えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
206 / 210

終の段  すずめ(七)

しおりを挟む
「小春にこのたびお任せの仕事について、済んだことは仕方ありませぬが、もうお役目から外してくださいませぬでしょうか。これはあやめの馴染の家の者へのご配慮というよりも、納屋今井の今後のお商いのありかたを愚考いたしまして、申し上げるのでございます。」
「納屋今井の今後、だと。」
 あやめは、いきなり宗薫のかんに触ることをいう。あやめのいいたいことは、わかる。わかるだけに、腹立たしい。要は、小春たちのような、乱波だのといわれる異能の者たちを操り、表向きの正々堂々たる商いの裏面に蠢動させて、政商としての今井の仕事を有利に動かす……そうしたやり方は、もう仕舞にすべきだ、というのである。
すでに豊臣(羽柴)秀吉が関白として、事実上の天下政権を樹立している。乱世は終わるであろう。今井宗久が織田信長といわば組んで、急激にのし上がった時代と同じやり口では、行きづまりがあるだろうというのである。
(それはそうに違いない。わしも、前からそれは思っている。)
(爺様や親父殿の商売のやり方は、おかしかったのだ。もう長続きせぬ。)
(だが、あやめ、お前がそれをいうのか?)

 このあやめが蝦夷島で何をやったのかは、父と自分が一番よく知っているといえるだろう。それは、宗久ですらついにやったことのない、戦争そのものをつくるという商いではなかったか。
(おとなしく昆布や干し鮭を運ぶだけでは済まなかったのが、お前ではなかったか?)
(蝦夷島の長たる蠣崎家に、わが身を餌に深く食い入り、山ほどの武器弾薬を売りつけた。一方では、隠居を誑かしてお家騒動を起こさせ、さらにそれに蝦夷の一揆を被せて、大変な戦にしおった。一揆の長もまた、おのれの色で篭絡した男という。あろうことか、その蝦夷男を蠣崎家の主にし、自分はそれを意のままに操らんとしたという。)
(と、いうのだが……?)
 目の前にいる細い躰の、顔色の悪い妹の姿を見ていると、とても信じられない気がする。
だが、秋田の安東侍従家の蝦夷代官だった蠣崎若狭守(若州)慶広という武家に囲われて、「堺の方」などと呼ばれた愛妾だったのも、その蠣崎若州という男を裏切って滅ぼしたのも、どうやら疑いのないことなのである。
(さすがに良心に耐えかねたのか。蝦夷島より戻ったとき、あの有様だったのは?)
 このあたりのことは本人以外知り得ないのだが、妹が蝦夷島から連れてきた(逆かもしれない。妹を蝦夷島から連れ帰したというべきか)小春という女も、詳しくは頑として喋らない。宗久は自分よりも詳しく聞かされているのだろうが、あやめについては、この父もあまり教えてくれないのである。
 ただ、現に「箱舘御移城」などというものが起こり、蝦夷島貿易の中心地になった箱舘に、半独立的な納屋の出店が、莫大な稼ぎを得ている。そして、カド(ニシン)から肥料をつくって売るという、これからの綿作流行を睨んだ大きな商売を始めた。その女主人は堺で病人そのものの、閉じこもった暮らしだったが……。
(ようやく平かになって(回復して)きたらしいが、そうなると、またこうか。うるさい。)
 宗薫はいまいましいが、その心の中に、一片の妬心が混じっているのは、自分でもわかっている。

(こやつは、父上を超えた。)
(女の身を張った、というが、命懸けのことだ、責めるにあたらぬ。今井宗久が尾張から来た出来星大名に賭けたのと同じだ。)
(わしも、父上のようにやりたかった。だが、それはもう手垢のついた、しかもいずれ滅びる商いじゃ。わしにも、それはわかる。)
(あやめ、お前だけが、蝦夷島なんぞというところで、それをやりおおせた。)
(そして、もうやめろ、古いという。)
 ずるいぞ、というのが宗薫のいいたいことだったかもしれない。

「……兄上、お聞きいただけませぬか。」
「聞いておる。思案させよ。」
「有り難きお言葉にて。……ああした者たちも、いまの世に生きていけるようにしてやりませぬと。」
「情け深いことだ。お前は、前のコハルともとりわけ親しかったからな。」
 あやめは黙りこんだ。目に見えて顔が青くなり、脂汗が出始める。
 宗薫は慌てた。また、こちらに帰ってきたときの、有体にいって頭のおかしい状態に戻られてはかなわない。あの頃は、暴れこそせぬが、まったく口すらきけなかった。かと思うと、ほんの時折だが、意味もなく部屋の中を歩き回っては、ぶつぶつと怪しい呟きを漏らしていた。なにかが憑りついたのではありますまいか、ご自分ではないお方になられて、ご自分に話しかけておられます、とこっそりと覗いた者がいった。
(わしら今井だから、土牢のかわりに、離れをやれたようなものだ。)
 あやめはしばらく手を固く握ってうつむき、呼吸を整えていたが、ようやく落ち着いたのか、
「……失礼いたしました。」
「いや、……つらいことは、思い出さぬでよい。」
 あやめはその言葉を受け流し、で、でございますが、と話を継ごうとする。
「疲れたのではないか? 無理はせんでよい。」
「せっかく、お時間をいただけましたので。いえこれは、是非今日お願いいたさないと。」
 宗薫はすこし構えた。あれか、と思う。その通り、あやめは単刀直入に尋ねる。
「兄上、小春をお床に召されましたか?」
「小春とは、お前の世話をしているほうの」宗薫もこの話題になると、兄らしくない意地悪にならざるを得ない。「いまの小春であるか? 知らぬよ。」
「あれは、ご存じの通り、その道にかけては異能。前のコハルが、故松永弾正のところで子どものころに技を仕込ませたとかいう……。お床の中のことは存じませんが、女の目からみても、大変な色香でございますな。日ごろ抑えさせるのに、苦労しておりまする。」
「知らぬて。」
「しかし、今井の家のお仕事というには、兄上のお相手は、いささか無理がございませぬか?」
「くどい。床に召してなどおらぬ。」
「兄上。忠言申し上げます。なんというても、小春はまともな女にはござりませぬ。」
(だが、そこもよいのだ。)
「そこもよい、とお思いかもしれませぬが、あれは化生でございまして、ああいうものと交わるは、口に出すのもおそろしい人外の仕業と同等。姦した男の背に、女にしか見えぬ、燐光が浮かぶのでございます。」
(まさか。)
 宗薫の表情が変わったのをあやめは見逃さないし、当の宗薫もしまった、と気づかざるを得ない。開き直るしかない。
「家の者であれば、主人が慰みに召すこともある。」
「左様、我が母にも父上のお手付きがあったおかげで、あやめは生まれましてございます。」
「……お前、何をそんなに怒っているのか。あれは、元々そういう女ではないか。」
 あやめは、よくぞぬかした、といわんばかりに胸を反らした。
「兄上は、小春と二世を誓われていますか。」
「……左様な間柄ではないな。」
 何をいいやがる、と思った。そんなはずがあろうか。
(へんなことをいって、奥にでも伝わると困る。子を産ませようとも思わぬし。)
「なるほど。では、小春は、兄上をお慕い申し上げていると?」
「いわれたことはない。命じれば、来よるだけじゃ。さばけたものよ。」
「ではやはり、あやめは怒りとうございますよ。もう、二度とお召しにならぬよう。」
「なぜじゃ。」
「女を、その意に反し、力をもって召されるのは、罰当たりな所業なれば。」
 あやめは、自分の吐く言葉の苦さに耐えるような表情になる。
(ああ、一生、忘れられないのか、あれは……。)
(相手が、おやかたさまであったとて、あれは、……思い出すだに、痛いほどにつらい!)

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

伊勢山田奉行所物語

克全
歴史・時代
「第9回歴史・時代小説大賞」参加作、伊勢山田奉行所の見習支配組頭(御船手組頭)と伊勢講の御師宿檜垣屋の娘を中心にした様々な物語。時に人情、時に恋愛、時に捕り物を交えた物語です。山田奉行所には将軍家の御座船に匹敵するような大型関船2隻を含み7隻の艦隊がありました。

播磨守江戸人情小噺 お家存続の悲願

戸沢一平
歴史・時代
 南町奉行池田播磨守頼方《いけだはりまのかみよりまさ》が下す裁断についての、江戸市民たちの評判がすこぶる良い。大見得を切って正義を振りかざすような派手さは無いのだが、胸にジンと染みる温情をサラリと加える加減が玄人好みなのだと、うるさ型の江戸っ子たちはいう。  池田播磨守頼方は、遠山の金さんこと遠山景元の後任の町奉行だ。あの、国定忠治に死罪を申し渡した鬼の奉行として恐れられていた。しかし、池田が下す裁断は、人情味に溢れる名裁断として江戸市民たちの評判を呼んでいく。  幕府勘定役組頭の奥田源右衛門《おくだげんえもん》が殺された。深夜に、屋敷で首を刺されていたのだ。下手人はどうも、奥田が毎夜のように招いていた女のようだ。奥田は女好きとして有名で、その筋の女を買うことが少なくない。  その関係の殺しとも思われたが、調べが進むと、お役目に関わる事情が浮上して来た。  町奉行池田播磨守は、どうやって犯人を追い詰めるのか。そして、どのような裁断を下すのか。

蜈蚣切(むかできり) 史上最強の武将にして最強の妖魔ハンターである俺が語るぜ!

冨井春義
歴史・時代
俺の名は藤太(とうた)。史上最強の武将にして、史上最強の妖魔ハンターだ。 言っておくが俺は歴史上実在した人物だ。平将門討伐の武功をたて、数々の鬼や妖怪を退治して民衆を救ったスーパーヒーローでありながら、現代(いま)の世の中で知名度がイマイチなことに憤慨した俺は、この冨井とかいう男に憑依して、お前らに俺の偉業を語ることにしたぞ!特に全国の佐藤という苗字の奴は必ず読め!なにしろ俺はお前らの祖だからな。それ以外の奴らも読め。そして俺の名を天下に知らしめろ!

異世界で買った奴隷が強すぎるので説明求む!

夜間救急事務受付
ファンタジー
仕事中、気がつくと知らない世界にいた 佐藤 惣一郎(サトウ ソウイチロウ) 安く買った、視力の悪い奴隷の少女に、瓶の底の様な分厚いメガネを与えると めちゃめちゃ強かった! 気軽に読めるので、暇つぶしに是非! 涙あり、笑いあり シリアスなおとぼけ冒険譚! 異世界ラブ冒険ファンタジー!

呪法奇伝ZERO・平安京異聞録~夕空晴れて明星は煌めき、遥かなる道程に月影は満ちゆく~

武無由乃
歴史・時代
「拙僧(おれ)を殺したければ――播摩の地へと来るがいい。拙僧(おれ)は人の世を壊す悪鬼羅刹であるぞ――」 ――その日、そう言って蘆屋道満は、師である安倍晴明の下を去った。 時は平安時代、魑魅魍魎が跳梁跋扈する平安京において――、後の世に最強の陰陽師として名をのこす安倍晴明と、その好敵手であり悪の陰陽師とみなされる蘆屋道満は共にあって笑いあっていた。 彼らはお互いを師弟――、そして相棒として、平安の都の闇に巣食う悪しき妖魔――、そして陰謀に立ち向かっていく。 しかし――、平安京の闇は蘆屋道満の心を蝕み――、そして人への絶望をその心に満たしてゆく。 そして――、永遠と思われた絆は砕かれ――、一つであった道は分かたれる。 人の世の安寧を選んだ安倍晴明――。 迫害され――滅ぼされゆく妖魔を救うべく、魔道へと自ら進みゆく蘆屋道満。 ――これは、そうして道を分かたれた二人の男が、いまだ笑いあい、――そして共にあった時代の物語。

満州国馬賊討伐飛行隊

ゆみすけ
歴史・時代
 満州国は、日本が作った対ソ連の干渉となる国であった。 未開の不毛の地であった。 無法の馬賊どもが闊歩する草原が広がる地だ。 そこに、農業開発開墾団が入植してくる。 とうぜん、馬賊と激しい勢力争いとなる。 馬賊は機動性を武器に、なかなか殲滅できなかった。 それで、入植者保護のため満州政府が宗主国である日本国へ馬賊討伐を要請したのである。 それに答えたのが馬賊専門の討伐飛行隊である。 

どこまでも付いていきます下駄の雪

楠乃小玉
歴史・時代
東海一の弓取りと呼ばれた三河、遠州、駿河の三国の守護、今川家の重臣として生まれた 一宮左兵衛は、勤勉で有能な君主今川義元をなんとしても今川家の国主にしようと奮闘する。 今川義元と共に生きた忠臣の物語。 今川と織田との戦いを、主に今川の視点から描いていきます。

貞宗を佩く白猿

糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
 曲亭馬琴他 編「兎園小説」第十一集「白猿賊をなす事」より(全五話)  江戸時代後期に催された、世の中の珍談・奇談を収集する会「兎園会」  「南総里見八犬伝」等で有名な曲亭馬琴、著述家の山崎美成らが発起人となって開催された「兎園会」で披露された世の珍談・奇談等を編纂したのが「兎園小説」  あの有名な「けんどん争い」(「けんどん」の語源をめぐる論争)で、馬琴と山崎美成が大喧嘩をして、兎園会自体は自然消滅してしまいましたが、馬琴はその後も、個人的に収集した珍談・奇談を「兎園小説 余録」「兎園小説 拾遺」等々で記録し続けます・・・もう殆ど記録マニアと言っていいでしょう。  そんな「兎園小説」ですが、本集の第十一集に掲載されている「白猿賊をなす事」という短い話を元に短編の伝奇小説風にしてみました。  このお話は、文政八(1825)年、十月二十三日に、海棠庵(関 思亮・書家)宅で開催された兎園会の席上で、「文宝堂」の号で亀屋久右衛門(当時62歳)という飯田町で薬種を扱う商人が披露したものと記録されています。  この人は、天明期を代表する文人・太田南畝の号である「蜀山人」を継いで二代目・蜀山人となったということです。  【あらすじ】  佐竹候の領国、羽州(出羽国)に「山役所」という里があり、そこは大山十郎という人が治めていました。  ある日、大山家に先祖代々伝わる家宝を虫干ししていると、一匹の白猿が現れ家宝の名刀「貞宗」を盗んで逃げてゆきます・・・。 【登場人物】  ●大山十郎(23歳)  出羽の国、山役所の若い領主  ●猟師・源兵衛(五十代)  領主である大山家に代々出入りしている猟師。若い頃に白猿を目撃したことがある。  ●猴神直実(猴神氏)  かつてこの地を治めていた豪族。大山氏により滅ぼされた。

処理中です...