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終章 松前大舘の姫君 その二

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 時間を、浪岡城落城のこの天正六年から、十年以上戻さなければならない。
 ちょうど、浪岡北畠氏の姫君が津軽の大浦城で没したと伝わる永禄七年(一五六四年)初冬のことであった。
 そのさらに北、蝦夷島松前は雪に覆われている。
 ここで安東家家臣として蝦夷代官をつとめる蠣崎若狭守の近臣に、村上某という者がいた。
 某呼ばわりはいけない。村上季儀というこの老人がなお当主をつとめているのは、もとの松前大舘副守護の家系である。すぐる永正十年(一五一三年)、蝦夷蜂起で松前大舘が陥落し、主君の松前守護家相原氏が滅亡、そのときの当主である父政儀も自害してしまったため、代わって大舘に翌年に乗り込んできた蠣崎家に仕え、今日に至っている。
 だが村上家は、かつての和人豪族の勃興時代に道南十二舘などと呼ばれた舘のうちの有力な一つを、副守護として固めていた。いまに続く安東家の蝦夷地支配の伝統に照らせば、若狭源氏などと称しても素性のあやしい蠣崎家などよりは、はるかに折り目正しい血筋であった。
 安東家の蝦夷支配の画期は、南部氏に圧迫された下国安東家の安東師季が一時蝦夷地に脱出した、享徳三年(一四五四年)の「蝦夷御渡海」であったが、これに付き従ったのは鎌倉期以前に奥州に移り住んでいた関東武士の裔であった。村上氏もそれである。
 それが、娘―季儀にとっての孫娘を蠣崎などという成り上がり者の家の息子に、嫁がせねばならない。蠣崎家の大舘支配に従ってから五十年にもなるから、ふだんはそんな意識はない。家中での「おやかたさま」呼び―僭称もいいところであったが―も堂に入ってきた当代、蠣崎若狭守季広には老臣として自然に忠節を尽くしているのだ。だが、こうして我が家のことを一義に考えるとき、ほんらいなら隠居の齢の村上家当主の念頭にも、複雑な感情が今になって上って来るのである。
 しかも、悩んでいた。
 まずは、その「蠣崎の息子」である。候補が二人いた。
「ふたりのうちから、よさげな者を選んでくれるがよい。どちらがおぬしの目にかなうか、知りたいものじゃ。楽しみに待っておる。」
 おやかたさま―蠣崎季広はこともなげに言ったのだ。そこに潜む意図に考えをめぐらすと悩むしかなく、村上老人は主人が恨めしく思えてくる。
 蠣崎季広は艶福家でもあり、また家運隆盛を当然考えたから、複数の室に生涯で三十人を超える子を産ませている。天文十七年には、三人の男子を授かっている。さすがにひとりは早々に寺にやって坊主にしたが、正室河野氏の子を三男、女房(城内の使用人)あがりの側室の子をその弟として、大舘で育てた。それらが少年期を脱し、縁談が持ち上がる年頃になった。
 三男と四男のことだから、どちらにやろうかと村上家が悩むような話ではなかったはずなのである。所詮は、嫡男である兄の「家の子」(家来)になるだけの若者たちであった。
ところが、三年ほど前、長男と次男が相次いで南条広継室であった長女に毒殺されるという変事があった。怪事件と呼んでよい。
 真相には表ざたにされたものだけではない、おそろしい事情が潜んでいるのではないか。事実として、重臣の名門・南条家がこれで逼塞してしまった感があるが、村上家なども、かつては蠣崎家を見下した家格という点では南条家と似ていた。村上老人は、これ以来内心では肝を冷やしている。現に、村上家にも被害は及んでいる……。
何にせよ、これで蠣崎家の後継者が不分明になった。
(新三郎さまの目は薄いのではないか。)
 村上老人も考えている。童子の時期の終わりまで松前にいた聡い「天才丸」さまを覚えているが、津軽でひとかどの者に育ったのは聞き及んでいた。そもそも正妻の子で、いまや長子であった。
(だが、後ろ盾が悪い。今や浪岡御所は、心もとないどころではない。)
 「川原御所の乱」という怪事件の噂は、対岸にも勿論届いていた。下剋上の内紛はやむを得ないが、どうもその後がよくない。浪岡宗家の幼い当主を支えるのは叔父にあたる英邁な男だと聞くが、内紛と外圧に苦しみ続けているようだ。
(家運と言うものは、いったん傾いてしまえば、容易なことでは戻らぬ。)
 自らも傾いてしまった家の当主として、村上老人はそう考えざるを得ない。
(天才丸さまには、運が無かった。ご出仕先が沈んでは……。)

 もとより、浪岡北畠氏と誼を通じようとは、おやかたさま―蠣崎季広も危うい碁を打つ、思い切った場所に石を置くものだと思っていたのだ。それが、どうやら“駄目”になってしまった。自分で出仕の先を選んだわけでもないのに、天才丸―新三郎はその煽りを避けられぬだろう。それに比べて、同年齢のその弟はどうだ。兄に少し遅れて、今度は主家である秋田安東氏に出仕し、つつがない。
(やはり安東さまこそが我らの変わらぬおん主。その檜山屋形さまのお側に侍るのが、どうあっても吉じゃった。)
 おやかたさまも最初からそれはわかっていたのではないか、と村上老人は思うのだ。
(ご側室の腹の子たる四郎(正広)さまのほうを、どうやら好かれておる。だから、檜山屋形に出仕させたのであろう。いまや家督も継がせたいのではあるまいか?)
 となると、この村上家から嫁がせるならば四男のほうしかない。蝦夷島南端の武家の頭目に、我が家の血を持つ者をつける絶好の機会を逃すべきではなかった。この点で、村上老人の心は固まりつつあったのだ。
(だが、こちらのほうが……。)

 孫娘の名は、真汐。まだ九つでしかないが、祖父の欲目を離れても、なかなかの美貌を予感させた。我が孫ながら、いかにも人品もよさげだ。しかし、
(あれが、ああでなければ……。)
 その真汐が、老人の居室にひとりで入ってきた。ひどく大人びた所作に見える。おとなしすぎるほどの子だが、今日はそれとは別種の、落ち着きすら感じられた。
「お爺さま、近頃、真汐の身の振りにご心配下さっていらっしゃるご様子ですが、……。」
「あっ、お前、真汐?」
 村上老人は驚倒せんばかりになった。幼い孫娘はそれには関せぬ様子で、続ける。
「真汐の望みを申し上げて、よろしうございましょうか?」
「真汐、お前、喋れるのか?」
 老人が孫娘の声を聞くのは、二年ぶりであった。

 
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