えぞのあやめ

とりみ ししょう

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八の段  大団円  コハルの死

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 コハルは箱舘納屋の店屋敷に隣接する倉のひとつに運びこまれた。
「おかしらさま、なんてことに……」
 小春は動転したが、自分たちの知る止血の手当てをし、数少ない医者らしい者を呼んだ。
 おかしらさまのコハルは、運ばれているさいちゅうに気を喪っている。
「このままでござろう。」
 医者はいう。眠ったまま、死ぬだろうというのである。
 小春は少し迷った末に、今頃ちょうど脇本あたりに入ったであろう、御寮人さまに急使を発した。夜ふけには最初の凶報が届くだろう。

「おかしらさま、御寮人さまにお会いください。」
 失血で真っ白になったおかしらさまの顔を撫でながら、小春は涙ながらに訴えた。
 恐ろしい使い主だったが、このおかしらが憐れみをかけて拾ってくれなければ、自分の命は、子どものときに飢えか凍えかで絶えていただろう。それからも生きながらえたのも、それなりに面白い思いが味わえた日があったのも、おかしらが技を仕込んでくれたおかげだった。
 そのせいで、我ながら正体不明の化外のような存在にされ、厭な奴らに山ほど会わされたが、気持ちのよい人たちにもめぐり会えた。最後には、おかしらは自分に名前を返してくれたし、もう縛ろうとはしなかった。
 いまここにいるのは自分だけの意志だ。そうさせてくれたのも、このおかしらだった。

(あんたが斬っちまったので、わかったよ。あたしは、おやかたさまにまことに惚れていたんだね。かりそめではなかったようだ。あのひとが、死んでしまう。こともあろうにあんたと相討ちみたいになって死ぬらしいとは。恐ろしくて、悲しくてならぬ。)
(それは、御寮人さまもあたしと同じか、それよりずっと、なんだ。あたしのような者ですら、こんな風になってしまっている。御寮人さまが、ただで済むはずがない。)
「それがおわかりでなかったのか、おかしら様?」
「わかっておったわ。」
 コハルが薄く唇を開いて、呟いた。目は閉じたままだ。
「おかしら様!」
「……わかってはおったが、御寮人さまのお為じゃった。お許しいただかねば……いや、お許しはなくてもよい。儂にできる、最後のご奉……こ」
「しゃべらなくていい。わかった、わかったよ。きっと、御寮人さまもおわかりくださる。」
 小春は涙ながらに喋りかけるが、
(理屈では、とうにおわかりなのだろうが、それでも、わかられようかよ?)
とは知っている。ただ、いまはコハルを悲しませたくないし、その息をあやめが箱舘に戻るまでもたせたい。
(御寮人さまとご宰領さまの世を作るためには、おやかたさまのような脅威が残ってはならんかったのだ。)
(ご兄弟が並び立てば、志摩守さまの思う壺に落ちる。お城のなかでは、若いご宰領さまでは、結句、おやかたさまには勝てぬ。あの方こそはお父上と兄上によって、いずれ滅ぼされるやもしれぬ。)
(いま、ここでおやかたさまを消すしかなかったのだ。)
 小春もわかっている。いや、あの二人以外は、わかっている。あやめと十四郎だけが、冷厳な事実から目をそむけ、愛情からくるか細い希望にすがって、理想の温かい未来を思い描いているだけだ。
(お二人は、甘い。どこまでも、あれほどのことをなさってすら、お甘いままだった。夢を見ておられる。)
 小春は思わず、瀕死の冷たい手を握った、
(ですがなあ、……おかしらは、そのお甘い、おひとのよい御寮人さまが大好きであったのであろう? その御寮人さまのお夢に、賭けてみたくはなかったのか?)

 コハルは意識が遠くなったようだが、また声を振り絞った。
「あとは、……五の字を……仰げ。」
「次のおかしら様には、堺の五右衛門さんかい。聞いてはおきまするよ。だが、あんたの怪我が治るまでのことだね? 五右衛門さんも、さすがにあんたほどではない。」
 コハルは笑みを浮かべ、ようやく目を開けて、小春をみた。
「箱舘で、……御寮人さまのおそばは、……頼む。頼んだぞ……。」
(この仕事が終わればどこへでも行けというたが、やはり御寮人さまにお仕えしろ、と……いや、そうしてくれ、と頼まれたのか? おかしらさまが、あたしにものを頼まれるのか?)
「承知いたしました。御寮人さまに誠心、お仕えいたしまする。あたしも、あのお方が好きじゃからな。あんたが戻って来られたら、またご一緒にお仕えいたしましょうな。」
 コハルは頷いたようだ。口の中で、礼らしき言葉をつぶやく。また、目を閉じた。
(ああ、いかぬ。この人は死ぬ。)
(こんな土地で、物置などで、百地三太夫とも名乗った者が、人知れず死ぬのか!)
(いや、あたしらの稼業の者であれば、それこそ本望とでもいうのか?)
 小春の目からまた涙が噴き出した。コハルの手には未だぬくもりが失せてはいないが、心臓の鼓動は徐々に弱くなっていくらしいのが、血のめぐりでも知れた。

「コハル、死ぬな、コハル。」
 小春は、自然にあやめの声色を使った。あやめは間に合わない。であれば、死に行くおかしら様に、最愛のあやめの声を聞かせ、閉じられた目に姿を見せてやろうと思ったのだ。
「わたくしとの約束があろう? わたくしは、戦をやり遂げたぞ。惨たらしい目にも耐え、この蝦夷島の主の座に、想い人をつけてやれるまでになった。強うなったと思わぬかえ? さあ、帰ってきてくれ。一緒にまた暮らそう。……帰ってきてくれ!」
 コハルはまた、薄く唇を開けた。
「御寮人……さま?」
「……そう、あやめじゃ。コハル、帰ってきてくれや。お前はわたくしの大切な身内ぞ。お前に行かれてしもうては、……行かれてしもうては……」
 コハルの閉じた目から、涙が一筋流れ落ちた
(おかしらが、泣いている?)
 集まっていた何人かのコハルの手の者たちが、驚いた。
「……御用が、ありましてな。……大旦那さまの、……おいいつけで、しばらく……したら、堺に戻ってきまする。そんなお顔、……なさるな。せっかくの、かわいらしい……また、お話を……お聞かせ……くだされ……」
(堺?)
 コハルと呼ばれた者の頭の中には、堺にいた頃の自分と、少女時代のあやめとの会話が蘇っているのではないか。
「末の御寮人……さまは、お賢い。きっと……ご立派な商人になら……。お励みなされ。泣いては……お強くなられ……。」
「コハル、おおきにな、おおきにな。すぐに帰ってきてくれるなあ?」
 コハルはもう口がきけないようだ。笑顔を作ると、眠りに落ちた。

 夜が終わらぬうちに、コハルと呼ばれた者は息を引き取った。
 生まれながらに男でもなく女でもない、という厄介を背負った肉体を鍛え上げ、異常な技能を磨き、諸国の異能の者をかき集め育てて、史上に未曽有の組織を作り上げた。幾多の戦国大名に雇われた末に、今井宗久に恩義を受ける機会をもち、ここより今井家の使用人に身をやつして、宗久がいわば賭けを張った織田家にも奉仕した。
 百地三太夫という名が、あくまで伝説上のものとして残っている。ただし、忍者の統領・百地三太夫の伝説と、同時代の今井宗久や、ましては天下の外にあった蝦夷島を結びつける史料的な証拠などは、なにもない。
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