70 / 177
終章 松前大舘の姫君 その四
しおりを挟む
(ちょうど五年、戻らなかったか。)
松前の浜に立った時、さすがに新三郎にも感慨があった。
故郷に使いに出されるときにも、いよいよ船べりから松前のごつごつした海岸が見えたときにも、十八歳の若者には何も感動はなかった。
松前の小さな湊の匂いを思い出したとき、はじめて刺すような思いが胸に迫る。
(姫さまを、お連れしたかった……。)
いつか姫さまと我が子を取り戻すとの、あてどもない誓いだけにすがって生きようとしていた。それも、八か月もたたぬうちに、さ栄姫の死によって無惨に潰えた。
浪岡城内でその報を伝えられた時、大御所の前で新三郎は一瞬、なかば喪神したと言っていい。目の前が昏くなった。
ふたたび視界が明るんだとき、自分の人生に悦びを求めるのは終わった、と当然のように感じていた。これからは、己の与えられた義務を果たすためだけに生きるのだと。
浪岡御所は、生き残りのための外交に勤しまねばならない。大浦家との小康状態は、絆とすべきさ栄姫の死から半年もたたぬうちに、すでに揺らぎ始めていた。また別の者を送り込む政略結婚を、とは考えにくい状況になってしまった。
大御所は、「遠交近略」だと考え始めたのだろうか。大浦家と南の境を接する出羽・秋田との仲を固めるため、御所さまの正室を安東家から迎えようとしている。檜山屋形こと安東氏は南部氏の仮想敵国とも言うべき存在であったが、浪岡北畠氏としての自立を守るためには、南部の庇護を頼りにするわけにはいかなくなったのである。
「おぬしの父、蝦夷代官蠣崎若州に間に立って貰いたい。」
(十三、四の頃のおれならば、武者震いしただろう役目じゃな……。)
その三、四年前が十年も二十年も前のことのように思える。自分も、天才丸や元服のころの己れからは、遠い。
新三郎は、淡々とその任務を受けた。蠣崎季広がこの政略結婚の仲介役を演じることの、蝦夷代官家にとっての損得勘定をまず考えている。
新三郎は、そのようになっていた。まずは松前の蠣崎家が、蝦夷島をどう治めていくかであり、それ以外にはもうあまりない。
さ栄姫の死があった以上、新三郎は変わらざるを得なかった。
(姫さまがご死産の果てに亡くなられたのは、お子を孕ませたおれのせいじゃ。しかし半ばの責は、大浦と、南部と、……浪岡御所とにあろう。大御所さま、大み台さまが大浦に姫さまを差し出さなければ、亡くなられずに済んだのではないか?)
蠣崎新三郎の頭の中では、すでに敵方である大浦も、味方のはずの南部も、この浪岡御所も、同じものであった。
自分から姫さまを奪った連中である。生まれて初めて、決して冷めようのない怒りを若者は心の奥に秘めるようになっていた。
そして、それ以上にうずく思いに、新三郎はしばしばひとり苦悶した。
(おれは、お身を犠牲にする姫さまを止められず、すべてを振り捨ててともに逃げようともできず、……みすみす姫さまを死地に追いやってしもうた。大浦でも浪岡でもない、おれこそが、最後は姫さまを見捨てた。われらの子ごと、死なせてしもうた……!)
新三郎がかろうじて浪岡御所にとどまって精勤しているのは、この罪障意識からだけだったと言ってよい。御所さまをお守りするのを、さ栄姫さまは望んだはずだ。その想いにだけはこたえなければならない。
だが、故郷の土を踏んだ時、新三郎ははっきりとわかった。自分の果たすべき役目は、この松前にしかない。浪岡の無事を祈った姫さまのお命じには、必ず従いたい。だが、最後の最後で、お許しを請わなければならないかもしれない。
父との二人だけになった面会で、新三郎は松前のこれからについて腹蔵なく語った。蠣崎が蝦夷島で何を望んでいくべきか、そのためにどのように振舞うべきかの考えで、親子の考えは遠くないことがわかった。
新三郎は、自分は家督を譲られるのを願っているのを隠さなかった。
「新三郎は、蠣崎若狭守さまの蝦夷島お治めをお助けして参ります。それだけが新三郎の望みと、申しあげておきまする。」
「そして、いずれは、儂の跡を継ぐか。」
「はい。さように願っておりまする。」
季広は一瞬、父親の顔に戻ったが、すぐにいつもの感情を隠したとらえどころのない表情に戻り、話は変わるが、お前は長泉寺を覚えておるか、と尋ねた。新三郎が少し考え、思い出して肯うと、
「あの長泉寺のある折加内村にも川が流れておるが、いつからだったか、鮭が上らなくなったそうじゃ。永禄五年……か。困ったものじゃ。」
永禄五年、とは、あの家中の毒殺事件以来と言うのであろう。新三郎は気づいた。
そして、微笑みながら答える。
「ご案じに及びませぬ。父上の御政道、蝦夷島に一層いきわたり、松前の繁栄とみに増しますれば、いずれ、鮭も戻って参りましょう。」
「さようであろうか。」
「違いありませぬ。……亡きあに上がた、姉上も、それをお望みでございましょう。」
長い沈黙のあと、げにさようか、と呟くと、季広は立ち上がった。低頭する新三郎にはその表情はうかがえない。
ただ、声が降ってきた。
「……それも、お前の代になるかもしれぬが。」
松前の浜に立った時、さすがに新三郎にも感慨があった。
故郷に使いに出されるときにも、いよいよ船べりから松前のごつごつした海岸が見えたときにも、十八歳の若者には何も感動はなかった。
松前の小さな湊の匂いを思い出したとき、はじめて刺すような思いが胸に迫る。
(姫さまを、お連れしたかった……。)
いつか姫さまと我が子を取り戻すとの、あてどもない誓いだけにすがって生きようとしていた。それも、八か月もたたぬうちに、さ栄姫の死によって無惨に潰えた。
浪岡城内でその報を伝えられた時、大御所の前で新三郎は一瞬、なかば喪神したと言っていい。目の前が昏くなった。
ふたたび視界が明るんだとき、自分の人生に悦びを求めるのは終わった、と当然のように感じていた。これからは、己の与えられた義務を果たすためだけに生きるのだと。
浪岡御所は、生き残りのための外交に勤しまねばならない。大浦家との小康状態は、絆とすべきさ栄姫の死から半年もたたぬうちに、すでに揺らぎ始めていた。また別の者を送り込む政略結婚を、とは考えにくい状況になってしまった。
大御所は、「遠交近略」だと考え始めたのだろうか。大浦家と南の境を接する出羽・秋田との仲を固めるため、御所さまの正室を安東家から迎えようとしている。檜山屋形こと安東氏は南部氏の仮想敵国とも言うべき存在であったが、浪岡北畠氏としての自立を守るためには、南部の庇護を頼りにするわけにはいかなくなったのである。
「おぬしの父、蝦夷代官蠣崎若州に間に立って貰いたい。」
(十三、四の頃のおれならば、武者震いしただろう役目じゃな……。)
その三、四年前が十年も二十年も前のことのように思える。自分も、天才丸や元服のころの己れからは、遠い。
新三郎は、淡々とその任務を受けた。蠣崎季広がこの政略結婚の仲介役を演じることの、蝦夷代官家にとっての損得勘定をまず考えている。
新三郎は、そのようになっていた。まずは松前の蠣崎家が、蝦夷島をどう治めていくかであり、それ以外にはもうあまりない。
さ栄姫の死があった以上、新三郎は変わらざるを得なかった。
(姫さまがご死産の果てに亡くなられたのは、お子を孕ませたおれのせいじゃ。しかし半ばの責は、大浦と、南部と、……浪岡御所とにあろう。大御所さま、大み台さまが大浦に姫さまを差し出さなければ、亡くなられずに済んだのではないか?)
蠣崎新三郎の頭の中では、すでに敵方である大浦も、味方のはずの南部も、この浪岡御所も、同じものであった。
自分から姫さまを奪った連中である。生まれて初めて、決して冷めようのない怒りを若者は心の奥に秘めるようになっていた。
そして、それ以上にうずく思いに、新三郎はしばしばひとり苦悶した。
(おれは、お身を犠牲にする姫さまを止められず、すべてを振り捨ててともに逃げようともできず、……みすみす姫さまを死地に追いやってしもうた。大浦でも浪岡でもない、おれこそが、最後は姫さまを見捨てた。われらの子ごと、死なせてしもうた……!)
新三郎がかろうじて浪岡御所にとどまって精勤しているのは、この罪障意識からだけだったと言ってよい。御所さまをお守りするのを、さ栄姫さまは望んだはずだ。その想いにだけはこたえなければならない。
だが、故郷の土を踏んだ時、新三郎ははっきりとわかった。自分の果たすべき役目は、この松前にしかない。浪岡の無事を祈った姫さまのお命じには、必ず従いたい。だが、最後の最後で、お許しを請わなければならないかもしれない。
父との二人だけになった面会で、新三郎は松前のこれからについて腹蔵なく語った。蠣崎が蝦夷島で何を望んでいくべきか、そのためにどのように振舞うべきかの考えで、親子の考えは遠くないことがわかった。
新三郎は、自分は家督を譲られるのを願っているのを隠さなかった。
「新三郎は、蠣崎若狭守さまの蝦夷島お治めをお助けして参ります。それだけが新三郎の望みと、申しあげておきまする。」
「そして、いずれは、儂の跡を継ぐか。」
「はい。さように願っておりまする。」
季広は一瞬、父親の顔に戻ったが、すぐにいつもの感情を隠したとらえどころのない表情に戻り、話は変わるが、お前は長泉寺を覚えておるか、と尋ねた。新三郎が少し考え、思い出して肯うと、
「あの長泉寺のある折加内村にも川が流れておるが、いつからだったか、鮭が上らなくなったそうじゃ。永禄五年……か。困ったものじゃ。」
永禄五年、とは、あの家中の毒殺事件以来と言うのであろう。新三郎は気づいた。
そして、微笑みながら答える。
「ご案じに及びませぬ。父上の御政道、蝦夷島に一層いきわたり、松前の繁栄とみに増しますれば、いずれ、鮭も戻って参りましょう。」
「さようであろうか。」
「違いありませぬ。……亡きあに上がた、姉上も、それをお望みでございましょう。」
長い沈黙のあと、げにさようか、と呟くと、季広は立ち上がった。低頭する新三郎にはその表情はうかがえない。
ただ、声が降ってきた。
「……それも、お前の代になるかもしれぬが。」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
梅すだれ
木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。
登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。
時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。


どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
佐々木小次郎と名乗った男は四度死んだふりをした
迷熊井 泥(Make my day)
歴史・時代
巌流島で武蔵と戦ったあの佐々木小次郎は剣聖伊藤一刀斎に剣を学び、徳川家のため幕府を脅かす海賊を粛清し、たった一人で島津と戦い、豊臣秀頼の捜索に人生を捧げた公儀隠密だった。孤独に生きた宮本武蔵を理解し最も慕ったのもじつはこの佐々木小次郎を名乗った男だった。任務のために巌流島での決闘を演じ通算四度も死んだふりをした実在した超人剣士の物語である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる