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第六章 魚伏記 その一

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第六章 魚伏記

 亡き母に似ていると言われるのは慣れていた。武家の男の子にとって、父親似でないのは、不名誉に近い。まして、母の身分が卑しかったことも知っていた。だが、おぼえもない亡母の面影が自分に宿っているのなら、それはそれでよいと割り切っていた。
「兄上のお顔は、ほんとうにお美しい。」
 四つ下の妹は、まだ幼女といっていいくらいなのに、こましゃくれたことを言ってくれる。
 自分の後をいつもついて回りたがった、この腹違いの小さな妹の姫を、少年は元服前にはずいぶん可愛がっていた。
 十年ほども前、惣領の若君から随分離れた齢とはいえ、二人目の男子が妾腹に生まれた。自分である。それに些か感じるところがあった正室の御台所さまが、追いかけるようにもう一人を産んだのだが、姫君だったためにいくらかの落胆がおありだったそうだ。
 当人がどうやって知ったものか、この妹は小さい癖に、僻みに似たわだかまりをそれに持ったらしい。同じく、この「母上」に些かの距離がある―それはさようになろう、とここでも少年は悟っているが―、腹違いの兄に妙になついた。
 もう一人の兄である若君さまは何かと別儀(特別)で、妹からは齢も離れていたから、遊び相手にはとてもならなかっただけのことかもしれなかったが。
「お前こそは、見目麗しい。それこそが、北畠の顔じゃぞ。」
 言ってやると随分喜んだが、重ねて、兄上のお顔は光源氏さまもかくやというほどでございます、とひどく早熟の文学少女らしいことを言った。
 十三で元服を済ませると、そう一緒にも遊んでいられない。妹はさびしいようだったが、仕方がない。若い武家としての毎日は、それなりに学びにも忙しい。顔を合わせる機会もほぼ絶えた。
 あのとき、大人の世をはじめて垣間見る日々が続き、快い疲れが溜まっていた。途絶えかけていた西舘の「兵の正」家の、次期当主に迎えられる話が出ていた。前途にも、明るさしかない。
 まだ十五になったばかりでぐっすり眠ればそれで自然に疲れも張りも抜ける齢だったのに、按摩という者を呼ぼう、灸でも据えさせようなどと考えてしまったのは、何故だったのだろう。
 他国者や怪しげな術の使い手、芸人が出入りする検校舘や猿楽舘に屯している按摩坊主の一人を手配させると、その男がやってきた。
 最初から様子がおかしかった。少年は衆道の趣味を強制する男にも警戒しなければならない容姿だから、すぐにまたあの手の奴かと厭気がさしたが、そうでもないらしい。異様な感動が、それほどの齢でもない偉丈夫の座頭を包んでいるようだった。 
 大男は按摩の手を少年の背に触れぬかで、声をあげて泣き出した。大きな傷のある、人の手で潰されたらしい目から涙を流して、吠えた。
「この時を待っていた。もはや思い残すこともない。」
(なんだ、こやつは?)
 薄気味が悪く、肩衣を直して起き上がった少年は、何故泣くか、と尋ねた。大男の盲人は、容易ならぬ答えを口に乗せる。
「わが子にようやく会えた。御曹司、あなたさまは、この辻子太郎左衛門の子じゃ。」
 無礼者、と激昂したのは当然であろう。ただちに斬り捨てるべきであった。側回りの者こそ席を外していたが、呼び戻して、不埒者を始末させようと思った。
「御曹司さま、私は米花御前と契った仲でござった。見えぬ眼ゆえにわかるぞ、触れただけで知れたぞ、あなたさまは儂の子じゃ。」
「そこへ直れ、乱心者。それ以上の無礼、亡き母を辱めるも許せぬ。」
 侮辱されたみずからの手で斬らねばすまぬと思った。
「……成敗されるか、よろしかろう。お側に召される前の芙蓉どのとひそかに馴染んでいた、そのことで儂は咎を受け、目を潰されてお家を追われた。爾後、それを口にすれば今度は命がないぞと言われた。その通りにされるがよい。」
「辻子某と言うたのだけは本当のようだな。」
 所作や口調が急に武家らしくなったので、それが知れた。だが、途方もない戯言を言われているという怒りにかえって火がついた。
「おそらくは、長年の無明に狂うたな。さりとて、とても許してやれぬ。そこへ直らぬか。」
 大男はまだ涙を流しながら、板の間に座ると、おとなしく首を下げた。
「ありがたいことじゃ。……ああ、息子の手で、芙蓉どののもとに行ける。また、また、……あの白いお肌に触れられると思うと、うれしうてならぬ。」
「まだ言うか!」
 少年は刀を鞘から払った。
「言うとも、教えて差し上げんとしたのじゃ。亡き母君のこと、覚えてもおられまい? 思い出すわ、米花御前……芙蓉のどこまでも白い肌に、ただ一か所だけ、赤い花が咲いていた。あの痣、御曹司、あなたさまにもあるのではないか?」
 少年は硬直した。男はそれに気づいているのか、いないのか、とり憑かれたかのように喋りつづけた。
「四弁の花の形の痣じゃ。腿に小さく、咲いておった。米花御前とはよくぞ言ったものと、目を潰された流浪の身で耳にして、儂は笑ったぞ。躰のあのような場所にある花を見た男は、この世で儂が最初じゃった。たった一人かもしれん。そうじゃ、儂と、芙蓉は」
 少年は叫びとともに刀を振り下ろした。首が落ち、まだ何か喋りたげな表情が、床の上から、寝床の上に棒立ちになった少年を見ていた。近習たちが慌ててやって来て、血の海を前にして立ちすくんだ。
(痣、あざ、痣……?)
 少年は、返り血を浴びた手で、寝衣の上から右の内腿を触った。
(これは、母上から貰ったものじゃったのか? こやつは、母上のお躰を知っていたというのか? おれは、おれはこの男の子だというのか? 馬鹿な?)

 その日から少年は迷宮にさまよいこんだと言える。少年の腿の裏には、小さな赤い痣があった。まったく気にもしていなかったが、たしかに花弁が四つの花にも見える。
(だからどうと言うこともない。たまたま俺に痣があるからなんのことがあろうか。そも母上にそれがあったとも限らぬ。全て、あの武家崩れを称する流れの座頭の妄言に過ぎぬではないか。)
 そうは自分に言い聞かせる。だが、さすがに城内で人ひとりを無礼討ちにした理由はしかるべく吟味され、亡き母と密通していたとあらぬ侮辱の言を吐いたためとだけは正直に答えたが、痣のことなどはなぜか役人に口にするのははばかられた。
  逆に尋ねてみると、少年の内心の切実な願いに反し、たしかに辻子太郎衛門というごく身分の低い武士は浪岡城にいたのである。十数年前に何かのことで乱心して朋輩を傷つけ、罰を受けて放逐されたということはあったらしい。それがあの座頭であるかどうかは、もうわからないとのことではあったが、少年の肝は冷え切った。
 御曹司さまへの罰は何もなかったが、どうやって伝わったものか、亡母を家中が思いだしてしまったらしい。その噂が妙に少年の耳に入るようになった。自分の顔を褒められるときに聞いて内心で得意にもなった、絶世の美女、と言う噂だけではない。
(傾城、多淫の女、毒女、米花御前……?)
 小次郎さまは御所さまのお胤ではないかもしれないぜ、という容易ならぬ噂すら城外には流れていたのである。少年は耳を塞ぎたかった。
  学問を見てやっている元服間もない少年が何か噂に悩んでいるらしいと察し、人の口と言うのは途方もないものじゃ、まったく気にされなくてよいのだ、と言ってその噂を教えてしまった老僧は、少年のただならぬ様子に、自分の軽率を深く悔いた。
(おれには、北畠の血は流れていないのか? 下士の子が、主人の家にこっそり紛れ込んで人がましい顔をしていたというのか?)
 実の父親を殺したかもしれぬ、という不安は不思議に小さかった。恰幅さえよかったが―自分と同じように、と思うと少年の躰は冷え切るのだが―身分の低い、たとえ目が潰されていたにせよいかにも品性の低い、あさましく惨めな座頭を斬ったことへの罪の意識は乏しかった。
  だが、それが自分の父親であり、母親は御所さまを裏切って子を宿した躰で召され、月足らずだと偽って自分を生んだのかと想像すると、わが身の卑しさを思ってのたうちまわるほどであった。
  一度だけ、勇を鼓して御所さまに尋ねてみたことがある。痣の話である。自分の痣を見もしない座頭が言い当てたのは不気味だったが、偶然の一致かもしれない。「米花」の名前から連想した絵空事にすぎない可能性もある。母の肌に花の形の痣など最初からなければいいのだ。そもそもまったくなんの根拠もない疑いに過ぎなかったことになるのだから……。
 狩りに同行したさい、河原で一休みの間に周囲にひとがいないのを確かめて、父である御所さまに、おそるおそる切り出した。
「妙なことをお尋ねいたしまする。」
「なにか。」
  御所さまは、亡き側室に瓜二つの容姿を持つこの次男が可愛くてならない。今日の鷹狩でも、長子の若君以上の働きをもう見せている。凛質愛すべしと思い、それが自分の子であるのが得意であった。たいていの願いなら、聞いてやりたい。
「はい、わたしには、この右腿の裏に、米花の形の痣がございます。」
 それがどうしたか、とまずは不審がってくれなければならない御所さま―浪岡具統は、しかし、たちまち不機嫌になった。そして、ことばを遮る。
「小次郎、お前の痣のこと、二度と父の前で口にするな。」
「……な、何故でございますか?」
 御所さまは答えてくれなかった。お前もつまらぬことを言う、と呟くと、肩を並べるのも急に厭になった、と言う風に、離れて行ってしまう。
(やはり?)
 なぜ機嫌を損ねたのかはわからぬ。しかし、あったのだ、母の躰のどこかに米花の形の痣が!……いつも簡単に不機嫌になどならない御所さまの様子があまりにも意外で、少年はそうとしか思えなかった。
忌まわしい想像が、急速に少年の心の中に深く根を下ろしていった。
(母のことが知りたい。まことに、そのような女だったのか?)
 噂を探っていくと、深く掘れば掘るほど、当時の芙蓉どの―米花御前には不気味な風評がつきまとっていたらしかった。芙蓉というのは実は「阿芙蓉」なる唐天竺由来の毒物のことらしい、というところから当然起こる、信じがたい話であった。
 父親から長い時間をかけて阿芙蓉の毒を飲まされているおかげで、透き通るように白い全身の肌から毒を吹くらしい。それも、性的な快感の絶頂だという。彼女とそうして交わった男は皆、阿芙蓉の毒を浴びて酔い果てたようになり、やがては気が違うのだという。何人もの城内外の男が狂い死にしていて……。
(馬鹿らしい。現に御所さま……父上はご健在じゃ。……そんな化け物が、月足らずの子を産んだ産褥から立ち上がれずに、そのまま死んでしまうものか。)
 少年は内心で冷笑してみせたが、
(父親から……? あの男か。祖父どのか。)
 もう何年も会っていない、祖父に当たるはずの男の姿を思い出した。

 もとは検校舘に流れ着いた、薬師であったと聞く。僧形で法名めいた名を名乗っていたが、小さな娘を連れていたのだから、むろん形だけのことだ。どこか唐人を思わせる風体で通していて、あまり口も開かず、あやし気であった。同業者や、何人もいる医者たちともあまり付き合わない様子であり、誰もその生まれ在所や経歴を知らないし、自らも口にしない。
  が、それは商いの上での効果を狙ってのことだったのかもしれない。悟りすましたような顔をして剛胆げに振る舞っていても、実は小心であるのが知れた。油断なく欲深げな目の色が、あまり好かれなかった。(少年にも、好ましい記憶は何もない。話をしたこともないかもしれない。ただ不気味な老人だったように思える。子供には、老人であるだけで不気味に感じられることがあるが。)
  しかし当人は浪岡城が気に入ったのか、有象無象の出入りする検校舘の住人になった。それどころか、上の方々をどう口説いたのか、どこか山の向こうに隠し畠すら頂戴して薬草を育て、唐天竺渡りだと称する独特の薬業で、御所の末端でのお仕事にありついたようだ。
 父親に似なかったらしい、世にも可愛らしいと噂の娘こそが、芙蓉どのであった。浪岡に棲みついたときはいくつか、とにかくまだ頑是ない齢である。父親はこの幼い娘を、羽交うようにして育てていた。薬師としていただく禄など多寡の知れたもののはずなのに金にはさして困らぬようだったが、あぶく銭のほとんどは娘のために使ってしまうらしい。検校舘に屋敷とも言えぬ陋屋を構えていたが、その狭い家に閉じこもらせて、「風流」を楽しませているとのことであった。分不相応にたくさんの使用人を置き、あまり家事などにも触らせず、姫君のように暮らさせているらしい。
「まるで籠に鳥をお飼いのようだが、……」
と、さすがに少しのつきあいのある隣人の絵師が、半ばからかい、半ば娘に同情して言ったことがある。
「鳥ならば歌も聞こえるが、芙蓉どののお声を聞いた覚えがないの。少しは外に出してやっては如何かね。」
 同年齢の子どもたちと交わらせてやらぬといけない、という意味であったが、薬師は鼻で笑い、花見も、河原遊びも、紅葉狩りとてちゃんと連れ出してやっている、とだけ答えた。
「この地は、一年の残りの三分は雪に埋もれるではないか。外にも出られぬ。」
「さようなことではないよ。子を可愛がるはよいが、ひとりにさせては気の毒じゃと。」
「この検校舘などで、人交わりをさせてなんの得がある。」
 そう言われてしまえば、鼻白むしかない。
(勝手にするがよい。じゃが、この調子では、娘が年ごろにもなれば、この男、どのようなことになるやら。)
 たしかにその通りになった。娘になりつつある芙蓉の美しさは、垣間見た者に息を呑ませるようであったが、薬師は気が気でない様子だった。できることなら、たれの目にも触れさせたくない。だが、検校舘などに住んでいてはそれも無理な話だった。娘自身、誰とも口もきかぬわけでもない。どうしても無口ではあったが、澄ましているようで、人懐こいところもあるようだった。幼少期以来の友達付き合いらしいものがほぼ皆無なだけに、逆に誰とも分け隔てない。挨拶をかわせば、しずかなよい笑顔を惜しまないようだ。薬師にしてみれば、警戒心が乏しすぎる。
 一度、猿楽舘に来ている田楽能の役者が、噂の美人を眺めに来たことがある。これには、周囲の娘たちが反応し、ちょっとした騒ぎになった。いきおい、芙蓉も白い顔をのぞかせずにいられなかったが、その夜、薬師は激昂して娘を叱ったのだという。
  この舘には北畠一門の主に当たる者は住んでいないが、舘を管理するお役の侍は何人もいる。その一人が芙蓉に恋い焦がれ、正式に話を持ってくる者があったが、薬師は怒りとともに冷たく追い払ったらしい。
無論、忍んでくる男など許さない。人を雇い、ある夜這い者などは芙蓉の部屋に近づいただけで有無を言わせず半殺しにしてしまった。
「おぬしはしかし、あの娘をたれにやるつもりなのだ。」
   古い馴染になった絵師は、聞いてやる。妻子もちのこの男すら、隣家の芙蓉と井戸端などでのふとした挨拶代りの立ち話にはへんに心浮き立つ気がしてしまうが、ふと気がつくと、薬師が物陰からその様子を窺っているので、今更ながら呆れたのである。
「たれにもやらぬ。」
「そうはいくまい。相応しい者がいれば嫁に出してやるものだ。……この検校舘などには、おらぬというだろうが、ならば伝手を辿って……。」
「よいのだ。あれも、ずっと儂と一緒におると言うておる。今ほど楽な暮らしはないとわかっておるからな。」
「そういうものでもなかろうよ。……あ、おぬし、欲をかいておらぬか。上士の方々を飛び越えて、お城の上の方々に貰っていただこうなどと。」
 この男自体は不思議に、浪岡宗家の方々にも直々のお目通りがかなうのだ。絵師や芸人や連歌師、それに按摩、鍼医といった、検校舘に集められたまっとうな職人とみなされぬ特殊技能者には、そうした特権が暗にみとめられているところがあったが、しかしそれは、自分たちが身分の序列からもとより外れているがゆえである。それを絵師などは忘れていないが、この薬師は勘違いしているのではないか。
 だが、薬師は顔を歪ませて、おかしそうに笑った。
「たれが、大事な芙蓉を、このような鄙の城主一族ふぜいに。」
「よ、よさぬか!」
「……むろん、戯れじゃ。斯様に畏れ多いこと、思ったこともないから驚いたぞ。お前さまのほうが、さようなことを口にして、はばかりもあろうに。そう思うて、つい、からかってみたくなったのよ。」
 狼狽から醒めた絵師は、つくづく腹が立った。しかし元来、人がよい男で、そんなやりとりがあったのも、すぐに忘れた。やがて、思い出さねばならなくなったときには、あれは戯れではなく本心からだったに違いない、と重い物を呑んだような、言うに言われぬ気持ちに襲われることになる。
 どこで目にしたのか、あるいは噂に聞いただけで刺激されたのか、そのときの御所さま―浪岡具統が芙蓉を召したのである。さすがに厭も応もない……はずであったが、薬師は何度も断った。その末に、ついには娘を連れて浪岡城を逐電しようとすら図ったらしい。それが露見したことで、芙蓉が側室になるのは動かしようもなくなった。
  芙蓉自身は、なにを思っているのか。別に厭がっているわけでもないらしい。御所さまはたしかに四十男でずいぶん齢は離れてはいるが、まだ若々しい。男振りもよく、それでいて北畠の長者らしい知的で穏やかなご気性で、城内の人気も高い。なんといっても、津軽はおろか奥州きっての貴人であった。並みの女なら、厭がる理由はないのであった。
  現に、いつもの無口ながら喜色がうかがえた、と支度の手伝いに駆りだされて、芙蓉の佇まいを垣間見た妻女が言っていた。
(あっ、だからこそこやつは、こうも悲しんでおるのか。父親らしくもない。)
「一夜の夜伽の相手に召されるのではなく、室に入られるのじゃぞ。ありがたいではないか。めでたいではないか。」
 芙蓉が御所からの支度とともに家を離れた日が暮れてから、自家に招いてこう慰めてやると、無言でうつむいていた薬師は上目使いに絵師を睨んだ。何じゃこやつ、と絵師はこの男とのつきあいで何十度目かの怒りをおぼえたが、やがて相手の形の悪い三白眼に涙が溢れてきたのを見ると、やはり気の毒でたまらぬ気がしてきた。
 御所さまの側室の実父となれば、どれほど卑しい身分の出であっても相応の扱いを受けられるようになる。「米花御前」さまの父親も、もう少しましな屋敷でも与えられるか、城中のそれらしい役職にでもつけるはずであった。だが、薬師は何もありがたいとは思わぬ様子で、すぐに旅に出てしまった。隣家の絵師にも何も告げず、ふらりと出て行ったきり、何年も戻らない。
  ようやく空き家に戻ったときには、芙蓉の米花御前は一粒種を残して死んでしまっていた。娘の死は、どこかで聞いていたようでもあった。一度だけ孫の顔を拝みに内舘に呼ばれて参上したようだが、絵師の隣家に帰ってきても、とくに何の感慨も漏らさなかった。そのまま、しばらく居ついたかと思った時には、また消えていた。
  それが、また何年振りかで戻ってきているという。少年は、それを耳にしたのである。

 
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