えぞのあやめ

とりみ ししょう

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八の段 大団円  悲傷(二)

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「来たか、早かったな、十四郎。」
 新三郎は、半身を起こして、十四郎を迎えた。
「久しいの。」 
 十四郎は、低頭している。しかし、招かれたとき、傷ついて床に臥せっている兄の顔を見ている。改めて覗うと、はっきりと青白い。
「まことに、ご無沙汰を申し上げておりました。このたびは、お見舞いを申し上げまする。まず義姉上様と武蔵丸ぎみには、まことに、取返しもつかぬ……」
「戦の習いじゃ。気にかけても詮無い。……奥か。奥と武蔵丸に、おれも呼ばれたな。」
「なにをおっしゃいます。」
「汗が出よるのよ。お前も、こうなった者を看取ったことがあったろう? 思うたよりも、血が出すぎていたか。」
「お元気でいらっしゃる。」
 十四郎は、苦し気な息を隠しているのがわかる兄をいたわり、励ます気持ちしかない。
 あやめを奪った兄に、謀反騒ぎより前のような気持ちで会えるのかは、実は昨夜、凶報に接してからさえ、わからなかった。願い通り、兄は長期戦を避けて降参してくれたが、これからの家中での政事の争いは、干戈こそ避けるものの、やはり苛酷なものになると十四郎は覚悟していた。それが、兄がたとえどう思っていようと、あやめという一人の女をめぐるものにどうしても重なってしまうのも、わかっていた。
(だが、この様子では、兄上は長くない……。)
 復仇の満足や、あるいは安堵とは遠く、十四郎は悲しみと、不思議なことに心細さとが、せりあがるようだ。

「そのようなことよりも、十四郎、お前を叱っておかねばならぬ。」
 新三郎はひそかに息を整えたのか、また大きな声を出した。十四郎にとって懐かしい、将来の主君たる「ご名代」だった兄の声だ。
「はい。」
 戦を起こしたことだろうか? あるいは、兄夫婦が実は激怒していたという、あやめを捨てた昔の自分のおこないだろうか?
「……これは、本来、お前がやらねばならなかったのだ。」
「これ、とは?」
「おれを除くなら、お前がもっと早く手を回せ。愚図愚図しておったのではないか?」
「兄上は、なにをおっしゃいますか。」
 わかってはいる。だからあやめにも、そんな冗談をつい口にした。敗軍の将となったばかりの兄こそ容易に除けようし、十四郎が蠣崎家を完全に握るのであれば、今度は逆に父の駒に使われかねない新三郎を、なにか家中での力を回復する前に除くべきなのは道理だった。
(おれには、それができなかった。兄をはじめて心から憎んだようだったのに、やはり、殺したくはなかった。)
 新三郎は、たしかに少し弟の優柔不断に腹を立てているようだ。
「あれは、今井の手の者が、おぬしらの命に背いたのか?」
「……ご明察にございます。」
「手抜かりじゃ。だが、そやつこそが、まことに主人思いだった。得難きよい家人を、お前たちは死なせよったな。」
「まことに面目次第もござりませぬ。」
 十四郎は深々と頭を下げた。
「以後、心せよ。情に溺れるな。なすべきことをせよ。」
「はい。」
 新三郎は呻くと、ふたたび横たわった。
「兄上……。」
 しばらく黙って息を短くついている。
「十四郎。ひとつ頼みがある。息子じゃ。」
「ほどなく、若君は参られます。」
 新三郎の長子は松前大舘に入ろうとするところで捕らえられたが、そのまま捕虜としてではなく、十四郎の軍に加わった形を貰って箱舘を目指している。
「もう、若君ではない。……爾後はくれぐれも戦の遺恨を残さず、お前を仰げ、というつもりだったが、間に合わぬようだ。」
 新三郎は、控えている従者に、いまのを聞いたな、と目で合図をした。多くをいわないが、十四郎にあとを頼むといった、その証人となれというのだろう。
「必ず。お家はいずれ若君がお継ぎになる。」
「ありがたいが、軽々に申すな。だが、……」
「我が甥ご。誓って粗略にいたしませぬ。」
 新三郎は安堵したようだった。笑みを浮かべて、目を閉じる。
「兄上……?」
「……まだ、死なぬ。もう少し、おれるか?」
「はい。」
「忙しいであろう。」
 城内の政治がはじまっている。左衛門大夫は命こそ新三郎に助けられたが、不始末により、力を喪ったとみていいだろう。だが、また兄たちがいる。それを操れるのが志摩守である。すでに戦勝の報告として面会したが、まずは新三郎を見舞え、といわれた。こちらにも否やはない。ただ、箱舘の影の最有力者で十四郎と一心同体の存在であるはずのあやめがああなってしまった今、家中の潜在的な対抗者たちにさらに油断はできぬのであった。
「いえ、お話を伺いたく存じます。……元服前の、昔のようだ。」
「あの頃は、おれのほうが忙しかったのだが、……不思議によく遊んでやった覚えがあるな。」
「はい。そればかりを思い出しまする。」
「女の扱いのほうも、少し教えてやればよかった。」
「なにをいわれる?」
「まだお前は、子どもに見えていて……。与三郎は、固いからな。あいつに付いていては、そちらは疎かになる。」
「疎かで、よろしうございますよ。」
「いや、……お前がもっと女に馴れていれば、あやめに手を出してしまったりせず、あれは結句、泣かずに済んだのではないか?」
 あっ、と十四郎は身体が固まり、顔が熱くなるのを覚えた。
「わが不実をお咎めは、正しい。ただ、今になって、それをおっしゃいますか。」
「これも、一度は叱っておきたかった。……今だから、いうのだ。」
「今だから?」
「お前たちは、もう会えたのであろう?」
「……はい。」
「めでたい。」
「まことにかたじけなく存じます。」
「お前がおれに礼をいうか?……お前が、生きているともっと早く知っていればな。おれも、あいつを、あんな目に……。おお、それも叱っておくべきだった。なぜ、赤蝦夷―ポモールの村で生き残ったとすぐに伝えてこなんだか。」
「申し訳ござりませぬ。ただ、お忘れか、兄上は、十四郎に、松前に戻れば斬ると……」
「……そうであったな。なぜ、おれの気持ちはお前たちに伝わらなかったものかの!……いや、もしも、お前とこうして落ち着いて話をしておれば、おれも……」
 新三郎は息を深くついた。あやめへの暴行を思い出している。
「十四郎。すまなかった。あやめに許せともいえぬように、お前もおれを許さなくてもいい。だが、……あやめにむごい真似をした、……し続けていたのだけは、お前にも詫びておきたい。」
「それは、もとはおれの咎だ、兄上。あやめが兄上を許したいといっているのだから、おれが兄上に思うことはもう、ない。」
「……。」
新三郎は、笑みを浮かべたようだったが、差しこむ痛みに呻いた。従者に、汗を拭かせる。

「兄上、わたくしがいたしましょう。」
「なにをいう。父上ならば、おれがお前の前でこうして寝たまま話すも許すまい。蝦夷地宰領と名乗っておるお前に、いまや代官ですらない、平人のおれが……」
 そんな、と十四郎は、布を奪うようにして、十四郎の額から首筋までの脂汗を拭いてやる。
「父上は、左様になられましたか。」
「お若いころからの、ご苦労が多すぎたのだ。息子たちもこの始末だし。」
「でございますが、それも、父上の……」
「十四郎。お前のなすべきことのためには、たとえ不孝にあたろうとも怯むな。おれは、それができなかったから、斯様の始末じゃ。」
「……。」
「だが、不孝の誹りをうまく避けるようにはせよ。天下は、左様な世になりつつある。家中騒乱は、もう表沙汰にはしにくかろう。」
「心得まする。」
「それとな、……最後に一つだけ、お前に教えてやるが、……」
「はっ、なんでございましょう。」
 新三郎は、笑みを浮かべた。
「……おれの汗を拭いてくれて、お前の数々(親切)が身に染みて有り難かったが。」
「滅相もございませぬ。」
「……まあ、よい。」
 新三郎がまた、長い沈黙に入った。待っていても話の続きがないので、十四郎ははっとした。だが、くるしい息で胸がしきりに上下している。いまわの際に至るまでは、まだいくらかあろう。

「……いま、おれは寝ていたな?」
 おそらくは、鎮痛の薬も飲んでいる。
「ほんのしばらくにございまする。」
「もうよいぞ。」
「お疲れでございますか。」
「……仲良く暮らせ。」
「はい?」
「あやめ……納屋の御寮人とじゃ。ようやく、ともに暮らせる。二度と放してやるな。」
「はい。」
 十四郎は迷っている。兄は、兄なりに覚悟を決めて、泰然として死に入ろうとしている。あやめに会いたいであろう気持ちも抑えてくれたのだろう。その末期の心の平安を乱してよいものか?
「……兄上。その、あやめのことが……」
「なんじゃ?」
(あやめに何か、あったな?)
「あれには、なにも気にするな、といってやれ。……お前、それもまだしておらぬか。お前の役目ではないか。……おれが、あの世で奥と武蔵丸に叱られるわ。」
「面目次第もございませぬ。ただ、兄上、……お救いくださりませぬか。」
「救い?」
「会ってやってくださりませぬか?」
「……救うとは、お前ではなく、あやめをか?」
「御意にて。」
「愚か者! 十四郎、お前はまだ……なにを……?」
 新三郎は半身をまた起こそうとして果たせず、痛みに耐えながら、大きく息をついた。かろうじて顔を傾ける。
「兄上のことでもござります!」
「……なんだと?」
「兄上が、かくなられたを、あやめは……」
「わかった。連れて参れ。戦で討ち取られても不思議はなかったのを、しばらく生かして貰えたのだ。気にする必要はない、といってやる。」
「有り難き幸せにて。」
 それだけではないのだが、十四郎はまずは急ごうと思った。

「待て、十四郎、その前に一つだけ聞かせよ。あの世に行けばどうせわかると思うて、聞かなんだが、あやめに最後に会うなら、知っておきたい。」
「はっ。」
「……儂ではなく父上に志摩守のご官位が下されたは、あれは、最初から納屋の御寮人の仕組んだことだったか?」
 十四郎は、新三郎の目が光るのを、思わず避けた。だが、この兄に頼る以上、伝えておかねばならないかもしれない。あやめも、もう嘘は望まぬだろう。
「……はい。」
 新三郎は唸って、天井に苦労して顔を向けなおした。
(あやめは、それだけで戦が起き、こうなると読んだのか。)
「……どこからじゃった?」
 あやめが策謀をめぐらしたのは、であろう。
「……最初から。」
「……最初、とは?」
「兄上が、湯殿であやめを姦された。そのときからでございましょう。」
 新三郎は身体を強張らせた。
「拙者が松前を追われるときに……申し訳ござりませぬ、おれは左様としか思えかったが、……すでにあやめに怒りはあった。兄上のご政道に不信はもっていた。だが、兄上の仕打ちへの報復を思ったのは、やはり、そのときからでございましょう。」
「報復か。……左様だな。あればかりは、なんの行き違いも思い違いもない。おれが、あやめを手籠めにしただけだ。」
「それは兄上の、あやめのことを思ってのご慈悲もあり」
「何をいうか。慈悲などと口にするな。そんなものはない。お前は死んだはずだった。あやめは空き家だとおれは思った。それだけだ。そのつもりで押し入った。だが、そも、空き家なら入り込んでいいはずもなかった。憎むが道理。ましてや、お前は生きていた。そうか、それも最初から、あやめはやはり知っていたのだな。離れていただけだったのだな。恨まれて当然。報復を思うが、当たり前だ。……だが、そこから、なんと長く、大掛かりな……」
「兄上のお命を奪う、というだけではとても済まないと思うたのでしょう。兄上を大舘から逐い、そしておれを挿げ替える。兄上のご政道を覆し、正す。そこまでやって、はじめて復讐だった。……あやめは直後にソラで、そうした帳を記したのでしょう。」
 あやめがときどき語る、頭の中の帳簿というのは、譬えではなく、ほんとうに本人にはみえるし、書き込み、読めるものらしい。十四郎はそう思っている。
「帳?」
(ご存じないか。兄上にはいっていないのだな。)
 新三郎は、目を閉じて、あれやこれやを思い出しているようだ。
「あやめ……不思議な帳をつけるとは聞いていたが、頭の中にもそんなものがあったのか。」
「左様にござります。そう聞かされても、わたしなどには、とてもわかりませぬが。」
 
 新三郎は感心したような息を漏らしたが、やがて、目を開けて、諦観の混じったような声を出した。
「……まんまと、おぬしらは成し遂げたの。おれは、なにも知らずにあやめを召して悦に入っておったが、その間におれがやれた渡党の土地(和人領土)の回復、それも、おぬしらの地均しをしてやったような……いや、おぬしらに動かされていたのか?」
「それは違いましょう。大志は、兄上のものに相違ない。ただ、もし左様いわれるなら、それは、おれもなのでござるよ、兄上。あやめのため、哀れな女を救うため、とだけ思って、蝦夷地を這いずり回っているうちに、いつの間にか、ここまで来てしまった。あやめの思うがままに動かされて、ここにおる。」
 新三郎はそれを聞いたとたんに、破顔一笑した。
「あやめ! あやめ! なんという女じゃ。おのが身と心を賭けて、ついにこの蝦夷島を買い取りおったか! 途轍もない女、いや、女も男もないな。これほどの商いをした者が天下にもおろうか。いかに今井宗久ですら、蝦夷島を丸ごと購ったりはできまい。三国一、未曽有の商人であろうよ!」
(おれは、おそろしい女に惚れたものだったな。)
 新三郎は、奇妙な自足の念を抱いた。あやめの立ち姿と笑顔が、痛く染みるように胸によみがえる。
「十四郎、お前の室などに入るは惜しいの。」
「兄上、あやめは……」
「おれのこのありさまなど、やはり見せぬがよいのではないか? そうよ、あいつにはな、……まるで気にしておらん、お前に出会えたは生涯の欣快でしかない、といっておったと伝えてやれ。爾後は、すべてお前たちがふたりで」
「お願いいたします。あやめにお会い下さいませ。あやめは、声を喪っております。」
「声?」
「コハル……兄上に斬られた刺客は、あやめの身内のような者でした。そのような者が、兄上を斬っている。」
「そうか、……取り乱しておろう。」
(あれは、武家女にはなれておらぬ。)
(それに、心が優しすぎるのだ。こやつも似たようなものだが、武家として育った分、まだ何とかなる。)
「声が出なくなりました。」
「それだけか? ならば、かえって儂のこんな無様な姿は?」
「あやめの心は、また割れております。……兄上は一度、それを繕って下さったと聞いた。」
「お前、それは……。」
(怨霊がついたと思い込んだを、抱きながらいい聞かせて、錯乱を散らしてやったことはあるが……?)
「お願い申し上げます。会ってやってくだされば、また繕えるかもしれぬ。拙者には……。」
「連れてこよ。」

 
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