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第六章 魚伏記 その二

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 薬師は、この頃まだ芙蓉に瓜二つといってよかった少年の顔を上座に眺めると、さすがに心中の何かが抑えきれない様子であった。
 だが、お供も連れずひとりで、なにをしに来たのかは不審である。聞けば、あの御所さまの子にしてはご気性の荒いところもおありという噂で、つい先ごろ不埒者を手討にしたことすらあるというが、まさか自分を斬りに来る義理もあるまい、と思った。一抹の不安があるから、そんな風に考えてしまう。
「祖父どの。おひさしい。」
 薬師は安堵した。自分を祖父と思っているようなら、案じることはない。落ち着いて、神秘的な雰囲気をまとった薬師の態度を崩さずに、用を聞いてやることができた。
「亡き母上のことを伺いに来た。」
「米花御前さまのことなら……たしかにわが娘ではござったが、もう、十五年も前のことでござるが。」
「じゃが、覚えておられよう。ご存知じゃろう。……母上のお躰に、……足のどこかに、痣はおありであったか? お教えありたい。」
 それだけを声を絞り出すようにして言うと、少年は黙って返答を待った。老人は蒼ざめた少年の顔色に内心で驚き、考えをめぐらせる。
「……ああ、それは。」
「それは?」
「あり申した、が?」
 意外なことを尋ねられて当惑する様子で―実際、それにあまり違いはなかったが―さらりと言う。少年の顔がたちまち上気し、震えを抑えようと歯を食いしばるような表情になるのを見たとき、老いた薬師の中で昂揚が弾けて、止まらない。
(ついに……ついに時がきよったか? 浪岡の者どもに、北畠一門に、思い知らせてやる時が……?)
「……ど、どのような、痣でござったか?」
(これは困ったか。)
 しかし、こうした時に相手を言いくるめるのは、何でもなかった。薬師は一面では、そうした手練手管で世を渡ってきたのである。老人は、悲しげな表情を作った。意味も何もわからないが、いかにもそれらしいだろうと思いながら、
「御曹司さま、それをこの爺に言わせなさるか?」
 これだけで半ばはよい。少年は、ほぼ答えられた気になってしまっている。すでに容易ならぬ神経の状態にあるから、何か意味ありげなことを言ってやれば、勝手に容易ならぬ答えをみずから導き出してしまう。
(やはりあったのだ……不吉な、毒花の形の痣が!)
「……だから、芙蓉とお名づけか。それで、米花御前と……。」
(そうか、知れた。)
 薬師は内心で手を打つ思いだったが、沈痛な表情を固めた。無言のままでいる。焦らない。魚は自分から網にかかりに来た。じっくり待って、釣り上げてやるべきであろう。
「御曹司さまはいま、米花御前さま……芙蓉の痣のことをお尋ねになった。……お考えおありのご様子。爺もいろいろに思うべきところあり。三日、考えさせてくださりませぬか。三日後にまたお越しあれ。」
「三日……。」
少年はよろよろと立ちあがった。その体格に、薬師はあらためて感じ入った。
(これは、芙蓉の子じゃな。あの娘の中に流れる血が、この体躯を作りおる。あやつの一族の男は、大抵こうであった。)
 三日の間に、薬師にはやるべきことが多かった。不在にしていた間も、浪岡城中の噂は仕入れてはいたが、少年の内心を覗うようなものまではわからない。それを急いで探った。そして、ほぼ正確に察した。次に、自分の躰に小さな仕掛けを施した。
「ご覧あれ。」
  老人は枯れ枝のように細い腕で衣をめくり、旅で鍛えられた妙に逞しい太腿をさらした。赤黒い痣に似せた絵を小さく描きいれている。
「これと同じ痣は、米花御前の幼き頃に、たしかに見た。御曹司にも、おありなのではないか?」
 少年は頭を抱えて、呻いた。動かぬ証拠を突き付けられた気分になる。その痣の絵は、冷静に観察すれば、たいして似ていなかったかもしれないが、すでに絶望的な思い込みに囚われている。
「御曹司さま……。」
「呼ぶな! おれは、おれは……。」
「では、わが孫ゆえに小次郎と呼ばせて貰おう。小次郎どの、母から痣を受け継いだからと言うて、さようにお嘆きのことはあるまい?」
わかっていて、聞いてやる。少年は、苦しい息を吐いた。
「……痣のこと、母上の痣のこと、祖父どのはたれかに喋られたことがおありか?」
「愛しきわが娘の、あの玉の肌にあった唯一の染みを、なぜ他人に口にせねばならぬや?」
「……さようよの。……すまぬ、気分がすぐれぬ。これにて。」
 ふらふらと立ち上がった少年に、薬師は、逃さぬ、と追い打ちをかける。
「ただ、わが娘にも、……ああ、言わねばならぬ! 年頃ゆえ、親の知らぬところであやまちはあったようじゃ。鳥を籠に入れるわけにもいかなんだが、悔やまれてならぬ。」
 わっ、と少年は膝をついた。
「もし御所さまに知られれば、今でもこの首を打たれるところじゃが、……小次郎、わが孫がゆえに、いや、おぬしがゆえに打ち明ける。」
「辻子太郎左衛門と申した?」
(そのような名、知らぬわ。半殺しにした夜這い者ですらない。手の届かぬ芙蓉に思い募るあまり、気がおかしくなった者どもの一人であろう。)
「さて……?」
  沈痛な表情で黙り込んでやる。少年の頭の中で、真っ黒い想念だけが渦巻いていよう。
(あ奴ですらないかもしれぬのか? それほどの淫奔の女だったか、わが母は……?)
 耳に入ってきた根拠もない噂の数々が、すべて真実であるかのように思われてくる。
(貴人というのは、これほどもおのれの血の尊貴にこだわりおるか。いくら北辺の土地とは言え、天下に下剋上の世は何年続いておると思うか?)
   老人は内心でほくそ笑みつつ、呆れる思いでもあった。元からの北畠一門への恨みにあわせて、少年の衝撃の激しさにも嫌悪をおぼえている。
(もそっと追い込んでやる。よくよく思い直して、わが身の卑しさを受け入れつつも、それが故にこそ一心にお家に尽くそう―などと殊勝に思われてはならぬ。奈落に落としてやる。)
 そこまでの復讐心は、目の前の哀れな少年本人に対してではない。芙蓉を奪い去った北畠一門と、そして、目の前で苦痛に歪むのとそっくりの顔の持ち主に対してであった。
(芙蓉、裏切り者めが。儂の無念、あの世で思い知るがよい。お前の一粒種は、生き地獄に落としてやる。そしてこの子は、生涯、お前という女を蔑み憎むのじゃ。儂のように……!)

 少年は西舘に拠って「兵の正」を名乗る北畠氏の一人娘を娶り、婿入りする形で西舘の次期当主の座を得た。相手は二つほど年上のおとなしい姫君で、容姿も宗家の親戚らしくいかにも北畠の者らしいのが、新郎の心中をひそかに複雑にした。だがこれで、いくらかの心の安らぎを得たのはたしかであった。
(他家からの婿入りでも、その家の者にはなれる。これで、子でも為せば、どうあろうとおれも北畠じゃ。さようではないか?)
 自然、検校舘の「祖父どの」の家からは足が遠ざかった。西舘の若君は忙しく、そして、祖父どのとの会話は忌まわしいことだらけであった。祖父どのは御曹司とも西舘の若君とも呼ばず、父の素性も知れぬ、薬師の孫として扱うのだ。屈辱的であった。西舘の若君としてみずからを鍛え、兵を叱咤し、夢中で馬を駆るときに忘れられることを、わざわざ思い出したくなかった。
   新妻は、昔から知っている美貌の偉丈夫を夫に得たのを、心から喜んでくれていたから、仲は睦まじかった。
 ところが、その妻が一年もたたずに病床につき、そのままはかなくなってしまった。
「喪が明けたら、新たに妻を娶れ、小次郎。」
 泣きの涙で、しかし、義父である当代の西舘さまは小次郎に言ってくれた。実の娘を喪った悲しみは深いが、新妻の死に一時は気を喪わんばかりだったほどの婿の方が哀れであった。そして、この優れた武将になるだろう若者に、西舘の将来を託さねばならない。
「……これは罰が当たったのでござりましょうか? わたしが西舘に迎えられてはならなかったのではありますまいか?」
「わけがわからぬ。気をたしかに持て。さようなことがあろうか。」
「西舘のお血を受けた小雪(亡妻)とは別の女を娶るなど、ますますおそろしい……。」
「なにを言うておるのだ。西舘を絶やして貰っては困る。……いま、一門には年ごろの姫はおらぬが、家さえよければたれでもよい。……小雪に遠慮してくれて有り難いが、ならばまず側室でも構わぬ。跡取りさえ生んでくれれば、どんな分際(身分)の女でも構わぬ。」
「分際(身分)……?」
「おぬしは浪岡宗家の出。北畠の血については、なにも申すことはない。」
 義父は知らずに残酷な言葉を投げかけた。

   また「祖父どの」のところに来てしまう日が増えた。
(……どうすれば、おれは北畠の者になれるのじゃ?)
   口には出さないが、少年―十八になり、青年になりかけていたから、そう呼ぶべきだろう―の悩みはわかる。薬師は青年の憔悴ぶりが好ましい。結婚以来、迷い路から自然に抜け出てしまったかと拍子抜けする思いだったが、ご運のないことじゃったなと、笑い出したい。
(西舘の若君、今度こそ、堕としてさしあげる。)
 老人は内心では、この育ちのよい若者をやはり貴種だと思っているから、ひどいことを企んでいるくせに、こう呼びかける。憎い御所さまの子だと思わねば、復讐の刃が鈍るのを恐れている。
「また、北畠さまの姫を娶ればよろしかろう、小次郎どの?」
「……なかなかおりませぬな。年頃の姫は……。」青年はさびしく笑った。「赤ん坊ならおったか。それでもわたしは構わぬが、ああいう小さい者が首尾よく生き残ってくれるとは限らぬ。」
「おられるではないか、おひとり。」
 青年は胡乱な表情になった。ついで、怒りに顔を赤くし、そしてそれが急に冷えたように青ざめた。
「あれは、……妹じゃ。いや、兄妹として育った。」
「血は繋がっておらぬな、小次郎どの。」
 面と向かって言われると、青年の心はあらためて凍りつくようだ。あの可愛い妹と、自分とは何の繋がりもないのだと思うと、哀しい気分がせりあがる。
「そんなことはできぬ……。」
と呟いた意味を、自分でもわからなくなってきている。
(迷え。悩め。そして夜這うてしまえ。北畠など、乱倫の果てに沈むがよいわ。)
 老人は非道の言葉を内心で吐き散らしたが、徐々に追い込んでやるつもりでいるから、深追いはしない。さあらぬ体で立ち上がると、
「案内しよう。」
「どこへ行くのです。」
「芙蓉の忘れ形見、儂の孫には、我が仕事を見て貰いたい。」
(堕としてやる。人をひととも思えぬようになる景色を見せてやる。)

 幾重にも山の中に分け入ったところがふと開けて、花畑になった。
「夏が近づけば、もう、咲く。」
「薬草でござるか。」
「さよう。唐天竺の罌粟。……ご存知じゃな。阿芙蓉が採れる。」
「あふよう……。母の名は、その毒にちなんだと言うは、まことじゃったか。その名、いかなるお積りだったか? 周囲にひそかに毒を盛られたわけか?」
「そのつもりもあった。阿芙蓉と芙蓉では雲泥の差じゃが、周囲の者は気づかぬ。しかし、この花はたしかに美しい。花に罪はありますまいよ。」
「じゃが、毒になる……。」
「役には立つ。少量で済めば、有り難い効き目がある。痛みが嘘のように去る。気分が晴れ、何も怖くなくなる。死をも恐れぬ。……じゃが、過ぎれば、それなしではいられなくなる。続けているうちに、必ず過ぎる。何が何でも欲しくなる。やがては阿芙蓉のことしか考えられなくなり、衰えた果てには死ぬよりほかない。」
「忌まわしい……。」
「儂らにこの米花の形の痣が伝わるのも、因果であろうか。」
 老人は嘘をついてみせたが、蒼ざめた青年をなだめるように言う。
「じゃが、儂がご城内におれるのは、ここから薬を絞る術を知るためじゃ。御所はこの薬も結構お売りになるらしい。ご存知ないか。」
「……。」
「帝をご始祖に仰ぐ村上源氏のご名流と言うても、そのようなところもある。」
「それを、おれに教えて如何するのか?」
「おぼえていただこう。お教えする。いや、すべてお渡ししよう。この畑も、ひとの使いようも、薬の絞り方、丸め方も。」
「……断る。気が進まぬ。」
「小次郎どのは、儂の孫にあらされる。継いでいただくぞ。」
「おれに、薬師になれと言うのか。」
「さようは言わぬ。あなたさまがまことに北畠の人になるためにお使いになるがよい。」
「なんだと? 如何せよと言うのじゃっ?」
「さあ。それは、お考えなされ。西舘の若君、『兵の正』どのよ。」

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