えぞのあやめ

とりみ ししょう

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終の段  すずめ(十一)  完結

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 気がつくと、離れの自分の部屋にいた。小春とすずが、覗きこむ。
 あ、と跳ねるように起きあがると、蠣崎志摩守こと十四郎が、供もつけずに次の間に座っていた。
夜具から転がるように出て、平伏する。
「あやめ。それはよい。……おれは、十四郎だ。」
 蝦夷の者らしい音のままの声だ。懐かしい名を呼ぶとき、少し震えている。
 まだ明るい、この離れには、もう一人、侍姿の青年がいるだけだ。
「徳兵衛さん?」
「御寮人さま、おわかりになられたっ? まことにお久しうございまする。」
「トクには時折、斯様な姿にならせる。ようお分かりであった。……おれは、」十四郎は、この年頃の青年がこんなときにはそうするだろうように、息を整えた。「……拙者は、お分かりか、御寮人殿? お顔をお上げ下され。……拙者をご覧くだされ!」
「志州のお殿さま。大変ご無礼を申し上げました。」
(あやめ……やはり、まだか。)
 十四郎は落胆した。まだあやめは、自分のことを思い出そうとしない。兄が腹心のコハルと相撃ちで死んだとき、あやめは兄の遺骸を前に、自分こそは蠣崎家に祟る怨霊だと笑い、そして泣きながら、正気を失ってしまった。
この年月、粉々に砕けてしまったおのが心を、躊躇い迷いながらも少しずつ繋ぎ合わせていってくれたと、徳兵衛や小春、今井家の主人たちからも知らせを受け取っていたのだが……。
 
 あやめの肩が震えているのがわかる。伏せられた顔から、呻くような声が漏れた。
(やはり、無理だったのか?)
 あやめの頭がしかし、ゆっくりとあがった。志州さま、まことにご無礼をいたしております、と小さな声で繰り返す。
「ただ、御曹司さま、とまたお呼びしてよろしうございましょうか?」
 十四郎は、ああ、とぼんやりとしてしまった。その様を目にして、あやめは笑っている。ただ、涙がとめどもなく流れて、上気した頬を伝って落ちた、
「思い出してくれたか、あやめっ?」
 十四郎は飛びつくように、あやめのそばにより、肩を抱いた。十四郎の目も潤みだしている。
「はい、やっと……やっと最初のお約定をお守りくださいましたから。」
「ああ、かたじけない。ようやっと、来れた……。かたじけない。」
「御曹司さま、御曹司さま……。お誓いいただいた通りに、この堺に、ともに、……」

 以下は、喜びに泣きじゃくったすずや、冥府のコハルに手をあわせて報告した小春なども知らない、二人だけの会話である。閨の、乏しい灯りの下での、痴語ばかりといってもいい。
「余のことば、おわかりか? もうおれの……蝦夷地の音は忘れてしまっただろ? おれも、あやめの上方言葉を聞かぬうちに、耳が鈍ってしまった。京大坂の人のことばが、わかり申さぬ。」
「よく、わかりましてよ。……わかりますわよ。ほら、あなた様の地のことばとて、少しずつ、思い出せている。」
「もう渡さぬ。兄上には盗られぬ。あやめの心は、いつの間にか、兄上のものになっていた。でも、もう、そうはさせぬ。」
「むごい。お兄上様はもう亡くなられて、御仏におなりです。それに、やはり、十四郎さまはさが悪(意地悪)。わたくしはずっと十四郎さまのものでございました。おやかたさまに心奪われても、やはり、ずっと……」
「聞いた。五年前に、兄上が降参してくださった戦勝の夜に聞いて、わかっている。左様いうのではない。兄上も、死んではおられない。……うむ、おれが、兄上を継ぐから。そなたが惹かれた兄上のマツリゴトのお志、ただの戦好きのおれにはないもの、それをいただく。蝦夷に住む者の蝦夷島だ。兄上は、秋田の安東殿の蝦夷島でもなければ、天下様の蝦夷島でもない、といわれたそうだな。あやめから聞いたのを、忘れていない。そうしたい。……納屋今井の御寮人とともに、天下の中に蝦夷島を作っていく。だから、また全部、もう全部、おれのものにするよ、あやめ。」
「はい。あなた様も全部、わたくしのもの。」
「ああ。左様だ。」
「あなた様が蝦夷地のどなたに心を傾けられようと、そのお心も、この堺女のものでございますよ?……イシカリ・アイノのおひいさま、わたくしの妹も!」
「……いや、そんなことは。」
「まだ、でございますか? あの子はいくつになりました?」
「まだ、ではないが、……。」
「あ。」
「すまぬ。」
「……申しました。謝られることはございませぬ。蝦夷島で、アシリレラを何とかなさっても、許してさしあげます、いえ、あの子の気持ちにおこたえくださり、御礼申し上げます。どうか、蝦夷地でのあなた様の室として、あの子を大事にしてやってくださいませ。わたくしは、当分は上方にいなければいけない。思い出した、あの子には呼び名もつけてあげている。アシリレラ(新しい風)だから、にい風の方。いずれこちらも見せてやりましょうね。」
「なんで、あやめは来られない? やはり、おれが商人にはならぬから……?」
「おや、まだ、天下様のお触れをご存じでないのでしょうか? 普請場をたくさんご覧になりました?」
あやめは、秀吉が大名の妻に京・大坂への居住を要求しているのを教えてやった。かつてしばしばそうだったように、姉が弟を叱るような調子が混じっていた。十四郎には、それが懐かし、うれしくてならない。

 蠣崎志摩守の上方滞在は季節の関係もあって長く、翌年の二月までに及んだ。事実上の京・大坂在勤であったといってよい。
 公家の美しい娘を、髪の赤い、目の青い蝦夷の虜囚の長が見初め、ずるずると居座ってしまった……という揶揄的で、いささか差別的な伝説は、このときに作られたのであろう。
 もっとも、二代蠣崎志摩守(のち松前志摩守)こと蠣崎十四郎愛広(安東家との絶縁と旧主安藤愛季の急死以来、愛の字を改め、正式の諱は”慶広”であるが、通称として旧い別諱が人口に膾炙している。慶広は、陣没した兄で最後の蝦夷代官といわれる蠣崎若狭守の諱を引き継ぐ形をとった。)の妻が、公家である北大路家の娘(養女とも)であり、このときに関白秀吉の許可を乞う形で婚姻したのは、正史の片隅に記録のある通りだ。
 豊臣秀吉が全国大名に発した命令に従い、大名と同格の地位にあるこの蠣崎志摩守の新妻も、そのまま上方に残った。翌春、志摩守とともに蝦夷島に帰還したという記録は残っていない。生涯、一度も蝦夷島には渡ることがなかったともいわれ、その説が妥当であろう。
 ただし、蝦夷島の旧都松前の古刹法源寺にはこの正室大江(北大路)氏の墓があり、晩年のこの女性が蝦夷島で寄進したという建物や、伝説上の旧跡は多い。
 とりわけ松前大安寺ならびに箱舘慈照寺にそれぞれある、耶蘇教の聖母像の趣のある観音母子像二体は著名である。
 蠣崎愛広正室大江氏は、なぜか最後の蝦夷代官蠣崎慶広の正室村上氏をほぼ神格視するほどに崇敬し、その姿を映したといわれるこれらの像を寄進したと伝わる。村上氏は天正合戦で敵方として死を遂げており、その祟りを恐れたともいわれる。だが、それらの像には呪いを避けるというような後ろ向きの気分よりも、モデルになった故人への深い追慕と愛情が感じられる。大江氏自身は、天正合戦はおろか生前の村上氏個人とも無縁のはずで、これは不思議でもある。
 なお、泉州堺の臨江寺にもなぜか正室大江(北大路)氏の墓があり、こちらは夫である蠣崎愛広(庆広)の墓(もちろん正式の墓は松前の墓所にある)と二つが仲良く並んでいる。寺に残る伝承では、俗名は菖姫。あるいは、あやめ。北大路家の生まれではなく、豪商今井家の出とされる。無論、このあたりの伝承は信ずるに足りない。



 すずは蝦夷島、箱舘の町家で、明け方に目を覚ました。もう、少し馴染んでしまった天井がある。
妙に胸騒ぎの残る夢をみた、と、目を覚ました隣の徳兵衛に話す。ここは徳兵衛の一人住まいである。この二年、箱舘納屋で商いの見習いで働くうちに、そのようになった。
(御寮人さま……お方さまのようになる、という夢はどうなることやら。)
 喜びのうちにも、そのような不安はある。このまま徳兵衛のご新造に納まってしまえば、納屋にはとてもお勤めできないから、商人として一人前になるというのは、どうなることか。
(蝦夷島一の大店で番頭格。夫婦で小商いなど、考えもせぬだろうなあ。)
(このひとはそれどころか、お武家になってしまうやもしれぬ。) 
(そうなると、わたしのような身分の者なぞは、どうされるのじゃろう? 妾として側におることになるのか?)
 その不安が、夢を見させたのだろう。徳兵衛に、埒もない夢の話をしたのも、じつはそれが伝えたかった。
 伝わったかどうか。すずは、徳兵衛の呑気な顔が歯がゆい。憎らしい。
「ご先代の蠣崎のお代官様が、お戦もなく、松前からご上洛されますの。……いいえ、亡くなられていない。」
「お方さまは、どうなさったのだ? あるいはお代官様の御子でも……?」
「御寮人さまはいらっしゃらない。松前にも箱舘にも、そもそも堺の納屋の出店がございません。」
「それは、……」徳兵衛は笑った。夢の話である。「困ったな、おれたちも。」
「ええ、あたしたち、会うこともない。徳兵衛さんは、近江でお寺の下男をなさっていらっしゃる。」
「厭なことをいやがる。たわぶれがすぎるぞ、すず。……いや、すまぬ、夢に怒っても仕様がない。殿は、お兄上にお仕えされているのかい?」
「お殿様も最初からいらっしゃらない。だから、天正のおお戦もございません。」
「あ、それは、迂闊にいうなよ、すず。殿は耳に入ってもお気になさるまいが、ご家来衆は面倒だ。」
「承知しております。あなた様だけに申し上げて、忘れてしまいます。」
「いい娘じゃ。で、どうなった。」
「蠣崎のおやかたさまは、関白様……いまの太閤さまにお目にかかられ、御朱印状をいただき、志摩守さまになられました。そして蝦夷島をお治めで。」
「なんだ。それでは、……」
徳兵衛は拍子抜けする思いだ。
それより、お方さまから堺で賜わり、家宝にしている南蛮時計が、また大きく狂っているのが気になる。掃除の者か誰かが、針にでも触ったのだろう。
「それでは、今とかわらぬではないか?」
「……かわりませぬか?」
すずには、男の言葉が、なんだかさびしく思えた。
                                     終


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