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七の段 死闘 ふたり(二)
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今、というのは、哀れにも躰を恣に貪られて嘆いているだけのはずだったあやめに、その相手、新三郎への愛情が強くあるのを知った今、ということだ。
(おれの、あやめが、盗られた。)
はじめて強くそう感じた。
(全部、盗られた。)
あやめの心だけは奪われていないと確信していた。それが、その心までが、兄にはげしく傾いていたと悟ると、逆にあやめの肉体への生々しい喪失感に苛まれた。あのすべらかな肌が、暗闇で美しく輝く目が、囁く声が、可愛らしい仕草が、なやましい息遣いが、髪の匂いが、温かい秘部が、……。
(全部、おれのものだったのに。)
(いや、あやめみずから、兄上に捧げているのだ。心から喜んで……。)
(あやめは幸せだったのだ。)
(しかし、それはおれが、何よりも望んだことだったのではないのか? あのとき、あやめと離れるとき、別の人間との幸せをまことに祈ったはずなのに、……)
(おれは、おれは、やはり、どうしようもない人間だ……)
十四郎は自己嫌悪の諦念に落ち込んだが、その底でいつもと違ってさらに歯噛みさせたのは、こともあろうにあやめが、という思いだった。
(だが、あやめ、お前とて。お前のようなひとまでが、どうして……?)
十四郎はただ女に心変わりされた悲しみだけではない、もっと深い背信というべきものをあやめに感じていた。
(ついこの間まで、隠していた。おれは、お前のために兄上を殺す覚悟でいた。)
(有無をいわさず殺してしまうべきではない、と急に考えが変わったのは、あやめの根からの優しさゆえだと思っていた。なんという寛容なひとだろう。人が良すぎるではないかとすら思った。憎い仇相手ですら、殺したりなどできない根からの善い人なのだ、と。)
(なんのことはない、好きな男を死なせたくないだけだったのだ。)
(ぬけぬけといった。ずっとおれを慕っていた、といいおった。)
(兄上に抱かれながら、おれのことが想えたか? それは嘘だ、あやめ。)
(お前だけは、あやめだけは、正しいと信じていた。おれは、あやめほど尊ぶべき心の持ち主を知らぬと思っていた。たとえ男に弄ばれても、心の美しさは動かない。謀叛のたくらみをもっても、それはおれなんぞのためだけではない、蝦夷島のためを思ってでもあった。おれと慕いあっている女は、どこまでも正しいひとだと思っていた。それなのに……)
(此度のお前の気持ちも、おれにはわからぬだけで、正しいというのか?)
あやめは十四郎の目にも、うっすらと涙が浮かんでいるのに気づいた。
(十四郎さま! 申し訳ありませぬ。死んでお詫びいたします……っ!)
十四郎は、あやめが聞いたことのない、喉にからんだような声を出した。
「おれは、あやめを誰よりもいとしく、大切だと思っている。」
「わたくしも、……わたくしもっ!」
「信じる。有り難い。左様だろう。」
十四郎は、ようやく少し笑んだ。だが、その笑いにあやめはぞっとする。自分がコハルなどから嫌がられていたのは、この笑みなのだろうと気づいた。
「少しも疑っていない。あやめはまことに、よくしてくれた。おれなど、あやめがそうしようとおもえば、いつ見捨てられてもおかしくなかった。いや、最初にポモールの村に行ってしまったときから、見限られて当然。兄上の罪も、もとはといえば、おれのせいだ。おれでも、側にいさえすれば、……少なくとも、どこかで生きていると兄上がご存じであったならば、そんな無法を、あえてされなかったかもしれぬ。……無法。あやめ、そなたはそれに耐えて、あのあと、よく、ヨイチまで来ておれに会ってくれた。」
「申し訳ございませぬ。あやめは、不貞を犯しております。もしよろしければ、どうか」
「成敗などせんよ。できるものか。」
(ああ、殺して……!)
あやめは叫びそうになったが、十四郎の言葉に衝撃を受け、凍りつく。
「……むごいことを重ねていう。最初は無理無体の力づくであったのに、その相手がいとおしうなってしまった、心より慕っておると。こういうわけだな。しかし、それは、女ごには、まことにあることなのか。そんなものは大抵、男の虫のよい妄念じゃろう。戦働きで女人にまで不埒な振る舞いをする、足軽雑兵あたりの吹く悪い法螺じゃ。仇だろうと何だろうと、抱かれればうれしうなる? そんな馬鹿げた話が本当にあろうか?」
(あやめ、可哀想に。おれは、おれは何をいっている?)
あやめの、伏せた肩が一層落ちたのを見て、憐みと悔いと自己嫌悪に充ちながらも、十四郎は妙に淡々とした口調で続けてしまう。
「ただ女には、われとわが身を守るために、そう思い込まねばならぬときがあるのかもしれん、とは思う。好きだとでも思わねば、とても耐えられぬと。だが、……」
あやめは伏せた顔をあげて、あくあくと口を開けた。脂汗が流れ、全身が震え切っている。
「だが、あやめは違うのだな? まことに心より、なずんだ。その後も、ひどいことをされ続けながら……? おれには、それがどうもわからない。」
「……お許しください。ああ、やめてたも……やめて……」
「ことに、そなたのような気高い者が、誇りを踏みにじった、その同じ男に、身も心も……」
「やめてえっ!」
あやめは絶叫した。
隣室でご坊たちが立ち上がる音がする。別のところで、同じく複数の影が動いた。気配で互いを威嚇しあう。
互いの主人を守るために、飛びかからんばかりだ。命じられれば、斬り合いをするだろう。
あやめと十四郎の二人が、正対して闘う形になっている。
「下がれ。大過ない。」
二人が同時に声に出して命じた。気配が消える。
互いに目を落とし、二人とも、荒い息をしばらくつくばかりだった。
(おれの、あやめが、盗られた。)
はじめて強くそう感じた。
(全部、盗られた。)
あやめの心だけは奪われていないと確信していた。それが、その心までが、兄にはげしく傾いていたと悟ると、逆にあやめの肉体への生々しい喪失感に苛まれた。あのすべらかな肌が、暗闇で美しく輝く目が、囁く声が、可愛らしい仕草が、なやましい息遣いが、髪の匂いが、温かい秘部が、……。
(全部、おれのものだったのに。)
(いや、あやめみずから、兄上に捧げているのだ。心から喜んで……。)
(あやめは幸せだったのだ。)
(しかし、それはおれが、何よりも望んだことだったのではないのか? あのとき、あやめと離れるとき、別の人間との幸せをまことに祈ったはずなのに、……)
(おれは、おれは、やはり、どうしようもない人間だ……)
十四郎は自己嫌悪の諦念に落ち込んだが、その底でいつもと違ってさらに歯噛みさせたのは、こともあろうにあやめが、という思いだった。
(だが、あやめ、お前とて。お前のようなひとまでが、どうして……?)
十四郎はただ女に心変わりされた悲しみだけではない、もっと深い背信というべきものをあやめに感じていた。
(ついこの間まで、隠していた。おれは、お前のために兄上を殺す覚悟でいた。)
(有無をいわさず殺してしまうべきではない、と急に考えが変わったのは、あやめの根からの優しさゆえだと思っていた。なんという寛容なひとだろう。人が良すぎるではないかとすら思った。憎い仇相手ですら、殺したりなどできない根からの善い人なのだ、と。)
(なんのことはない、好きな男を死なせたくないだけだったのだ。)
(ぬけぬけといった。ずっとおれを慕っていた、といいおった。)
(兄上に抱かれながら、おれのことが想えたか? それは嘘だ、あやめ。)
(お前だけは、あやめだけは、正しいと信じていた。おれは、あやめほど尊ぶべき心の持ち主を知らぬと思っていた。たとえ男に弄ばれても、心の美しさは動かない。謀叛のたくらみをもっても、それはおれなんぞのためだけではない、蝦夷島のためを思ってでもあった。おれと慕いあっている女は、どこまでも正しいひとだと思っていた。それなのに……)
(此度のお前の気持ちも、おれにはわからぬだけで、正しいというのか?)
あやめは十四郎の目にも、うっすらと涙が浮かんでいるのに気づいた。
(十四郎さま! 申し訳ありませぬ。死んでお詫びいたします……っ!)
十四郎は、あやめが聞いたことのない、喉にからんだような声を出した。
「おれは、あやめを誰よりもいとしく、大切だと思っている。」
「わたくしも、……わたくしもっ!」
「信じる。有り難い。左様だろう。」
十四郎は、ようやく少し笑んだ。だが、その笑いにあやめはぞっとする。自分がコハルなどから嫌がられていたのは、この笑みなのだろうと気づいた。
「少しも疑っていない。あやめはまことに、よくしてくれた。おれなど、あやめがそうしようとおもえば、いつ見捨てられてもおかしくなかった。いや、最初にポモールの村に行ってしまったときから、見限られて当然。兄上の罪も、もとはといえば、おれのせいだ。おれでも、側にいさえすれば、……少なくとも、どこかで生きていると兄上がご存じであったならば、そんな無法を、あえてされなかったかもしれぬ。……無法。あやめ、そなたはそれに耐えて、あのあと、よく、ヨイチまで来ておれに会ってくれた。」
「申し訳ございませぬ。あやめは、不貞を犯しております。もしよろしければ、どうか」
「成敗などせんよ。できるものか。」
(ああ、殺して……!)
あやめは叫びそうになったが、十四郎の言葉に衝撃を受け、凍りつく。
「……むごいことを重ねていう。最初は無理無体の力づくであったのに、その相手がいとおしうなってしまった、心より慕っておると。こういうわけだな。しかし、それは、女ごには、まことにあることなのか。そんなものは大抵、男の虫のよい妄念じゃろう。戦働きで女人にまで不埒な振る舞いをする、足軽雑兵あたりの吹く悪い法螺じゃ。仇だろうと何だろうと、抱かれればうれしうなる? そんな馬鹿げた話が本当にあろうか?」
(あやめ、可哀想に。おれは、おれは何をいっている?)
あやめの、伏せた肩が一層落ちたのを見て、憐みと悔いと自己嫌悪に充ちながらも、十四郎は妙に淡々とした口調で続けてしまう。
「ただ女には、われとわが身を守るために、そう思い込まねばならぬときがあるのかもしれん、とは思う。好きだとでも思わねば、とても耐えられぬと。だが、……」
あやめは伏せた顔をあげて、あくあくと口を開けた。脂汗が流れ、全身が震え切っている。
「だが、あやめは違うのだな? まことに心より、なずんだ。その後も、ひどいことをされ続けながら……? おれには、それがどうもわからない。」
「……お許しください。ああ、やめてたも……やめて……」
「ことに、そなたのような気高い者が、誇りを踏みにじった、その同じ男に、身も心も……」
「やめてえっ!」
あやめは絶叫した。
隣室でご坊たちが立ち上がる音がする。別のところで、同じく複数の影が動いた。気配で互いを威嚇しあう。
互いの主人を守るために、飛びかからんばかりだ。命じられれば、斬り合いをするだろう。
あやめと十四郎の二人が、正対して闘う形になっている。
「下がれ。大過ない。」
二人が同時に声に出して命じた。気配が消える。
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