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第八章 契り その四

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 傷がようやく癒えたと思えた頃には、雪が溶けはじめていた。
 新三郎が臥している間に、新舘の反乱は片づけられていた。
 あの日、強清水殿はみずから別働隊を率い、混乱のなかを内館に侵入しようとした。だが、新舘の反乱軍が一気に攻め出ることもできず、連携できなかったのでは、結局、御所に指を触れることもできなかった。左衛門尉が自ら指揮する直属の備が出て、ついに強清水殿をその場で討ち取ったと聞いた。
 新三郎を撃った鉄砲の主は、新舘で討たれた者の中にも、捕えられた者の中にも見当たらなかった。どうやら他所からの合力の者らしい。あの場の部隊長を見抜き、撃ち殺しかけたのだから、よほどの腕と思えた。そんな者がどこからともなく、浪岡城にはすでに潜り込んでいたのだと思うと、無気味であった。
「随分出立が遅れ申した。」
 医師は飄々とした口調で、新三郎の塞がった傷口を確かめながら、言った。
 新三郎は、改めて礼を言う。用らしい用もないのに奥州はおろか、蝦夷島まで行こうというこの医者には、それだけで何か畏敬の念を持たずにいられない。数奇者こそが、上方の都会にしかいない新しい人間であろう。
「松前がお気に召せば善哉でござる。代官が挨拶いたしましょう。会って下さいませ。」
「挨拶とは勿体無い。もしもお目通りかないましたら、お伝え申し上げることは、ござるか。」
 松前にはすでに文を通じてあった。往路は、船に乗るところまでを守らせる手筈もつけている。大怪我をしたことを松前の家中に知られてしまうが、不名誉ではない。ただ、母は心配するだろう。それだけが気掛かりではあったが、別段それはよいだろう。
「いや、さようか?」医師は、首をかしげてみせた。「嫁を迎えたい、とお尋ねにならずともよろしいのか?」
「……なんのことでござろうか。」
 医師はからりと笑った。薄い髭を撫でた。
「庶人ならいざ知らず、お武家ともなると、ただ好きあうというだけでは夫婦にはなれますまい。……それとも、若いお二人は、まだ恋を楽しまれたいか。」
 京の人間というのは、これほど立派なひとでも軽薄なものだな、と蝦夷島と奥州しか知らぬ若者は呆れる。
「……命をお救い下さった国手(名医)でなければ、腹立てたいところじゃ。人の気持ちを弄して喋々されるな。拙者はともあれ、……い、いや。」
「その、尊いお方は、きっと待っておられる。」
「じゃから、申しました通り……。」
「今のは、医者としてのみたてにござる。もう、大事ない。弓手(ひだりて)も自在に動く。」
 まさか、あれを見られたわけではあるまいとは思うものの、床の上で新三郎は上気した。
 挨拶を受けて奥に入ったはずが、木戸の向こうで聞き耳を立てていたさ栄姫も、思い出して真っ赤になっている。

 さ栄は知っていた。恋のなかにあったときの言葉や所作は、ひたすらに甘美なものであればあるほど、その恋が破れ、雲散霧消した後には、苦いものになることを。自分でそれらを思いだしたときには、耐えがたく我が身を刺すつらいものに変わってしまうことを。
 少女が無我夢中で貪った甘い恋は、蜜でも乳でもなく、猛毒だった。その正体を現すと、さ栄の身も心も徹底的に痛めつけたのである。自分を輝かせるように思えた、すべての麗しい言葉、やさしい仕草は、ふと記憶に蘇ってしまうたびに、さ栄に死を望ませるどす黒い色を帯びたものに転じていた。
(それを知りながら、わたくしは……?)
 さ栄は、いたたまれない気分になることがある。新三郎と二人きりになったとき、そんなことは一切忘れてしまっているからだ。
 ためらいや遠慮の時間が過ぎると、やがて痴語を交わし、痴態を存分に見せあっているとしか、言えない。そして、そうすることが、ふたりの無上の喜びになっていた。
「いけないな、わたくしは……。一日、いつも新三郎どののことばかり思って過ごしてしまっている。」
「わたしもでございます。仕事のさなかでも、姫さまのもとに戻ることばかり願っております。」
 さ栄は息を呑む。まだ抱きあってもいないのに、言葉だけで、それに似た甘い衝撃に躰を射抜かれたように思えた。思わず目を伏せると、大きな手に引き寄せられて、自然に甘い息が漏れる。あっという間に両腕に包まれている。
「……これは、よくお帰り、かえ? 新三郎どの? ぬしさま?」
「はい。」
 答えながら、新三郎は柔らかく温かい小さな躰を抱く力が強くなりすぎないように、懸命に自分を抑える。姫さまの柔らかい胸を自分の躰に押しつけ、白い首筋の香りを嗅ぐようにすると、天にのぼる心地なのに、ふとこのまま抱き潰してしまいたいような荒々しい欲望が起きて、戸惑う。
 これからどうすべきかは、もう二ヶ月ほど前に知っていた。

 
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