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第九章 崩壊の兆し その一

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第九章 崩壊の兆し

 ご名代さま、と呼ばれることにも慣れてきた左衛門尉は、ひとりになると、不機嫌の淵に沈んでしまうことが多い。
 永禄六年の初夏には、ようやく家中の争いも収拾がついたように思える。「川原御所の乱」の後から一年かかった。この間、浪岡城内に廓を構えていた北畠一門のうち、三家を滅ぼした。
三家目は、内通者だった東舘の千君公である。ご名代の同盟者を気取り、残る連枝の家を陥れようと図ったのが裏目に出て、かれらに袋叩きにされるようにして討たれた。
多くの北畠一門は、西舘―ご名代に逆らう危険を知ったであろう。ご名代は次々と有力な一門の当主を隠居させ、より若い者に入れ替えた。終わってみれば、ほぼ予定通りに、浪岡北畠氏は、宗家による直接支配の形が事実上は出来上がっていたとも言える。
 しかし、この間、街道筋は荒れていた。昨年の初夏以来、また浮浪や野盗の跳梁が始まった。年が改まり、春になってからは、一層ひどくなる。
(また、永禄のはじめの頃からのやり直しではないか。)
 ご名代は歯噛みしたが、浪岡城の存立は交易路にある以上、再び丹念な掃討を行わなければならない。
(おれが出るわけにもいかぬ。御所を空けられぬ、名代の仕事に忙しい。)
 しかしかつての西舘「兵の正」に相当する司令官を、今の家中で見出すことはできなかった。昨年の秋、城内での戦闘の合間を縫って備(部隊)を次々と出したが、はかばかしい結果を出せた者はいなかった。精力的な部隊長もいたが、単に野盗退治ではなく、城内外の叛乱に呼応した軍勢の相手もさせられるのは激務だった。そのうちに、あえなく戦死してしまう者も出た。
(新三郎……?)
 十六になったはずの若者の顔と名はとっくに頭に浮かんでいる。あれをそろそろ馬廻りに取立て、折をみてかつての「兵の正」なみの軍勢と権限を与えれば、四、五年前の自分と同じ成果に辿りつくかもしれない。
(いや、それはならぬ。)
 ご名代―左衛門尉は、蠣崎新三郎という名に抵抗を覚えている。
 実家の些細な内紛に心を痛めて取り乱したさまを見て、見限ったつもりでいた。そのあと、気休めにと投げ与えた阿芙蓉に溺れたりはしなかったのは感心だったかもしれないが、それ以来どうも様子が変わった。と言うより、自分に向ける目つきが以前の子供のそれではなくなってしまった。
 何かつまらぬことに気づいているのではないか。ならば生かしておくまでもない、と絶え間ない内紛の争いの中で磨滅させるつもりになった。さ栄が睨んだとおりだ。
 現に、死にかけたらしい。妹の頼みだから医者を差し向けてやったが、命はとりとめたと聞いた。
 左衛門尉も、何故かそれには心から安堵してやれたのだ。かつては膝下で鍛えてやった少年に対する情は、まだ消えていなかったのが、自分でも意外ではあった。
 問題はそれから後だ。
(どうやら、さ栄はあやつと寝よったか。)
 ご名代―西舘「兵の正」―左衛門尉の、鎧に覆われていない小次郎としての部分が痛むのを、どうしようもなかった。最愛の女を、小童に奪われたには違いなかった。
(なんのことはない。この城のものは全ておれのものになった。さ栄も、だ。蠣崎新三郎などというのも、おれの持ちものだ。あいつらは、おれにとっては、馬のようなものだ。飼ってやっている馬同士がさかったからと言って、どうということもないではないか?)
 倨傲に構えてみたが、なんの救いにもならない。女を喪った敗北感が、どこかでうずいていた。
(新三郎ごときが、さ栄におれを忘れさせたというのか?)
 自分のせいでさ栄が不幸なのはよく知っていたが、だからこそ、ふたりあい抱いて地獄に転がり落ちたい気がしていたのだ。無邪気な小童が、それを邪魔したとしか思えない。
 そこに賢しら気に、蠣崎新三郎を抜擢せよなどと言ってくる者がいれば、依怙地にならざるを得なかった。あんな風にひとの血筋を貶める頑迷固陋の言葉は、実はいちいちが左衛門尉みずからの身を切るものなのに、さ栄に聞こえるがいい、と言わずにいられなかった。
(いずれさ栄が知れば、ますますおれを憎むだろう。父や兄を殺し、今度は惚れたおとこをないがしろにしようとするのだからな。)
 医師のお礼ですら文でしか寄越さぬほどに、さ栄は自分を避けている。正月の行事にも、なにやかやと理由をつけて出て来ない徹底ぶりであった。「ご後室さま」として髪をおろした嫂にも顔を出させたと言うのに、まるで出家したのはあちらの方のようではないか、と嫂自身が立腹していた。
(津軽一統を果たさねばならぬ。その大志の前に、あんな女など……。)
 ご名代は、わざとたれにも世話させずひとり過ごし気味に呷っていた酒杯を投げ捨てた。秀麗な容貌が、この一年間で、急に尖ったものになっているのに、自分では気づいていない。
(義姉上か……。)
 酔いが回ってきている。たれか女を呼ばせようか、と思った時に、何かの魔が射すとはこのことかと思うほどに、不徳義に身を染めたくなってきた。
(この城のものは、すべて……。あの嫂も、おれのものではないか?)
 酒は、阿芙蓉と同じように、ひとの心に働く毒には違いなかった。涙ながらに兄を刺したときに深く沈んで消えてしまったはずの、妾腹の次男・小次郎の嫡男の兄への屈折した感情が、酔いのなかで急速に浮かび上がっていた。子供じみた、埒もない怒りの想いが言葉になって、彼を衝き動かそうとしていた。
(若君さま……兄上、あなたのものは、すべてこのわたしがいただく。)
(さ栄。知ってまた眉をひそめるがよい。お前たち兄妹で、血がつながらぬと言うだけで、この俺だけを除け者にしよって!)
 
 ご後室さま―嫂にあたる、もとのみ台所は、やすやすと左衛門尉の手に落ちた。
 先代の未亡人はもちろん髪をおろし、幼い御所さまの母として内館にあった。こういうときの後ろ盾にあたるはずの実家は、南部氏の高臣として津軽の今淵城や大開城などを任されている平杢乃助俊忠家だったが、北畠一門衆の争いの中ではあてにならない。息子が御所さまとしてつつがなくその座にあるためには、ご名代に頼るところが大きい。功利的な意味からも、絆を強くしておかねばならなかった。
 ご名代の左衛門尉が、尼姿になった自分をひそかに望むのなら、それがいくらおそろしい冒とくや不倫の所業とはいえ、こたえてやらざるをえない。
 ……というのが、形ばかりの逡巡ののち、義弟を床に迎えた女の自分への言い訳であっただろう。さほど孤閨に悩むというほどでもないが、抜群の容姿をもつこの男に忍んでこられれば、抵抗するつもりは失せてしまうのである。  
み台所は昔から、義弟を憎からず思っていた。それは左衛門尉も内心で気づいてはいたのが、狡いところであった。
「御所さまをお守りできるのは、わたくしどもだけでございますな。……おそれながら、まことの子のように思いたい。ゆえに義姉上も、わたくしを夫と思うてくださいませぬか?」
 囁かれたとき、亡き夫の弟と閨を秘かに共にするのが、我が子やお家の為に正当化される気がしてくる。躰を開いたときの震えは、なにによるものか、自分でもわからない。
 左衛門尉は思うがままに義姉を弄んだ。先のみ台所さまは、衝撃的な喜悦の果てに全てを投げ出し、まったく屈服した。
 そのさまを見下ろしながら、左衛門尉は醒めているはずだった。だが、不思議なことに、自分に全く何もかも預けてしまい、ただ懸命にしがみつき、絡みつく女にやさしくしてやっているうちに、予期していたのとは違う何かが心に生じているのを感じる。亡き兄のものを奪ってやった、と言う凶暴な喜びなどではなかった。後ろめたさすらもあまりない。安らぎに似ていた。
(愚かなことじゃ。この女など、欲しいと思ったことは一度もなかったのに?)
 やがて、躰の下に抱きこんで串刺しにした女は、何かに叩かれたように跳ねた。
 耳のそばで、驚愕のときに漏れるような低い呻きが聞こえる。左衛門尉は大きく震え続ける白い躰を押さえつけ、自分のことにかかる。
……
 喪心に近い状態から徐々に戻ってきた女の耳元で呼びかけると、甘えた仕草で首を振って、名前で呼んでくれとせがむのを聞いた。馬鹿らしい、と半分は思いながら、半分はこの、夫の仇とも知らずに喜んで抱かれた、そして自分が保護してやるしかない憐れな女に、寄り添ってやりたい気持ちになっている。
 耳を噛んでまた硬直させたあと、お志ま、と覚えていた名を呼んでやる。女はうれしげだ。顔に汗を浮かせながら、目を閉じたまま微笑みを浮かべた。
(さ栄、きっとお前もこんな風に笑うておるのじゃな? 名で呼べなどと、あいつにせがんだりしておろう?)
 そう考えたとき、不思議なことに、その空想をほのぼのとした気持ちで抱くことができた。
(よかったな、さ栄……。)
 そう呟きかけて、左衛門尉は戸惑うほかない。


 
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