えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
181 / 210

七の段 死闘  ふたり(一)

しおりを挟む
(いつからだったろう? 最初から? そうではなかった。)
 
 十四郎は、自分にそっくりなソヒィアに最初に面会したときの衝撃を思い出した。あの、雷に打たれたような思いは、ひとめぼれとひとが呼ぶようなものに、きわめて近いのだろう。
 あやめとの仲が深まっていたから、それきりだったが、初対面の衝撃だけは躰の深くに残っていた。その後、ソヒィアと一度だけ躰を交えた時、そして彼女を怒りのあまり斬り捨てた時にのみ、それはまざまざと蘇った。
(アシリレラのやつも、よくそんなことをいいおる。最初に出会ったときに、このひとと結婚すると思った、などと。あの子は、ほんとうに幼童だったくせに。)
 
 納屋の御寮人は、大舘ではじめてみたときには、そんなに美しいとも思わなかった。妙に生白い化粧をした、痩せた、都会の騒々しい女だとしか思わなかった。
(しかも、おれのいちばん厭な、顔のことをずけずけといいおって……)
 与三郎兄が、大事なことだといって鉄砲入手のあたりをつけさせに自分を納屋に差し向けた時も、あの弁の立つ女に会うのは気が進まなかった。
 ただ、納屋の店の連中とは、すぐに心安くなれた。あの堺のひとたちは異国人にも慣れ、開放的だったからだろう。だから納屋通いが続いた。
 そのうちに、納屋の女主人と話ができるようになった。頭はまわるらしいが、変わったひとだと思っていた。蝦夷地でエコリシチ翁からひょんなことで白磁を託されたのも、広い世間には面白いめぐり合わせがあるものだ、というくらいで、別に自分と年上の女との縁などとは少しも思わなかった。
 それを渡したとき、目の前で、あやめがぼろぼろと涙を落として大声で泣き出したときには驚いた。
(ああ、あのときからだな。可愛らしい、綺麗な女だと思いだしたのは。また話したい、と別れるたびに気づいたのは。)
(エコリシチ翁はどうも、ひと違いをしているらしい。だが、あやめにはいうまい。おれとの縁だとも思ってくれているのだから……)
 それからは、楽しかった。十四郎のここまでの人生で、なんの屈託もなく毎日を浮き立つ気分で過ごせたのは、この頃だけだと思える。
 あやめが姉みたいに振る舞ってくれるのが、女の肉親との縁が薄い自分にはうれしく、懐かしかった。あやめと冗談をいいあい、ふと互いの淡い好意を探るような言葉を交わして、それきりまた、埒もない冗談や他愛もない遊びに戻る。ときに、家中のたれにも喋ったことのない秘密の心持ちを、さりげなさ気に打ち明け合う。そうやって、河原の小石を積みあうように、好意と信頼を互いのなかに少しずつ蓄えていく。そんなことを、いつまでも続けていけるように思えた。
 与三郎兄の表情が硬く、暗くなり、いざというときにはおれが何とかしてやる、お前は侍らしく嘘偽りのない態度でただおれよ、まことに知らんでよいことは知らんのだから、としきりに説くようになったときから、自分はあやめという女が好きなのだと気づいた。
 自分はもしかするといずれ腹を切るのかもしれないが、誰よりもそれに泣いてくれそうなひと。同時に、自分が誰よりも泣かせたくないひと。それが納屋の御寮人だった。
 それなのに、ひそかにくりかえした妄想の中の行為では、あやめを痛がって泣かせていた。具体性の乏しい、想像の中のあやめの躰に、餓え続けた。それまでの、不特定の女への性的な妄想とは違うものがそこにあった。肉体の昂奮から醒めても、罪悪感をおぼえながら、餓えは絶えなかった。あやめに会いたかった。一度だけ偶然に握った手の感触が、貴重なものにおぼえて、何度も頭の中で反芻した。
 与三郎兄から、急ぎ鉄砲を手にいれておけといわれて焦ったために掴まされた偽物の鉄砲を納屋でみせたとき、あやめが親身になってくれたのが、涙がこぼれるほど嬉しかった。ここに、おれのことを案じてくれる女がいる。おそらく、おれを愛おしいと感じてくれているのだろう。だが、
(もう会えなくなるのだろう。)
と思った時に、腹を切るのを想像するよりも、悲壮な気持ちに打たれていた。
(遅かった。御寮人殿。出会うのも、自分の気持ちに気づくのも、我らは、遅すぎたようだ。)
 帰路の暗い道で、頭の中だけであやめに呼びかけていた。
 
 与三郎兄が突然、切腹した衝撃で、自分は腑抜けのようになったと思える。なにも考えられず、ただ流されていた。吟味のときにも、うまく切り抜けたつもりはない。それほどのことを、本当に知らされていなかったのだ。
 もしも大舘が与三郎の遺志を汲み、ことを適当に収めるつもりだったとすれば、あのときはたしかに、むしろ納屋のあやめこそが(コハルに命じて)余計な細工をして、自分を後戻りできない流れに落とし、重ねての罰に追い込んだのかもしれない。
 だが、あやめは知りようもなく、ただ自分のためにしてくれたのだ。そのとき自分は何も考えなかったのだから、何が起きようと一緒のことだったろう。首を斬られる羽目になっても、自分は抵抗も何もできなかったに違いない。すべてに抗しようとする気力も失せていた。

 そんなところに、あやめが飛び込んできてくれた。温かく、柔らかい、香りたつ躰ごと、すべてを賭けて、抱きついてきてくれた。
 このひとのためを考えよう、という自制心は、あやめの髪の匂いを知ったとたんに、いっぺんに押し流された。無我夢中で貪ったあやめの躰は、想像のどれとも違っていた。はじめて現実に差し出された、どこまでも豊かで甘美な謎。それを懸命に解いていく思いだった。
 肉体のひとときの陶酔が過ぎたのち、あやめの情けがあらためて、痛いほどだった。この自分などが欲しくて、泣いてくれる女がいるのだ。
 ひとりの女にこれほど大切に思われているのが、うれしくてたまらなかった。生きていようと思えるようになった。
 想像のとおり、初めての行為ではひどく痛がって困惑していた女と、その女の躰の前でおよそ無力に思えた自分が、その後、未知のものを互いに不器用に探り合っていった。そのことに夢中になった。本能に導かれただけの粘膜の接触以上に、ひとと愛しみあっているという、それが無上の快楽だった。心をあわせて睦みあうため、肉体の行為をともにする。それを重ねるごとに、相手は一層かけがえがない存在になっていった。躰の刺激を工夫するたびに、女は、こちらの思いもよらぬ表情を浮かべ、意外な言葉や声を漏らす。そのとき、女の心の知らなかった新しい場所が見える気がした。それらがすべて愛おしかった。女の表情や声が、記憶の中に入りこんで、反芻するうちに自分の一部になっていった。
 あやめのいうことは、なんでも聴くべきだと信じた。相手が自分に堺で商人になれというのだから、そうしよう、よい商人になろうと心から思った。そうでないと、あやめと一緒にいられないからではない。それであやめが喜んでくれるのであれば、それが正しい。あやめの望みが自分の望みで、それ以外はもうないのだと信じていた。

(ポモール……!)
 あれが、自分にはあやめと共有できない望みがあるのだとわからせてしまった。
 あやめと生まれた時からずっと一緒の自分を妄想したほどだったが、それでも、あまり覚えてもいない母の顔をソヒィアの顔に重ねて、生々しい懐かしさに身悶えした。
 あやめとともにいた時間にはあれほどの気持ちの平穏を覚えていたのに、あやめの側にではなく、ポモールの村に自分の居場所があったのかもしれないと思った。薄倖だった亡母を裏切って、自分の新しい幸せを追うなどできぬ、という思いに囚われていった。
 あのときの自分を、十四郎はその後、何度となく責めた。あやめが流し続けた苦しい涙を思い、とりかえしがつかないと悔いた。自分はもう死ぬのだから、許してほしいという思いにだけすがったが、死ぬわけにはいかなかった。
 それどころか、自分のしたことは何もかもが無駄で、有害なだけだったかもしれない。
 村は、最も無惨な形で滅びたではないか。ひと目で惹かれ、そしてただ一人だけ知る同族の女になってくれたソヒィアを、この手で斬り殺す羽目になった。ソヒィアがどんなに病苦のつらさや切支丹ゆえの自害の不可能を訴えていたところで、だから殺してやったのだ、相手もたしかにいまわのきわに喜んだなどとは、いまだに思えない。自分もここで確実に死ぬのだから、という思いが、無理心中のような殺害を衝動的におこなわせたのだとわかる。なんという卑劣だろう。
(兄上は女を犯したが、おれはといえば、女の命を奪った。)
(いや、兄上が無理やりに犯した女は、おれが振り捨てて、泣かせた女だ。)
(その女が許してくれたのをいいことに、おれは暢気に、いずれすぐによりを戻せるつもりで、またあてどもなく山丹に渡ってしまった。その間に、あやめは災難に遭ったのではないか。)

 あやめが新三郎の側妾にされていると聞いたとき、十四郎は自分に相応しい罰が与えられたと思った。ただ、自分の過ちの犠牲になったあやめが、ひたすらに哀れだった。罪もないあやめの心が無惨に壊れている様を目の前にして、そこからはじめて怒りが湧いた。あやめの切なる願いをかなえてやるためには、その怒りは必要だった。
 だが、それはあやめの気持ちに本当に寄り添ったものだっただろうか、と思い返すと、いまになって、そうではないのがわかる。
 ようやく、こんな自分にまたすべきことが与えられた。可哀相なあやめが喜んでくれる。いくらかでも、とりかえしのつかない背信の罪が拭えているのかもしれない。
 定型を崩した長い文章を山ほど書き送ったのも、あやめがそれで喜んでくれるという以上に、自分のためだった。何通かは、遺書としてあやめが受け取ってくれれば、と思って書いた。自分がアイノの敵兵に討たれてしまっても、あやめの中で生き続けるのを期待していた。
 蝦夷地で戦いつづけたとき、大義というほどのものは感じていない。アイノのために義憤にかられたわけではなかった。和人に脅かされる人びとと自分とが、きれいに重なるように思えたくらいだった。和人と同じ黄色い肌と黒い髪をもつかれらが蝦夷として追い立てられていくことになれば、滅びてしまった異人の部族の姿かたちをとどめた自分などは、とても和人たちにまともに扱われまい。そして、蝦夷地にも荒々しい風は吹き始めていたから、アイノの人びとの望む役割を果たさなければ、ここですら居場所を喪うだろう。その程度のことだった。十四郎の闇雲な行動に、あやめが大義の衣をかぶせてくれただけだ。
(結句、自分のためだった。すべて、自分のことばかりだった。今になってわかる。)
(今……!)

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王になりたかった男【不老不死伝説と明智光秀】

野松 彦秋
歴史・時代
妻木煕子(ツマキヒロコ)は親が決めた許嫁明智十兵衛(後の光秀)と10年ぶりに会い、目を疑う。 子供の時、自分よりかなり年上であった筈の従兄(十兵衛)の容姿は、10年前と同じであった。 見た目は自分と同じぐらいの歳に見えるのである。 過去の思い出を思い出しながら会話をするが、何処か嚙み合わない。 ヒロコの中に一つの疑惑が生まれる。今自分の前にいる男は、自分が知っている十兵衛なのか? 十兵衛に知られない様に、彼の行動を監視し、調べる中で彼女は驚きの真実を知る。 真実を知った上で、彼女が取った行動、決断で二人の人生が動き出す。 若き日の明智光秀とその妻煕子との馴れ初めからはじまり、二人三脚で戦乱の世を駆け巡る。 天下の裏切り者明智光秀と徐福伝説、八百比丘尼の伝説を繋ぐ物語。

高遠の翁の物語

本広 昌
歴史・時代
時は戦国、信州諏方郡を支配する諏方惣領家が敵に滅ぼされた。伊那郡神党の盟主、高遠の諏方頼継は敵に寝返ったと噂されるも、実際は、普通に援軍に来ただけだった。 頼継の父と祖父が昔、惣領家に対して激しく反抗したことがあったため、なにかと誤解を受けてしまう。今回もそうなってしまった。 敵の諏方侵略は突発的だった。頼継の援軍も諏方郡入りが早すぎた。両者は何故、予想以上に早く来れたのか? 事情はまるで違った。 しかし滅亡の裏には、憎むべき黒幕がいた。 惣領家家族のうち、ひとりだけ逃走に成功した齢十一歳の姫君を、頼継は、ひょんなことから保護した。それからの頼継は、惣領家の再興に全てを捧げていく。 頼継は豪傑でもなければ知将でもない。どちらなといえば、その辺の凡将だろう。 それでも、か弱くも最後の建御名方命直血の影響力をもつ姫君や、天才的頭脳とずば抜けた勇敢さを持ち合わせた姐御ら、多くの協力者とともに戦っていく。 伝統深き大企業のように強大な敵国と、頼継に寝返りの濡れ衣を着せた黒幕が共謀した惣領家滅亡問題。中小企業程度の戦力しか持たない頼継は、惣領家への忠義と諏方信仰を守るため、そしてなによりこの二つの象徴たる若き姫の幸せのため、死に物狂いにこの戦いに挑んでいく。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

改造空母機動艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。  そして、昭和一六年一二月。  日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。  「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

戦神の星・武神の翼 ~ もしも日本に2000馬力エンジンが最初からあったなら

もろこし
歴史・時代
架空戦記ファンが一生に一度は思うこと。 『もし日本に最初から2000馬力エンジンがあったなら……』 よろしい。ならば作りましょう! 史実では中途半端な馬力だった『火星エンジン』を太平洋戦争前に2000馬力エンジンとして登場させます。そのために達成すべき課題を一つ一つ潰していく開発ストーリーをお送りします。 そして火星エンジンと言えば、皆さんもうお分かりですね。はい『一式陸攻』の運命も大きく変わります。 しかも史実より遙かに強力になって、さらに1年早く登場します。それは戦争そのものにも大きな影響を与えていきます。 え?火星エンジンなら『雷電』だろうって?そんなヒコーキ知りませんw お楽しみください。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

処理中です...