194 / 210
八の段 大団円 兇刃(二)
しおりを挟むその日の夕に、弟の蠣崎右衛門大夫正広から使いが来た。一献傾けつつ、腹蔵のない話がしたいのだという。
(きおったか。)
新三郎は、浪岡や秋田でよく聞かされた、陣ぶれの声を聞かされた気がして、目を閉じた。浪岡御所や檜山屋形で戦に駆り立てられるときと同じだ。
(おれは、安東侍従さまの戦がいつも、内心では厭だったな。)
浪岡御所で育った少年時代は、一人前の武家になるために必死だった。ただひたすらに、浪岡北畠氏に忠義を尽くすことに疑いがなかった。
(子供だった。)
(だが、懐かしい。戻りたいとすれば、あの元服の頃の自分にだな。)
その北畠氏の中での陰惨な一族の闘争に巻き込まれ、昨日までの仲間と殺し合い、かけがえのない人びとを喪っていったときに、いまの蠣崎新三郎になった気がする。
出仕先を本来の主家に代えてからは、その安東侍従家のために命を捨てていいなどと思えたことは一度もなかった。
(厳格な侍従さまの目を背中に受けながら、蝦夷者のおれは、いつも物狂いのように勇猛でなければならないのが、つらかった。)
(侍従さまは大恩ある主君で、浪岡北畠の人びとの次の師匠のようなものだった。あちらもおれに目をかけては下さったかもしれぬ。)
(だが、おれは、侍従さまのようにはなりたくなかった。すぐれた武将ではあったが、なにか欠けるところがおありだと感じていたからだ。)
(騙し討ちの道具につかわれたときに、これでは侍従さまこそが、親爺殿よりも武家として劣ると思った。)
(天正九年の戦で弟が死んだときに、はっきりわかった。これは、蝦夷島のおれたちのための戦ではない。おれは、おれたちのための戦がしたかった。他人の一族の争い、領地の切り取り合いに、もう命を張りたくはない。)
(あやめを召してからの蝦夷島での戦は、どんなにひどい合戦でも、おれのものだった。)
(親爺たちや十四郎を敵にまわしての戦いですら、結局はそうできた。侍従さまのための戦いにせずに済んだ。)
(あやめのおかげだったな。)
(これも、おれ自身の戦いにできるか? いまからも?)
欣然と諾する、という様子を作る。ただ、このたびの勝者たる弟の招きに応じて、はせ参じることはしない。自分からこの部屋に来い、とはいっておく。
膳をあつらえさせる、という返事がきた。
(お前は、そこがいかんのだ。焦っているのか。)
新三郎は、自分が上洛させてやったこともある弟を内心で叱った。
「酒を用意させた。」
夕近くなり、正広が侍女に膳を持ってこさせてあらわれたとき、大きめの瓶子を示した。大和で作られたという水のように澄んだ酒を注いでやり、まず自分が飲んで見せた。
右衛門大夫ももちろん膳にそれぞれの酒の銚子をつけていたが、兄の勧めを受けた。
「うまいな。納屋から持って来させた。」
「納屋……?」
右衛門大夫は意外な表情になる。箱舘の新政庁のプロデューサーともいえる箱舘納屋の今井あやめが、まだこの兄とつながっているのは不審である。
(訝しかろう。判然とせぬことが増えたのなら、今はあきらめてはどうだ?)
忠言してやりたい気がする。
酒は、見張りの者に持って来させたにすぎない。自分をどこかで見張っている納屋の者どもに向かって、明日、右衛門大夫が来るというから、馳走の酒を用意せよ、と空に向かって声をかけただけだ。すると、いつの間にか朝には、珍しい清酒が届けられていた。
右衛門大夫正広は馬鹿ではない。ただ、なににせよ今井と新三郎の仲が完全に切れたのではないならばないで、なおさらに十四郎のいぬ間に決行せねばとも思う。
「納屋の御寮人は、気分優れず、箱舘の店で臥せっているとか。」
「ほお。」
(そんなことはあるまい。あれは、松前の戦場にいたらしいからな。でなければ、あんな手紙を、元結などつけて……)
「兄上を裏切ったのですから、寝覚めも悪いでしょう。あわす顔もありますまい。」
「あれのことを悪しざまにいうな。」
新三郎が低い声でいったので、右衛門大夫は思わず震えた。
(兄上は敗軍の将。おれたちが勝ったのではないか。なぜ、気押される?)
「無礼いたした。」
「いや、よい。……父上のご様子は如何か。」
「お変わりありませぬ。」
「おれへのご沙汰は、十四郎めが帰ってからになるのだな。」
「ご沙汰もなにも、父上にそのようなお考えはありますまい。兄上は御嫡男で変わらぬ。」
「では、父上と政事でお話したきことがあるので、これより一同、書院に集まれ。」
「……」
「というて、聞けんじゃろう?」
新三郎は笑い、盃を干した。弟の差し出す酒を断り、自分の酒をつぐ。
「おたわぶれあるな。」
「酒の席ではないか、許せ。しかし、おれへのご処断なくては、おぬしらが困ろう? 恩賞などはどうなる。おれの側についた者どもは、かわいそうだが、それなりに処分がなければならぬ。そうでなければ、戦の始末がつかぬ。」
「左様ではございますが、死んだ者は知らず、生き残った敗軍の者より禄を取り上げても、同じその家の兄弟だかが、それを受け取るくらいのことでございますよ。同じ家で嫡男が入れ替わるくらいだ。」
「蠣崎の家でも左様にしたいだろう。」
「……」
「右衛門大夫、アイノの兵どもがいるな。あ奴らは、この勝ち戦で何を受け取る。おぬしらは、……いや、十四郎は、あやつらにどのような恩賞を授けるのか。」
「……兄上のご苛政から解き放たれてござる。」
「十四郎は、左様に騙してあれらを戦場まで連れてきたか。」
「いや、お言葉ではあるが、現に兄上が家中に知行地を分け与えられるや、アイノの村は困窮した。十四郎がなにを如何にいうておろうと、そこは事実。」
「おぬしらは、困窮とやらをその目でみたか? それほど蝦夷どもを気にかけたか?……まあよい。新しいやり方は、落ち着くまでには、時が要った。その前に、一揆を起こされてしもうた。おぬしらは、それに乗った。」
「兄上らしくもない。お見苦しうござるぞ。」
「儂の不徳は認めておる。ただな、おぬしらも欲をかかぬことだ。」
「欲?」
「儂に勝ったのは、十四郎じゃ。おぬしたちではなさそうだ。」
右衛門大夫は、それを聞いて、笑ってみせた。
「おっしゃるものだ、……負け惜しみを」
「ではあるまい。……おぬしらは、たれかに操られたとは思わぬか。自分の考えで、この地に拠り、蝦夷代官に立ち向かったか? 少し思い出してみよ。」
「いうにや及ぶ。戦続きの、兄上のご専制に耐えかねた。父にして蝦夷島最高の貴人たる志摩守さまに対して、ご不遜が過ぎた。」
やや激した様子の右衛門大夫定広を、新三郎は物憂げな眼でみた。
「それで、これほどの戦を、おぬしらは望んでやったか。弟がまた死んだ。奥と武蔵丸も、大筒の弾が落ちてきて死んだらしい。……おれが討ち取られるまで、今日もまだ戦は続いていたかもしれぬ。そこまで覚悟ができていたか? さでもあるまい。」
「……。」
「おれは、たれかにこの戦をまんまとやらされた気がするぞ。おぬしらは、どうじゃ?」
「それは、兄上が、檜山屋形様に……」
「左様なこと申しているのではないが、……まあよい、考えよ。儂も思案しなおすわ。……膳のものに、箸をつけてはどうか。」
「兄上こそ。」
「儂は、しばらくこれを飲む。」
兄弟は黙然として向かい合った。
「……いま少し、昔話でもできると思ったがな。」
「兄上は、ずっと浪岡などというところにおられた。その後も、秋田とこちらを行ったり来たりでございましたからな。恐縮ながら、共に語るほどの思い出もござらぬわ。」
「おれにはあるぞ。」
「……?」
「おぬしは、昔から高野山に参詣したがっていた。こちらに戻るたびにきかされた。抹香臭い奴じゃなと思うたのを覚えておるぞ。」
「……先年、宿願を果たした。兄上のおかげでござる。」
「上方はよいとして、高野山かと儂はあきれて、坊主になればよい、どこかの寺を父上にいただけ、というたら、お前は怒りよったのう。」
「当たり前だ、儂とて武家。ただ、儂ら蠣崎の者こそ。天下で蝦夷扱いされぬためには、学問にも詳しくなければなりますまい。」
「その通りじゃ。そのときも、お前はそう述べた。感心した覚えがあったぞ。」
「ありがたし。兄上こそ、北畠さまに仕込まれたご学問があるのは知っている。ただ、故右大臣さまに謁見を賜ったときも、……」
「その話はよいぞ。何度も聞かされたからな。……堺には行ったのであったか。」
「いや。」
そうか、と新三郎はまた酒を含んだ。
右衛門大夫はやや焦れたようだ。
「召し上がられぬか。」
「まだ、酒がある。」
「……御疑いならば、膳をとりかえさせましょうか?」
「疑うとは、なにを?」
「……。」
「のう、四郎。」
新三郎は、正広の昔の通り名で呼んだ。
「父上の代に、蠣崎は爾後、斯様な真似はせぬと決められた。それを破った者も出てしまったが、戦の後始末に薄暗い真似をするのだけは、父上もおれも何とか避けてきたぞ。おれは、そうした戦はしないと決めた。」
「だから、セナタイどもの首を残らずきれいに斬られたか。」
「お前は、あとで毒殺のほうがましだったというか? 左様でもあるまい。」
右衛門大夫は、快闊げに笑ってみせた。
「やはり、この儂が毒を盛ったと御疑いか。兄上はやはり戦に負けて、心弱っておられる。」
「……では、こちらの銚子とそちらを交換するか。」
「……」
「四郎。父上はおれを生かしてくれるおつもりのようだ。十四郎を抑えるためだな。おれを殺すと、叱られるぞ。」
「兄上は、謀反人ではないか。」
「違うな。父上には、謀反人もなにもない。ご自分の役に立つ者か、立たぬ者かよ。役立たずの十四郎は、いつの間にかお役に立つようになった。だからお迎えになった。ところが、もう御しかねるのが知れた。お役に立つばかりではない。あいつらの考えは、どうも父上の古いお考えとは違うようだ。そんなわけで、どうやらまた、おれがお入用らしい。」
「儂がいる。この儂こそが、父上のお考えを継げる。蝦夷の力を頼むだけの十四郎に、蠣崎のお家を任せるわけにはいかぬ。」
「右衛門大夫。悪いが、その役はおぬしではない。おぬしでは、これほどになった十四郎を抑えるわけにはいかぬ。儂の代わりは、おぬしにはつとまらんのだ。」
きさまっ、と激昂のままに右衛門大夫は立った。脇差を抜いている。そのまま斬りつけた。
新三郎は丸腰である。だが、身をかわした。その瞬間に、箸を弟の腿に深々と突き刺している。痛みに一瞬動きが止まった右衛門大夫の腕をとり、刀を叩き落とした。後ろに回り込み、首を腕で締め上げる。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる