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終の段 ずずめ (九)
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あやめが京にいるうちに、小春を堺に尋ねてきた、武家姿の男がいる。
「なんだい、その恰好は。」
「まあ、今日はこうだ。姐さん、お久しい。いまはお馬廻り、今井徳兵衛、諱は家広とした。」
トク、とあやめがつい呼ぶ、丁稚あがりの青年は、箱舘納屋の番頭格のはずだ。
「商人を御やめで? 腹心とお頼みの、御寮人さまにお断りもなく?」
「やめてはいないさ。箱舘あたりではな、半分お武家を気取った方が諸事やりやすい。商いもな。武家のほうの我が主も左様に申されたので、こうした。お馬廻りなどといっても、いるのは店ばかりだ。」
「へえ? しかし、心配になるよ。天下様はとっくに、そんなのを許さぬようになられておろう。お武家はお武家、百姓は百姓、商人は商人さ。区別がやかましくなっていく。」
「蝦夷島は天下の外よ。まだ、な。御寮人さまは、ご不在とは残念だね。」
「明後日お戻りだ。行き違いになったね。京のお店でお待ちしてればよかったのに。」
「姐さんは、すぐに松前の言葉にお戻りだな。たいしたものだ。」
「トクさんは、すっかりあちらのおひとだね。近江弁はお忘れのようだ。」
「思い出すさ。容儀も直す。お店には、このなりではいかれぬ。」
本店と箱舘では、いろいろ気を遣うのが多かろうな、と小春は青年に同情したが、
「御寮人さまも、それをお喜びだよ。」
「あの方は、わしを思い出されたのか。お出かけというのは、それほども、お元気におなりになったのだな。」
小春が強く点頭すると、ありがたい、と徳兵衛はぼろぼろと涙をこぼした。
御寮人さまが急ぎ箱舘を去られるさいの港で、行かないでくだされ、これからではありませぬか、と御すがりしたい気持ちを包み隠してご挨拶すると、ぶるぶるとただ首を振られた。知らぬ者を見る顔であった。もしそのときお声が出されれば、お前は誰か、違う、トクというのはもっと小さい子じゃ、急に大きくなるわけがない、といわれたかったのであろう。その証拠に、御寮人さまはしきりに誰かを連れて行きたがった。
御寮人さま、トクはこちらに残ります、と小春さんがいったとき、御寮人さまは悲し気なお顔で首を振った。あんな小さい子を残してはいけぬ、と思われたのだろう。小春さんの影に隠れるようになって、おろおろと小さい「トク」を探されるご様子であった。
そのときの衝撃を、徳兵衛は忘れない。北近江で拾われて蝦夷島に連れてこられ、ともに過ごした苦楽の日々が、御寮人さまの中で、一夜にして消えてしまっていたのだ。
「また齢を重ねてしまった。こちらに上っても、お会いできなかったから、五年ぶりか。また、お前は違うとおっしゃるだろうな。」
「いや、おわかりだよ。その泣き顔は、トクだよ。」
「ああ。……おや? 姐さんは、おれが徳兵衛になってからしか知るまい。子どものときに世話してくれた、別のコハルさんならともかく、あんたの前で泣いたのなど、初めてだ。」
そうだな、昔の仕事だし、あんた様にはいっておいてやろう、と小春は、貰い涙を拭いた。
「前のコハル……おかしらの別の名は、いわぬが、あんたもどこかで聞いた筈。あたしはその手下だから、知らなかっただろうが、あんたと変わらぬくらい長く、松前にいた。ずっと、あんたらと一緒だったんだよ。」
「……そうだったのか。道理で、おれもつい、ときどき勘違いする筈。……どこにいた?」
「大舘。松前大舘に潜り込んでいた。」
「では、御寮人さまを……?」
「ああ、御寮人さまの地獄も極楽も、全部、あたしは見てきたんだ。」
「……そうか。これよりは、極楽だけ見て差し上げろ。」
徳兵衛は立ち上がり、この恰好は、むしろ今の御当主殿に、我が主よりの書状を届けるためのものだ、といった。
「旦那様にではなく、納屋今井宗薫殿にお目にかからねばならぬ。我が主、蠣崎志摩守より内々のお申し出がある。……だから、まずはこの格好じゃ。」
「松前の小さなお城で、わたくしの世話をしてくれていた、アイノ……蝦夷の子がおった。」
思い出せたのは、喋っておいたほうがいいかの、と御寮人さまはおっしゃって、すずを相手にお話しになる。公家屋敷から戻り、あれこれ面倒をみてくれた公家侍や地下人の下級公家も御礼の末に納屋の屋敷から送り出して、御寝室にふたりきりになってからだ。もう夜も遅い、灯火の赤黄色い光を見つめながら、御寮人さまは時折お声をつまらせる。
「その子の名が、和人の……私たちのことばに直せば、すずめだった。」
「伺っておりました。亡くなられたとか?」
すずめが口を挟んだのは、これがこの夜、最初である。躰を固くして、御寮人さまの奇怪な話に聞き入る。
「ああ、戦で。その戦はな、わたくしが仕組んで起こさせたのじゃ。松前には、蠣崎という、蝦夷島の代官様のお家があった。わたくしはそのお代官に、いきなり手籠めにされて、……恥をかかされて、必ず仕返しをすると誓ったのだ。殺すだけでは済まぬ、お代官はアイノに苛政を……蝦夷をいじめようとしているから、世のためにも、蠣崎のお家は寝こそぎ除いてしまおうと。なぜ、そこまで思えたのか? ……今はまだ、そこが思い出せぬ。わたくしには、まことに蠣崎家に祟る怨霊が憑りついていたのかもしれぬな、ふふふ、冗談じゃ、すず、また怖い話をしてしもうて、すまぬな。すずめの話は済んだ。もう、やめような?」
「御寮人さま。悪い夢と一緒と存じます。どうか、全部、すずにお吐き出しくだされ。」
「……子どもには悪い話じゃぞ?」
「すずの躰ももうすぐ、大人になりましょう。」
そうか、そのときは小春さんと三人でお祝いをしてやろう、と御寮人さまはお笑いになった。
「わたくしはお代官の、蠣崎新三郎さまの側室になった。これも、無理矢理されたのであったが、わたくしの悪謀には好都合であったかもしれぬ。わたくしは堺の方などと呼ばれて、おやかたさまにむごい目に遭い続けたが、それを耐え忍んでいるうちに、だんだんにご信頼を得てしもうた。おやかたさまがお甘かったのじゃよ、ふふ。武勇に長けた、本来なら立派なお武家として、お大名にもなられて不思議ではない方とおぼえている。わたくしを襲われるなど、あんな真似をされたのは、なんでだったのかの? ただ、このお武家はな、すず、わたくしを心より好いてくださったのだぞ。側室としてお可愛がりだけでは、なかったのだぞ。……はじめはきつかった。きついお気持ちじゃった。むごい目にあわされた。それも、とても忘れられぬ。……だが、おやかたさまは、こんなわたくしなどを宝だと思ってくださっていた。ついに、そのお方の、まことのおやさしさに、お応えできるようになった。すず、これは、恋の話じゃ。むごいはじまり方じゃったが、恋であった。」
御寮人さまは、お目を潤ませながら、子どもに自慢して見せるようにいわれた。
「しかし、わたくしは御野心をあおり、……ほら、お店に南蛮の器械の時計があろう? あれの針を無理やりに動かすような真似をしてやった。ご官職ご官位を上方から持ってきてあげるというて、お騙しした。……ご官位じゃと? 今日お目にかかった、義理のお父様がお持ちのものぞ? それがなにの役にたてば、元はご立派なはずのお屋敷が、ああ草ぼうぼうになるのかの? ははは。……だが、おやかたさまは、それが欲しかったのじゃ。栄誉に目が眩まれたのではない。秋田におられた旧主様を出し抜き、天下様の直参として立たれようとしたのは、お考えあってのことじゃった。蝦夷島を蝦夷島の者の手に、という……。左様いわれたのは、わたくしがそれを知ったのは、もう、針を無理矢理動かした後じゃった。そういう悪戯をしてはならぬぞ。時計は壊れてしまうのじゃ。蠣崎のお家は、簡単に壊れた。わたくしが、壊してしまった。」
御寮人さまは長いこと、黙り込まれた。すずは、少しも眠くならない。わけがわかるまい、退屈じゃろう、もう下がって寝るか、と訊かれて、首を振った。おやかたさまとはどんな人なのだろう、なぜ御寮人さまはそんな相手をお好きになったりしたのだろうと考えているが、わからない。
「無欲気に見えて、蠣崎の御隠居様こそは、ご英爵に目が眩んだ方だった。まあ、わたくしが火遊びのお道具に、従五位下志摩守のご官位を差し上げたのだがな。おやかたさまは松前、ご隠居様と残りの息子さま方は箱舘に分かれて、二つのお役所ができ、相争った。箱舘こそは、天下の良港。今井のお店が建つべきところ。よって、わたくしが、そのようにさせたのじゃ。お城を動かさせた。……無論、わたくしはおやかたさまを裏切り、松前のお城を飛び出して、箱舘に奔ったよ。……悲しかった。大舘の皆さまとお別れしたくなかった。やさしい方がたを、ようやく見つけられたのに。でも、そうしなければならなかった。……何故じゃ? なぜわたくしは、泣くようにして箱舘などに行った?」
御寮人さまは、頭を抱えられた。なにか、一番大事なことを思い出されていない。
(おひとの名前ではないか?)
すずには、小春さんに引きあわされたときに大人同士の話で出た名前がいくつか、淡い記憶としてある。だが、それを片端から口に出すのは、はばかられた。
「すずめが死んだらしいのも、松前と箱舘の戦のときのようだ。すずめは可哀相に、きっとわたくしの仕返しをしてくれるつもりもあって、戦などにわざわざ出たのじゃろう。生き残ったあれの兄弟が、箱舘納屋でそういったそうじゃよ。あんな小さな女の子が、重たい鉄砲を握ったのだと、すず、信じられるか? 他にもたくさんの子どもが、若い女が、鉄砲を握らされた。そんなことを誰がさせていい?……たとえ仏さまのためだって許されやせぬと、わたくしは思うぞ。誰がさせたのじゃ、そんな真似?……いや、いや、わたくしに決まっておる。今井の鉄砲は、両方の兵が撃ちあったよ。わたくしがお売りした鉄砲。そして大筒! 松前大舘……お城のなかにいた、御恩ある奥方さまと可愛い若君が、わたくしの撃たせた大筒の弾に当たって、亡くなられた。……こんなひどい戦の張本人は誰じゃ、と皆怒るわな。堺の方、というおやかたさまの妾が悪いのじゃ、ということになぜか、なっていた。まあ、当たっていたな、すず?」
すずは首を振った。御寮人さまの目は真っ赤だが、微かに笑われている。なんてお笑いだろう、と初めてみるご表情に、胸の底が冷たくなった。
「ところが、誰が堺の方だとは、あまり知る者のなかったようじゃ。わたくしと勘違いされて、殺された者がおる。その首を、わたくしはお城でみた。」
悪夢の光景は、まことでもあったのだ。
「怖い話ばかりで、すまぬ。……だがな、戦がまったく救いがなくなるまで続くのだけは、避けられた。そのときのうれしさ、今でも思い出せる。ともにそれを祈っていたひとと、跳ね上がり、手を取って喜んだよ。おやかたさまが、ご決断になられたのだ。松前が陥ちたと知るや、降参してくださった。お武家にとって、まだ戦えるというのに、矛を収めるのはおつらかろう。おのれの命懸けの戦を無名の師と認めるのは、恥ずかしかろう。それをやってくださった。すず、左様なことができる方もいらっしゃったのだ。……だが、……コハルが、……おやかたさまを……。」
「小春さん?」
御寮人さまは長いこと目をつぶっておられた。震えておられた。綺麗なお額を、手で押さえられている。
「コハルというのはな……大旦那様にもお仕えした、不思議な力の持ち主じゃ。わたくしの、親のようなものじゃった。大好きな、たったひとりの者じゃった。……わたくしの制止をきかず、おやかたさまを襲い、刺し違えて、死んだ。それを、わたくしのためだと思ってやりおった。蝦夷島をそののち治める為に、権謀家の御隠居様と、敗軍の将とはいえご嫡男のおやかたさまがいては、……あっ、誰の? 誰の世になりきれぬと? わたくしではないぞ、まさかわたくしが蝦夷島の主になれるわけではない、誰だ? そうだ、わたくしは、誰を?」
すずは、躰をふらふらと持ち上げた御寮人さまに、思い切り抱きついた。
「御寮人さま、御寮人さま! お願いでございます! ご無理なさいますな! 厭なことは、思い出されなくてよろしうございます。」
「思い出したい。思い出したいのじゃ。……じゃのに、なぜ、顔も名も出てこない? おかしいではないか?」
「小春さんに、小春さんにお尋ねください。」
「自分の頭から出てこぬようでは……わたくしは、まだ……」
「御寮人さまはもうお病ではございませぬ。いま少し、いま少しでございますれば、どうか、どうかご無理をなさらず。すずにお話しください。かならず、思い出されます。」
御寮人さまは、すずの肩をやさしく抱かれた。
「……おおきになあ、すず。……そうさせてくれ。もう、少し思い出したよ。おやかたさまのお亡くなりになったときに、側におられたひとじゃ。ずっと前から、蝦夷島のあやめ……あやめというのがわたくしの名だが、知っておったか? そうか。……蝦夷島にいたころのあやめの、大切な大切なひとじゃった。そればかりは思いだせた。それだけで、胸が締め付けられるようじゃ。どこのどなたかのう? うむ、わたくしは、調べたりはせぬよ。すずも、せんでくれ。いま少しで、すべて思い出す。それを、待ってくれぬか?」
「お待ちいたします。きっと、きっと思い出されます。」
すずは御寮人さまのお着物に、ぼろぼろと涙をこぼした。
「すず、なにも泣くことはない。……怖い話ばかりだったから? 違うのか? ……ああ、わたくしの泣き虫が、うつってしもうたか?」
「なんだい、その恰好は。」
「まあ、今日はこうだ。姐さん、お久しい。いまはお馬廻り、今井徳兵衛、諱は家広とした。」
トク、とあやめがつい呼ぶ、丁稚あがりの青年は、箱舘納屋の番頭格のはずだ。
「商人を御やめで? 腹心とお頼みの、御寮人さまにお断りもなく?」
「やめてはいないさ。箱舘あたりではな、半分お武家を気取った方が諸事やりやすい。商いもな。武家のほうの我が主も左様に申されたので、こうした。お馬廻りなどといっても、いるのは店ばかりだ。」
「へえ? しかし、心配になるよ。天下様はとっくに、そんなのを許さぬようになられておろう。お武家はお武家、百姓は百姓、商人は商人さ。区別がやかましくなっていく。」
「蝦夷島は天下の外よ。まだ、な。御寮人さまは、ご不在とは残念だね。」
「明後日お戻りだ。行き違いになったね。京のお店でお待ちしてればよかったのに。」
「姐さんは、すぐに松前の言葉にお戻りだな。たいしたものだ。」
「トクさんは、すっかりあちらのおひとだね。近江弁はお忘れのようだ。」
「思い出すさ。容儀も直す。お店には、このなりではいかれぬ。」
本店と箱舘では、いろいろ気を遣うのが多かろうな、と小春は青年に同情したが、
「御寮人さまも、それをお喜びだよ。」
「あの方は、わしを思い出されたのか。お出かけというのは、それほども、お元気におなりになったのだな。」
小春が強く点頭すると、ありがたい、と徳兵衛はぼろぼろと涙をこぼした。
御寮人さまが急ぎ箱舘を去られるさいの港で、行かないでくだされ、これからではありませぬか、と御すがりしたい気持ちを包み隠してご挨拶すると、ぶるぶるとただ首を振られた。知らぬ者を見る顔であった。もしそのときお声が出されれば、お前は誰か、違う、トクというのはもっと小さい子じゃ、急に大きくなるわけがない、といわれたかったのであろう。その証拠に、御寮人さまはしきりに誰かを連れて行きたがった。
御寮人さま、トクはこちらに残ります、と小春さんがいったとき、御寮人さまは悲し気なお顔で首を振った。あんな小さい子を残してはいけぬ、と思われたのだろう。小春さんの影に隠れるようになって、おろおろと小さい「トク」を探されるご様子であった。
そのときの衝撃を、徳兵衛は忘れない。北近江で拾われて蝦夷島に連れてこられ、ともに過ごした苦楽の日々が、御寮人さまの中で、一夜にして消えてしまっていたのだ。
「また齢を重ねてしまった。こちらに上っても、お会いできなかったから、五年ぶりか。また、お前は違うとおっしゃるだろうな。」
「いや、おわかりだよ。その泣き顔は、トクだよ。」
「ああ。……おや? 姐さんは、おれが徳兵衛になってからしか知るまい。子どものときに世話してくれた、別のコハルさんならともかく、あんたの前で泣いたのなど、初めてだ。」
そうだな、昔の仕事だし、あんた様にはいっておいてやろう、と小春は、貰い涙を拭いた。
「前のコハル……おかしらの別の名は、いわぬが、あんたもどこかで聞いた筈。あたしはその手下だから、知らなかっただろうが、あんたと変わらぬくらい長く、松前にいた。ずっと、あんたらと一緒だったんだよ。」
「……そうだったのか。道理で、おれもつい、ときどき勘違いする筈。……どこにいた?」
「大舘。松前大舘に潜り込んでいた。」
「では、御寮人さまを……?」
「ああ、御寮人さまの地獄も極楽も、全部、あたしは見てきたんだ。」
「……そうか。これよりは、極楽だけ見て差し上げろ。」
徳兵衛は立ち上がり、この恰好は、むしろ今の御当主殿に、我が主よりの書状を届けるためのものだ、といった。
「旦那様にではなく、納屋今井宗薫殿にお目にかからねばならぬ。我が主、蠣崎志摩守より内々のお申し出がある。……だから、まずはこの格好じゃ。」
「松前の小さなお城で、わたくしの世話をしてくれていた、アイノ……蝦夷の子がおった。」
思い出せたのは、喋っておいたほうがいいかの、と御寮人さまはおっしゃって、すずを相手にお話しになる。公家屋敷から戻り、あれこれ面倒をみてくれた公家侍や地下人の下級公家も御礼の末に納屋の屋敷から送り出して、御寝室にふたりきりになってからだ。もう夜も遅い、灯火の赤黄色い光を見つめながら、御寮人さまは時折お声をつまらせる。
「その子の名が、和人の……私たちのことばに直せば、すずめだった。」
「伺っておりました。亡くなられたとか?」
すずめが口を挟んだのは、これがこの夜、最初である。躰を固くして、御寮人さまの奇怪な話に聞き入る。
「ああ、戦で。その戦はな、わたくしが仕組んで起こさせたのじゃ。松前には、蠣崎という、蝦夷島の代官様のお家があった。わたくしはそのお代官に、いきなり手籠めにされて、……恥をかかされて、必ず仕返しをすると誓ったのだ。殺すだけでは済まぬ、お代官はアイノに苛政を……蝦夷をいじめようとしているから、世のためにも、蠣崎のお家は寝こそぎ除いてしまおうと。なぜ、そこまで思えたのか? ……今はまだ、そこが思い出せぬ。わたくしには、まことに蠣崎家に祟る怨霊が憑りついていたのかもしれぬな、ふふふ、冗談じゃ、すず、また怖い話をしてしもうて、すまぬな。すずめの話は済んだ。もう、やめような?」
「御寮人さま。悪い夢と一緒と存じます。どうか、全部、すずにお吐き出しくだされ。」
「……子どもには悪い話じゃぞ?」
「すずの躰ももうすぐ、大人になりましょう。」
そうか、そのときは小春さんと三人でお祝いをしてやろう、と御寮人さまはお笑いになった。
「わたくしはお代官の、蠣崎新三郎さまの側室になった。これも、無理矢理されたのであったが、わたくしの悪謀には好都合であったかもしれぬ。わたくしは堺の方などと呼ばれて、おやかたさまにむごい目に遭い続けたが、それを耐え忍んでいるうちに、だんだんにご信頼を得てしもうた。おやかたさまがお甘かったのじゃよ、ふふ。武勇に長けた、本来なら立派なお武家として、お大名にもなられて不思議ではない方とおぼえている。わたくしを襲われるなど、あんな真似をされたのは、なんでだったのかの? ただ、このお武家はな、すず、わたくしを心より好いてくださったのだぞ。側室としてお可愛がりだけでは、なかったのだぞ。……はじめはきつかった。きついお気持ちじゃった。むごい目にあわされた。それも、とても忘れられぬ。……だが、おやかたさまは、こんなわたくしなどを宝だと思ってくださっていた。ついに、そのお方の、まことのおやさしさに、お応えできるようになった。すず、これは、恋の話じゃ。むごいはじまり方じゃったが、恋であった。」
御寮人さまは、お目を潤ませながら、子どもに自慢して見せるようにいわれた。
「しかし、わたくしは御野心をあおり、……ほら、お店に南蛮の器械の時計があろう? あれの針を無理やりに動かすような真似をしてやった。ご官職ご官位を上方から持ってきてあげるというて、お騙しした。……ご官位じゃと? 今日お目にかかった、義理のお父様がお持ちのものぞ? それがなにの役にたてば、元はご立派なはずのお屋敷が、ああ草ぼうぼうになるのかの? ははは。……だが、おやかたさまは、それが欲しかったのじゃ。栄誉に目が眩まれたのではない。秋田におられた旧主様を出し抜き、天下様の直参として立たれようとしたのは、お考えあってのことじゃった。蝦夷島を蝦夷島の者の手に、という……。左様いわれたのは、わたくしがそれを知ったのは、もう、針を無理矢理動かした後じゃった。そういう悪戯をしてはならぬぞ。時計は壊れてしまうのじゃ。蠣崎のお家は、簡単に壊れた。わたくしが、壊してしまった。」
御寮人さまは長いこと、黙り込まれた。すずは、少しも眠くならない。わけがわかるまい、退屈じゃろう、もう下がって寝るか、と訊かれて、首を振った。おやかたさまとはどんな人なのだろう、なぜ御寮人さまはそんな相手をお好きになったりしたのだろうと考えているが、わからない。
「無欲気に見えて、蠣崎の御隠居様こそは、ご英爵に目が眩んだ方だった。まあ、わたくしが火遊びのお道具に、従五位下志摩守のご官位を差し上げたのだがな。おやかたさまは松前、ご隠居様と残りの息子さま方は箱舘に分かれて、二つのお役所ができ、相争った。箱舘こそは、天下の良港。今井のお店が建つべきところ。よって、わたくしが、そのようにさせたのじゃ。お城を動かさせた。……無論、わたくしはおやかたさまを裏切り、松前のお城を飛び出して、箱舘に奔ったよ。……悲しかった。大舘の皆さまとお別れしたくなかった。やさしい方がたを、ようやく見つけられたのに。でも、そうしなければならなかった。……何故じゃ? なぜわたくしは、泣くようにして箱舘などに行った?」
御寮人さまは、頭を抱えられた。なにか、一番大事なことを思い出されていない。
(おひとの名前ではないか?)
すずには、小春さんに引きあわされたときに大人同士の話で出た名前がいくつか、淡い記憶としてある。だが、それを片端から口に出すのは、はばかられた。
「すずめが死んだらしいのも、松前と箱舘の戦のときのようだ。すずめは可哀相に、きっとわたくしの仕返しをしてくれるつもりもあって、戦などにわざわざ出たのじゃろう。生き残ったあれの兄弟が、箱舘納屋でそういったそうじゃよ。あんな小さな女の子が、重たい鉄砲を握ったのだと、すず、信じられるか? 他にもたくさんの子どもが、若い女が、鉄砲を握らされた。そんなことを誰がさせていい?……たとえ仏さまのためだって許されやせぬと、わたくしは思うぞ。誰がさせたのじゃ、そんな真似?……いや、いや、わたくしに決まっておる。今井の鉄砲は、両方の兵が撃ちあったよ。わたくしがお売りした鉄砲。そして大筒! 松前大舘……お城のなかにいた、御恩ある奥方さまと可愛い若君が、わたくしの撃たせた大筒の弾に当たって、亡くなられた。……こんなひどい戦の張本人は誰じゃ、と皆怒るわな。堺の方、というおやかたさまの妾が悪いのじゃ、ということになぜか、なっていた。まあ、当たっていたな、すず?」
すずは首を振った。御寮人さまの目は真っ赤だが、微かに笑われている。なんてお笑いだろう、と初めてみるご表情に、胸の底が冷たくなった。
「ところが、誰が堺の方だとは、あまり知る者のなかったようじゃ。わたくしと勘違いされて、殺された者がおる。その首を、わたくしはお城でみた。」
悪夢の光景は、まことでもあったのだ。
「怖い話ばかりで、すまぬ。……だがな、戦がまったく救いがなくなるまで続くのだけは、避けられた。そのときのうれしさ、今でも思い出せる。ともにそれを祈っていたひとと、跳ね上がり、手を取って喜んだよ。おやかたさまが、ご決断になられたのだ。松前が陥ちたと知るや、降参してくださった。お武家にとって、まだ戦えるというのに、矛を収めるのはおつらかろう。おのれの命懸けの戦を無名の師と認めるのは、恥ずかしかろう。それをやってくださった。すず、左様なことができる方もいらっしゃったのだ。……だが、……コハルが、……おやかたさまを……。」
「小春さん?」
御寮人さまは長いこと目をつぶっておられた。震えておられた。綺麗なお額を、手で押さえられている。
「コハルというのはな……大旦那様にもお仕えした、不思議な力の持ち主じゃ。わたくしの、親のようなものじゃった。大好きな、たったひとりの者じゃった。……わたくしの制止をきかず、おやかたさまを襲い、刺し違えて、死んだ。それを、わたくしのためだと思ってやりおった。蝦夷島をそののち治める為に、権謀家の御隠居様と、敗軍の将とはいえご嫡男のおやかたさまがいては、……あっ、誰の? 誰の世になりきれぬと? わたくしではないぞ、まさかわたくしが蝦夷島の主になれるわけではない、誰だ? そうだ、わたくしは、誰を?」
すずは、躰をふらふらと持ち上げた御寮人さまに、思い切り抱きついた。
「御寮人さま、御寮人さま! お願いでございます! ご無理なさいますな! 厭なことは、思い出されなくてよろしうございます。」
「思い出したい。思い出したいのじゃ。……じゃのに、なぜ、顔も名も出てこない? おかしいではないか?」
「小春さんに、小春さんにお尋ねください。」
「自分の頭から出てこぬようでは……わたくしは、まだ……」
「御寮人さまはもうお病ではございませぬ。いま少し、いま少しでございますれば、どうか、どうかご無理をなさらず。すずにお話しください。かならず、思い出されます。」
御寮人さまは、すずの肩をやさしく抱かれた。
「……おおきになあ、すず。……そうさせてくれ。もう、少し思い出したよ。おやかたさまのお亡くなりになったときに、側におられたひとじゃ。ずっと前から、蝦夷島のあやめ……あやめというのがわたくしの名だが、知っておったか? そうか。……蝦夷島にいたころのあやめの、大切な大切なひとじゃった。そればかりは思いだせた。それだけで、胸が締め付けられるようじゃ。どこのどなたかのう? うむ、わたくしは、調べたりはせぬよ。すずも、せんでくれ。いま少しで、すべて思い出す。それを、待ってくれぬか?」
「お待ちいたします。きっと、きっと思い出されます。」
すずは御寮人さまのお着物に、ぼろぼろと涙をこぼした。
「すず、なにも泣くことはない。……怖い話ばかりだったから? 違うのか? ……ああ、わたくしの泣き虫が、うつってしもうたか?」
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