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第六章 魚伏記  その六

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 こうしたことは、残された青年の知りようのないことだった。
(さ栄も、嫁に行かされる……。)
 青年の胸に風が吹いていた。あれほどに自分を求めていた女が、急に一切の連絡を拒み、何一つ話すでもなく、一方的に仲を断ち切っていた。そして、雪が降りだす前に、知らぬ土地に嫁ぐという。それを青年は、兄である若君から告げられたのである。
(若君は何か、気づいた。)
「お前には先に言うておくが、さ栄は近々に嫁に出す。あの小さい者も、もう嫁入り前の身ゆえ、いくら親しい妹と言うても、……相手にしてやるな。」
「……あ、相手に、とは?」
「……心無い噂を世に立てさせる真似は、兄のほうが避けてやれということじゃ。」
(おれとさ栄の間に、過ちがあったくらいのことは、感づいておられるか!……じゃが、肝心のことはご存じない。ご存じないのじゃ。)
 若君にすべてを打ち明ける気などなかった。血の繋がった者同士で交わったと「誤解」(と青年は信じている)されているのは腹立たしくもあり、つらくもあったが、かと言って自分が北畠の者では本当はないと告げるのはできなかった。それでただちに放逐されるわけでもないだろうが、知ってしまった父上や若君―兄が自分をどう見るかと考えると、まさにいたたまれぬ気がした。
とりわけ、「兄」である。知らぬ間に青年の中で、紛いもない貴種として家督を継ぐ存在への、以前の自分であれば思いもよらない複雑な感情が、育ちつつあった。それは、いささかならず不逞の色をすでに帯びている。……
 しかし、このときは、思うのは少女のことばかりである。
 嫁入りをやめさせることはできないし、するべきでもないとわかっていた。ひそやかな関係が、少女の身のためにならないことは最初から知っていた。
 だが、恋人に会いたかった。ただ一人の血縁(と信じていた者)に去られ、激しい孤独が身を食んでいる。この上、最後のひとりが離れていくのは、おそろしい気がした。
(「わたくしがお子を産めば、あなたをこの家の者にしてさしあげられます」……と言うてくれたな。)
 閨での睦言にすぎないとわかっていながら、自分がそれにどれほど縋っていたか、その可能性が消えてからこそ、青年には身に染みてわかった。
 そして、かれは若い男である。少女の美しい裸体が、柔らかく温かい肌が、愛らしい仕草が、くぐもった声が、よい匂いが、髪の手触りが、澄ました顔、泣き顔、崩れた顔が、痴語に他ならないけれど胸を打つあれこれの言葉が、……懐かしくてならなかった。決して喪いたくなかった。
 少女がすべてを知らされ、「魚になってしまった」などとは知らない。急に心変わりがあったとも信じられなかった。
 だから、慣れ親しんだ少女の居室に、予告もなくまた忍び入った。

 少女は近づいてきた影に気づくと、床を飛び出して逃げようとする。
「……!」
 隣室に寝ているはずの侍女を呼ぼうと引き戸を叩いたが、応答がない。
 妙に大きな鼾が聞こえ、目覚める様子がない。そして、隣室になにかお香の焚かれるような匂いがするのに気づいた。
「おふくは、寝ているだけだ。眠らせた。」
 青年には、もうそうした真似ができるようになっていた。「祖父どの」から教わっていたのだ。
 少女は、顔を歪めると、ぶるぶると首を振った。立ち上がり、引き戸を開けて逃げようとする。青年はかっとなって、その細い影に抱きつき、板の間に押し倒した。
「さ栄……! おれだ!」
 わかっている。少女は無言で首を振りつづける。
「……口が利けぬのか? なんとか言え。言うてくれ?」
「……厭で、ござい……ます。……厭じゃ。」
(何を言いおる?)
 青年はすばやく、懐かしい、温かい匂いに顔を寄せた。唇を柔らかい頸の肌に押しつける。少女の躰が戦慄したのがわかる。
(ほら、お前はこうじゃ。いつもの、可愛いさ栄……!)
 さらに愛撫の範囲を広げようとした瞬間、少女が躰を返して、逃れようとする。半ば以上躰を起こして、青年の手を離れる。
「なぜ、逃げよる?」
「ご、ご勘弁、……勘弁ください!」
(嫁に行くからと言うてか?)
 青年に理不尽な怒りが湧いた。たちまち追いつき、また押しひしぐ。
 だが、少女の抵抗がやまない。つい最近まで、睦みあっていた頃には、最初は恥ずかしがって抗うようで、いつの間にか力が抜けて躰が柔らかくなっていた。それとは違っていた。厭がる動作の勢いが落ちない。抗う拳や肢に、憤りの力が籠もっていた。
「さ栄?」
「いけませぬ……。きょうだいじゃ、妹、……妹!」
「忘れたか? 違うぞ!」
「厭……、厭じゃあ!」
 おのれ、と青年は小さく叫んでいた。怒りのあまり、一切の容赦がなくなった。少女の首をとらえ、少し力を加えて絞めると、簡単に落してしまう。少女は意識を遠のかせた。
 ついに力を用いて、まったく無理強いに犯したのである。
 少女の気がついたときには、むき出しにされたまだ硬い胸乳が上から押しつぶされ、男の腕にからめとられて両足が大きく開かされていた。内部にもう深々と入りこまれていた。絶望感に襲われ、大きく悲鳴のような喘ぎを一つ上げた。しかし、見開いた目から、涙は出なかった。
 青年が動きながら、しきりに耳元で何か呟いていたが、何も思えなかった。苦しくて閉じていられない口に押し当てられる男の唇や舌は、苦いばかりだった。やがて、躰の奥に湯のようなものを注がれたときも、無感動である。かつて、本能的な怯えの中でも、それには喜びや奉仕の自足がたしかにあったが、いまはもう忘れてしまった。
 行為の全てが、空々しく思えた。汗はかいている。それが目に入り、慌ててつぶったときに、はじめてひどい悲哀に襲われた。閉じた瞼から、涙が静かに流れた。
 女が泣いたのには、青年は何か安堵したらしい。その涙に唇を寄せた。少女はそれから逃れる。
 体重を外された途端に立ち上がって、厠に走った。そんな風に慌てて後始末に行くのを見せたのは、はじめてだ。濡れた場所を拭うにしても、男の目を気にしながらではあるが、側を離れようとしなかったものだったのに、今はとてもそんな気にならなかった。
 後始末を終えても戻る気になどならず、縁で力なく座り込んでいるところを、有無を言わせず襟をとらえられた。引き摺るように寝所に戻される。少女は無抵抗だった。
 青年は、少女の躰を突き飛ばし、寝具のうえに転がした。茫然とした表情で、少女の半裸体を見つめた。少女が黙ったまま、乱れた夜具の上に起き直って座ると、その前で軽く頭を下げた。
「ひどいらんぼうをした。すまぬ。今、痛くないか?」
「……。」
 言われてみればまだ首が痛いが、それを口にしても仕方がないし、あまり言葉が出ないのだ。
「お前、……大光寺の家の者に、嫁ぐのか?」
「……はい。」
「行くな。」
 少女は首を振った。
「おれから離れたいのか?」
「……。」
 少女は考えていたが、そうじゃな、と思った。
(わたくしたちは、離れなければならぬ。また、今のようなことになる。それは、もう厭。)
「はい。」
 少女が首を縦に振ったとき、青年は殴られたように思った。全身が冷えるのを感じる。
「兄上。……わたくしたちは、兄妹で、ございます。」
 長い沈黙が流れた後、少女はそれだけ言った。若君から言われたとおり、それ以上は言えないし、言わない。
「じゃから、と言うか? 今さら? お前、忘れたか?」
 少女は首を振った。違うのだ、気づいて、目を醒ましてくだされ、と思った。
「お前は一度、おれと離れるくらいなら死にたい、と言ったな? それも忘れたか?」
(ああ! はい、申しました! あのときは、まことにそう思った。万が一縁談じゃなんじゃと言われて愛しいあなたさまと引き離されるくらいなら、咽喉を突いて死ぬ方が幸せと、その言葉に嘘はなかった。……その想いのほうこそが、間違いであったとは!)
 少女の中で悲鳴のような言葉が渦巻いたが、それが口をついて出ない。ただ、小さく首を振った。
「そうか、覚えていれば、……今、ここで死んでみよ。」
 青年は小刀を床に投げた。
 少女は思わず、それに手を伸ばした。無言で掴む。救いを手にできた気がした。
(死ねる……。これで死んでしまえる!)
(あっ、死んでくれるのか? あのときに嘘はなかったか? ああ、さ栄! そうか、ともに死のうぞ!)
 青年の心に、倒錯した狂おしい喜悦が起きている。少女は今にも鞘を払って咽喉をつかんとしたが、待て、とそれは止めた。自分の脇差を引きつける。
「お前だけ死なせはせぬ。……お前は、それでおれを刺してくれ。おれは、そのときお前を一息に殺してやる。そのほうが、お前は楽じゃ。……腹を切ってもいいが、やはり、そなたの手にかかりたい気がする。……案ずるな、もしお前が仕損じても、あとは自分でやれる。少し先に行って、待っていてくれ。」
(ああ、さにできれば! 今すぐ殺して貰いとうてたまらない! 兄上とここで死んでしまえば、ともに魚になって一緒に沢で泳げるじゃろうか? そのほうが、これから生き恥を忍ぶよりも、ずっとよいではないか?)
 小刀を握り、青年の胸に向けてかざそうと心を決めたとき、気づいた。死ぬな。若君さまの静かな声が聞こえた。死んでくれるな。
(……若君さまを、もう裏切れぬ! あの兄上さまをこれ以上悲しませてはならぬ! わたくしたち二人のために泣いてくださったお方を……!)
 少女は首を振って、小刀をぽとりと落とした。一瞬の躊躇ののち拾い上げ、振り返りもせずに後ろに遠く放り投げた。
 青年は落胆し、刀を握ったまま、怒りに真っ青になっている。ぶるぶると震える手で、刀を鞘に納めた。それを見て、少女が小さく安堵の息をついたのがわかり、許せぬという気持ちに火がついた。
「死ねぬか。死ぬのは厭か。」
「……。」
「さようか。わかった。おれの子ではなく、大光寺の連枝の子を産みたいか? そうじゃな、流れ者の孫より、南部の陪臣のその端くれのほうが、まだましか。」
(違うのじゃ、兄上! 兄上のお子を産むなど、おそろしいことだったのでございますよ! いま、今だってわたくしは、もしさきほどのお胤で孕んでいたらと思うと、こわくて気が狂いそうなのじゃ!)
「しかし、今ので、孕んだかもしれぬな?」
 少女は息を呑んだ。そんなことが男にわかりはしないと思うが、自信ありげにいわれると、不安で胸が潰れそうだ。兄上は拗ねてさが悪(意地悪)をしている、それだけじゃ、と思おうとしたが、頭がぐるぐると回る気がして、躰をまっすぐにしていられない。
「大光寺の某の家で、産むがよい。良い考えじゃ。その家を、おれの子が乗っ取ってくれるわけよな?」
「あ、兄上……。魚しか生まれませぬ。」
「魚?」
「おそろしい……。兄いもうとで交わって生まれた子は、きっと魚の化け物じゃ。」
 少女は、白い目玉ばかりがぎょろぎょろと大きい、不気味な稚魚そのものの濡れた赤子が自分の胎から落ち、床の上で跳ねまわるさまをありありと思い浮かべた。
「……わたくしがもう、魚になってしまっているのじゃから!」
「なにを言うておる? 一切忘れたか? ……そうか、お前!」
 無かったことにしたいのか、と青年は怒りに痺れた頭で思った。あの日々はまったく無かったことにしたいのか。だからおれの出生の秘密はまるで覚えていないと言いたいのか。今夜、無理強いに犯されただけだと言いたいか。都合よく、数々の自分の睦言も仕草も涙も、一切はあらぬ痴態として忘れたいのであろうか。
(おれの心妻(恋人)は、もうここには、おらぬ。)
 青年は立ち上がった。
「ふくは、朝になればいつもよりもよい気分で醒めよる。案ずるな。」
「兄上、兄上……お願いにござります。どうか、兄上に、昔の」あっ、と少女は思った。また、肌に鱗が生えかけているかのような、厭な熱が躰を覆っている。咽喉がふさがるように苦しい。
(また、忌まわしいまぐわいをした。それは定めて(必ず)、こうなる!)
 涙の底で発作に苦しみはじめている妹の姿を、なにも気づかぬ兄は冷たく見下ろした。
「さ栄。大光寺で待っておれ。攻め込んでやる。……おれは、北畠となって、必ずお前をもう一度手に入れる。お前を取り戻してやる。」
 全身を赤く覆う疼痛に身を揉んで耐えている少女は、押し潰されたような呻き声しかあげられない。
 青年は黙って、部屋を出て行った。
 これが、六年も前のことである。
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