44 / 177
第八章 契り その四
しおりを挟む
傷がようやく癒えたと思えた頃には、雪が溶けはじめていた。
新三郎が臥している間に、新舘の反乱は片づけられていた。
あの日、強清水殿はみずから別働隊を率い、混乱のなかを内館に侵入しようとした。だが、新舘の反乱軍が一気に攻め出ることもできず、連携できなかったのでは、結局、御所に指を触れることもできなかった。左衛門尉が自ら指揮する直属の備が出て、ついに強清水殿をその場で討ち取ったと聞いた。
新三郎を撃った鉄砲の主は、新舘で討たれた者の中にも、捕えられた者の中にも見当たらなかった。どうやら他所からの合力の者らしい。あの場の部隊長を見抜き、撃ち殺しかけたのだから、よほどの腕と思えた。そんな者がどこからともなく、浪岡城にはすでに潜り込んでいたのだと思うと、無気味であった。
「随分出立が遅れ申した。」
医師は飄々とした口調で、新三郎の塞がった傷口を確かめながら、言った。
新三郎は、改めて礼を言う。用らしい用もないのに奥州はおろか、蝦夷島まで行こうというこの医者には、それだけで何か畏敬の念を持たずにいられない。数奇者こそが、上方の都会にしかいない新しい人間であろう。
「松前がお気に召せば善哉でござる。代官が挨拶いたしましょう。会って下さいませ。」
「挨拶とは勿体無い。もしもお目通りかないましたら、お伝え申し上げることは、ござるか。」
松前にはすでに文を通じてあった。往路は、船に乗るところまでを守らせる手筈もつけている。大怪我をしたことを松前の家中に知られてしまうが、不名誉ではない。ただ、母は心配するだろう。それだけが気掛かりではあったが、別段それはよいだろう。
「いや、さようか?」医師は、首をかしげてみせた。「嫁を迎えたい、とお尋ねにならずともよろしいのか?」
「……なんのことでござろうか。」
医師はからりと笑った。薄い髭を撫でた。
「庶人ならいざ知らず、お武家ともなると、ただ好きあうというだけでは夫婦にはなれますまい。……それとも、若いお二人は、まだ恋を楽しまれたいか。」
京の人間というのは、これほど立派なひとでも軽薄なものだな、と蝦夷島と奥州しか知らぬ若者は呆れる。
「……命をお救い下さった国手(名医)でなければ、腹立てたいところじゃ。人の気持ちを弄して喋々されるな。拙者はともあれ、……い、いや。」
「その、尊いお方は、きっと待っておられる。」
「じゃから、申しました通り……。」
「今のは、医者としてのみたてにござる。もう、大事ない。弓手(ひだりて)も自在に動く。」
まさか、あれを見られたわけではあるまいとは思うものの、床の上で新三郎は上気した。
挨拶を受けて奥に入ったはずが、木戸の向こうで聞き耳を立てていたさ栄姫も、思い出して真っ赤になっている。
さ栄は知っていた。恋のなかにあったときの言葉や所作は、ひたすらに甘美なものであればあるほど、その恋が破れ、雲散霧消した後には、苦いものになることを。自分でそれらを思いだしたときには、耐えがたく我が身を刺すつらいものに変わってしまうことを。
少女が無我夢中で貪った甘い恋は、蜜でも乳でもなく、猛毒だった。その正体を現すと、さ栄の身も心も徹底的に痛めつけたのである。自分を輝かせるように思えた、すべての麗しい言葉、やさしい仕草は、ふと記憶に蘇ってしまうたびに、さ栄に死を望ませるどす黒い色を帯びたものに転じていた。
(それを知りながら、わたくしは……?)
さ栄は、いたたまれない気分になることがある。新三郎と二人きりになったとき、そんなことは一切忘れてしまっているからだ。
ためらいや遠慮の時間が過ぎると、やがて痴語を交わし、痴態を存分に見せあっているとしか、言えない。そして、そうすることが、ふたりの無上の喜びになっていた。
「いけないな、わたくしは……。一日、いつも新三郎どののことばかり思って過ごしてしまっている。」
「わたしもでございます。仕事のさなかでも、姫さまのもとに戻ることばかり願っております。」
さ栄は息を呑む。まだ抱きあってもいないのに、言葉だけで、それに似た甘い衝撃に躰を射抜かれたように思えた。思わず目を伏せると、大きな手に引き寄せられて、自然に甘い息が漏れる。あっという間に両腕に包まれている。
「……これは、よくお帰り、かえ? 新三郎どの? ぬしさま?」
「はい。」
答えながら、新三郎は柔らかく温かい小さな躰を抱く力が強くなりすぎないように、懸命に自分を抑える。姫さまの柔らかい胸を自分の躰に押しつけ、白い首筋の香りを嗅ぐようにすると、天にのぼる心地なのに、ふとこのまま抱き潰してしまいたいような荒々しい欲望が起きて、戸惑う。
これからどうすべきかは、もう二ヶ月ほど前に知っていた。
新三郎が臥している間に、新舘の反乱は片づけられていた。
あの日、強清水殿はみずから別働隊を率い、混乱のなかを内館に侵入しようとした。だが、新舘の反乱軍が一気に攻め出ることもできず、連携できなかったのでは、結局、御所に指を触れることもできなかった。左衛門尉が自ら指揮する直属の備が出て、ついに強清水殿をその場で討ち取ったと聞いた。
新三郎を撃った鉄砲の主は、新舘で討たれた者の中にも、捕えられた者の中にも見当たらなかった。どうやら他所からの合力の者らしい。あの場の部隊長を見抜き、撃ち殺しかけたのだから、よほどの腕と思えた。そんな者がどこからともなく、浪岡城にはすでに潜り込んでいたのだと思うと、無気味であった。
「随分出立が遅れ申した。」
医師は飄々とした口調で、新三郎の塞がった傷口を確かめながら、言った。
新三郎は、改めて礼を言う。用らしい用もないのに奥州はおろか、蝦夷島まで行こうというこの医者には、それだけで何か畏敬の念を持たずにいられない。数奇者こそが、上方の都会にしかいない新しい人間であろう。
「松前がお気に召せば善哉でござる。代官が挨拶いたしましょう。会って下さいませ。」
「挨拶とは勿体無い。もしもお目通りかないましたら、お伝え申し上げることは、ござるか。」
松前にはすでに文を通じてあった。往路は、船に乗るところまでを守らせる手筈もつけている。大怪我をしたことを松前の家中に知られてしまうが、不名誉ではない。ただ、母は心配するだろう。それだけが気掛かりではあったが、別段それはよいだろう。
「いや、さようか?」医師は、首をかしげてみせた。「嫁を迎えたい、とお尋ねにならずともよろしいのか?」
「……なんのことでござろうか。」
医師はからりと笑った。薄い髭を撫でた。
「庶人ならいざ知らず、お武家ともなると、ただ好きあうというだけでは夫婦にはなれますまい。……それとも、若いお二人は、まだ恋を楽しまれたいか。」
京の人間というのは、これほど立派なひとでも軽薄なものだな、と蝦夷島と奥州しか知らぬ若者は呆れる。
「……命をお救い下さった国手(名医)でなければ、腹立てたいところじゃ。人の気持ちを弄して喋々されるな。拙者はともあれ、……い、いや。」
「その、尊いお方は、きっと待っておられる。」
「じゃから、申しました通り……。」
「今のは、医者としてのみたてにござる。もう、大事ない。弓手(ひだりて)も自在に動く。」
まさか、あれを見られたわけではあるまいとは思うものの、床の上で新三郎は上気した。
挨拶を受けて奥に入ったはずが、木戸の向こうで聞き耳を立てていたさ栄姫も、思い出して真っ赤になっている。
さ栄は知っていた。恋のなかにあったときの言葉や所作は、ひたすらに甘美なものであればあるほど、その恋が破れ、雲散霧消した後には、苦いものになることを。自分でそれらを思いだしたときには、耐えがたく我が身を刺すつらいものに変わってしまうことを。
少女が無我夢中で貪った甘い恋は、蜜でも乳でもなく、猛毒だった。その正体を現すと、さ栄の身も心も徹底的に痛めつけたのである。自分を輝かせるように思えた、すべての麗しい言葉、やさしい仕草は、ふと記憶に蘇ってしまうたびに、さ栄に死を望ませるどす黒い色を帯びたものに転じていた。
(それを知りながら、わたくしは……?)
さ栄は、いたたまれない気分になることがある。新三郎と二人きりになったとき、そんなことは一切忘れてしまっているからだ。
ためらいや遠慮の時間が過ぎると、やがて痴語を交わし、痴態を存分に見せあっているとしか、言えない。そして、そうすることが、ふたりの無上の喜びになっていた。
「いけないな、わたくしは……。一日、いつも新三郎どののことばかり思って過ごしてしまっている。」
「わたしもでございます。仕事のさなかでも、姫さまのもとに戻ることばかり願っております。」
さ栄は息を呑む。まだ抱きあってもいないのに、言葉だけで、それに似た甘い衝撃に躰を射抜かれたように思えた。思わず目を伏せると、大きな手に引き寄せられて、自然に甘い息が漏れる。あっという間に両腕に包まれている。
「……これは、よくお帰り、かえ? 新三郎どの? ぬしさま?」
「はい。」
答えながら、新三郎は柔らかく温かい小さな躰を抱く力が強くなりすぎないように、懸命に自分を抑える。姫さまの柔らかい胸を自分の躰に押しつけ、白い首筋の香りを嗅ぐようにすると、天にのぼる心地なのに、ふとこのまま抱き潰してしまいたいような荒々しい欲望が起きて、戸惑う。
これからどうすべきかは、もう二ヶ月ほど前に知っていた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変
Tempp
歴史・時代
奈良の都には梅が咲き誇っていた。
藤原薬子は小さい頃、兄に会いに遊びに来る安殿親王のことが好きだった。当時の安殿親王は皇族と言えども身分は低く、薬子にとっても兄の友人という身近な存在で。けれども安殿親王が太子となり、薬子の父が暗殺されてその後ろ盾を失った時、2人の間には身分の差が大きく隔たっていた。
血筋こそが物を言う貴族の世、権謀術数と怨念が渦巻き血で血を洗う都の内で薬子と安殿親王(後の平城天皇)が再び出会い、乱を起こすまでの話。
注:権謀術数と祟りと政治とちょっと禁断の恋的配分で、壬申の乱から平安京遷都が落ち着くまでの歴史群像劇です。
//
故里となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり
(小さな頃、故郷の平城の都で見た花は今も変わらず美しく咲いているのですね)
『古今和歌集』奈良のみかど
小沢機動部隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
1941年4月10日に世界初の本格的な機動部隊である第1航空艦隊の司令長官が任命された。
名は小沢治三郎。
年功序列で任命予定だった南雲忠一中将は”自分には不適任”として望んで第2艦隊司令長官に就いた。
ただ時局は引き返すことが出来ないほど悪化しており、小沢は戦いに身を投じていくことになる。
毎度同じようにこんなことがあったらなという願望を書き綴ったものです。
楽しんで頂ければ幸いです!
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
江戸時代改装計画
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
皇紀2603年7月4日、大和甲板にて。皮肉にもアメリカが独立したとされる日にアメリカ史上最も屈辱的である条約は結ばれることになった。
「では大統領、この降伏文書にサインして貰いたい。まさかペリーを派遣した君等が嫌とは言うまいね?」
頭髪を全て刈り取った男が日本代表として流暢なキングズ・イングリッシュで話していた。後に「白人から世界を解放した男」として讃えられる有名人、石原莞爾だ。
ここはトラック、言うまでも無く日本の内南洋であり、停泊しているのは軍艦大和。その後部甲板でルーズベルトは憤死せんがばかりに震えていた。
(何故だ、どうしてこうなった……!!)
自問自答するも答えは出ず、一年以内には火刑に処される彼はその人生最期の一年を巧妙に憤死しないように体調を管理されながら過ごすことになる。
トラック講和条約と称される講和条約の内容は以下の通り。
・アメリカ合衆国は満州国を承認
・アメリカ合衆国は、ウェーキ島、グアム島、アリューシャン島、ハワイ諸島、ライン諸島を大日本帝国へ割譲
・アメリカ合衆国はフィリピンの国際連盟委任独立準備政府設立の承認
・アメリカ合衆国は大日本帝国に戦費賠償金300億ドルの支払い
・アメリカ合衆国の軍備縮小
・アメリカ合衆国の関税自主権の撤廃
・アメリカ合衆国の移民法の撤廃
・アメリカ合衆国首脳部及び戦争煽動者は国際裁判の判決に従うこと
確かに、多少は苛酷な内容であったが、「最も屈辱」とは少々大げさであろう。何せ、彼らの我々の世界に於ける悪行三昧に比べたら、この程度で済んだことに感謝するべきなのだから……。
出撃!特殊戦略潜水艦隊
ノデミチ
歴史・時代
海の狩人、潜水艦。
大国アメリカと短期決戦を挑む為に、連合艦隊司令山本五十六の肝入りで創設された秘匿潜水艦。
戦略潜水戦艦 伊号第500型潜水艦〜2隻。
潜水空母 伊号第400型潜水艦〜4隻。
広大な太平洋を舞台に大暴れする連合艦隊の秘密兵器。
一度書いてみたかったIF戦記物。
この機会に挑戦してみます。
忠義の方法
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
冬木丈次郎は二十歳。うらなりと評判の頼りないひよっこ与力。ある日、旗本の屋敷で娘が死んだが、屋敷のほうで理由も言わないから調べてくれという訴えがあった。短編。完結済。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる