろうから、不徳義の罰が当たったのではないか、とは訊かない。それはそれだろう、とへんに割り切っている。
「単簡には申し上げられぬ。……お嫁入りはともあれ、できるならば、お心おくつろぎの内にお過ごしになられよ、とさようのみは申せましょう。……わたしは、切り傷や刺し傷、できもの、面疔の厄介なのは、たいてい治せる。破傷風と、心の内側から起きる怪我は、せん方なしなのでござる。」

「たいていは治せる、と申された。」
 振りだした雪のなか、別に急いだ様子もなくやってきた医師が笠を脱いでいるところに、さ栄はふくが止めるのも聞かず、自ら出迎えて、迫った。
「今日、おみたてはいたします。明日からは雪もいったんはおさまるときいたので、いよいよ宿願の蝦夷大島と言うのを見物に、旅立つつもりでございますが……。」
「治してから、お立ちになられよ。怪我人は、蝦夷島の代官の跡取りです。郷里にあてて文でも書かせれば、ご便宜もはかれよう。」
 臥所(ふしど)に急がせると、さ栄は語調を改めた。
「……お願いでござります。この者を、助けてやってくださいませ。この通りじゃ。」
 貴人に頭を下げられるのは、馴れてしまっているのだろう。医師は別に驚きも慌てもしないが、意識を喪っている新三郎の脈をとり、難しい顔で頷いた。
「二人、助けられればよいの。」
「……?」
「姫君さまがお心落ち着けてお暮しになるには、この若侍が要るのでございましょう。いちどきにお二人を診るかのようじゃ。」

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