えぞのあやめ

とりみ ししょう

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八の段  大団円  悲傷(一)

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 夜が明けたころ、倉の入り口にあやめが立った。
 どのようにして、あの距離を駆け戻ってきたのか。早馬でしかありえないが、整備の行き届かない真っ暗な道に馬を疾駆させるなど、正気の沙汰ではない。あやめは馬を乗りこなせるわけでもないから、たれの背にしがみついてきたものか。
 変事の報を受けるや、箱舘に急行する部隊を編成して夜道を急いだ十四郎よりも、早い到着だった。
「御寮人さま?」
 小春はあやめの身をむしろ心配した。馬から落とされたときがあるのではないか。
 着物は泥にまみれ、頭や手に白布を巻いている。化粧けのない顔が強張っている。飲まず、食わず、眠りもせずに突っ走った末に辿り着いたのだから、疲れ果てているはずだ。
 そして、すでに遅かった。
 あやめは一言も発さず、横たえられたコハルの遺骸に近づき、ふらふらと土間に座り込んだ。
「夜のうちに、亡くなりました。」
「……」
 あやめは、コハルの片腕がないのに気づいている。残った手を取り、両手で握った。
(冷たい……)
「最期に、御寮人さまに呼びかけました。」
 わたくしに? と、あやめはなぜかきょとんとしたような表情で、小春をみる。
「きっと、幼くいらっしゃったときの、堺での末の御寮人さまに、お話しかけしていたのでございましょう。大旦那様の御用ですが、すぐに戻りますよ、……堺に、……堺に戻りますと。そんな悲しいお顔をなさるのは、せっかく可愛らしいのに勿体ない。戻ったら、またお話をおきかせください、と。……御寮人さま、昔、そのようなやりとりがございましたか?」
 小春は耐えきれずに涙を溢れさせた。あやめは聞きながら、震えがとまらない。
(コハル……!)
「末の御寮人さまは、お賢いから、きっと……きっと、ご立派な商人になられる、と!お励みなされ、お泣きにならず、お強くなられませ、とっ……!」
 小春はついに泣き伏した。周囲の男たちが、この女ですら心底から泣くのか、とたじろいだ。
 あやめは凍ったような表情のまま、握ったコハルの手にすがるようにした。
(コハル、コハル、コハル……!)
 堺で、そんな風に自分に出立を告げてくれたコハルに、行かないでくれと我が儘をいったことがあっただろうか。自分は寂しかったから、きっと甘えてそうしたに違いない。だが、あやめが忘れてしまったのを、コハルのような仕事の者が、死ぬまで覚えていてくれた。危ない大きな仕事であったのだろう。そのときも、今生の別れのつもりがあったためかもしれない。
(強くなれ、とまたいった。そのときもいったのか?)
(約定を違えたな、コハル。わたくしは、ほら、泣いておらぬ。こんなに悲しいのに、身も世もなく泣き喚きたいのに、昨日から我慢しておるよ。強くなったのじゃ。戦を仕掛け、全うして、蝦夷島に新しき世を開くお手伝いができたぞ。決して自分では死なぬ、この世から逃げはせぬと誓ったぞ。強くなれたではないか。そうであるのに、……)
(そうであるのに、コハル、お前は、……お前は、帰って来てくれぬのか?)
(……痛い。胸のなかが潰れたように痛い。悲しい。耐えきれぬ。じゃがな、わたくしは泣いておらぬぞ。もう大人の泣き虫ではなくなったのだぞ。)
(じゃというに、お前は、……コハル、コハル、なぜ、帰って来てくれぬ!)
(なぜじゃ、コハル!)
 絶叫するように反らしたあやめの咽喉から、声は出ない。息だけが漏れた。
「御寮人さま……?」
 あやめの喉の奥に空気の重い塊ができたようだった。言葉は頭のなかに渦巻いているのに、口に出そうとすると、出てこない。
 あやめは、コハルの名を呼びたかった。だが、身をふりしぼっても、呻きのようなものが漏れるだけであった。
(声が出ぬわ。)
(そうか、コハル……わたくしの、声をそちらに持って行ってくれたのかえ?)
(そうだな、私ははっさい(お喋り)がすぎるものな。)
 笑い声に似たものは出た。だが、言葉は塊に遮られて、発することができない。
(これでは、強くなったとはいえぬな、コハル?)
(わたくしの心の声が、聞こえているか、コハルよ? ……やはり、嘘つきとお前を責める言葉を口にしたいぞ、わたくしは! よくも主人の頼みを虚仮にしおって、と。よくもわたくしの大切なお方を、と……)
(コハル! 聞こえているのか? コハル!)
 あやめは、コハルの頭のあたりの土間に突っ伏した。身を揉んで、ただうめき声をあげる。
 あやめの頭の中の帳に、「コハルの死」というどす黒い血で書かれた文字と、果てしない額を示す無数の南蛮数字が、土砂崩れのような勢いで書き綴られていった。それがとまらない。紙をはみ出しても、止まらない。あやめは躰を震わせて、ただ呻いた。
 周囲の者も、ようやくこれはただ事ではないと気づく。
「御寮人さま、どうされた?」
 あやめは、口を開けるが、返事ができない。息が漏れるばかりで、声が出ない。そのときはじめて涙が、汚れた頬を伝い落ちた。

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