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七の段 死闘 激突(四)
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函館から松前まで、一日がかりであればよい方であろう。日が沈めば待つ。松前湊の沖に、ちょうど夜明けとともにつくように、老練の船頭は目まぐるしい計算を働かせながら、この大船を操ってくれたにちがいない。
新三郎が中野館に入ったのと、あやめを乗せた今井の半軍船が松前湊の沖を番犬のように回りだしたのが、ほぼ同時であったことになる。
朝の光を徐々にうけて、巽のほうから大小の無数とも思える船影が近づいてくるのを、歯の根が合わぬ思いで、船上のあやめは見つめていた。
「間違って狙われてはならぬ。逃げましょうぞ。」
船頭が風の中で突っ立っている、納屋の御寮人に声をかけた。
「船のうえでは、すべて任せる。ただ、この旗を掲げておけば、むしろ近づいたほうが同士討ちはされまい。」
「見えまするかの。」
旗は、十四郎の旗印であった。あやめが作ってやったものだ。意匠の由来は聞いているし、その使い方も胸に入った。
(これは、今より戦う、あのご兄弟の絆。)
(おやかたさまは、十四郎さまを諭された。おのれの器量と天命に従え、と。)
(最後にお見送りされたときに……。)
(わたくしは、それすらもなにかさがわる(意地悪)のようにしか思えなかった。十四郎さまはお気づきだったのか。)
虎に翼、は大陸で好まれる意匠だろう。飛虎旗と呼ばれる。十四郎はポモールの本拠を探す旅の途上で、飛虎旗をみることがあり、兄の言葉にあらためて思い当たったのかもしれない。
(しかし、おそろしい絆。壬申の乱では、じつは亡くなった兄君の帝と弟君の帝とが戦ったともいえる。そして、弟君の天武さまがお勝ちになった。おやかたさまは、やれるものならおれを倒してしまえ、とおっしゃったも同然ではないか。そして、十四郎さまもそれを承けた。)
「船が、あれほども。」
和船、蝦夷船あわせて百隻はいるか。水軍規模ともいえる。現に瀬戸内あたりで暴れていた水軍の連中がはるばるコハルに連れてこられて加わっており、もしも海戦となれば焙烙などの火器を用いて戦い、陸兵の上陸を援護する予定だという。
ただ、臨検の船が出てくる気配も、湊で眠っていた船が動き出す気配も、今のところはない。
(運上所の役人はもう逃げたのか?)
逃げるがよい、とあやめは思ったが、さすがに湊を警固する者たちの小舟が出た。しかし、おそらくは主将の船を探してうろうろとする間に、それを無視して、手漕ぎの蝦夷船すらも湊にするすると入っていく。
(陸にあがるさいの戦いが、なかった……?)
あやめは信じられない。蠣崎の精鋭の大半は新三郎が連れて出たとはいえ、松前にはなお守備兵がいる。数十ではきかぬ秋田兵もこれに加わって、おそらくは関の守備についているだろう。そこからも船影はみえたはずである。ところが。ここからかすかにみえる松前大舘も、灯りもつかず、眠ったように動きがみえない。
(あれは、十四郎さまの船?)
ひときわ大きな、元は今井の持ち船である軍船が、臨検の役人たちの小舟の側でとまった。
すぐのちに知ったが、このとき、十四郎本人が顔を見せた。
「志州さま御用で参った。湊に入る。」
このとき、名の伝わっていない役人のほうにむしろ骨があった。談判の末に、止められぬと知ると、その場で一番の上司であった男が責任をとって腹を切り、あとは捕縛についた。
ただ、この瞬間に大舘やその他の守備隊に出動を要請する機関が消滅し、上陸の成功が保証された。
十四郎の軍の最大の幸運は、ここにあっただろう。奇襲とはいえ、相当の出血があるはずの上陸が、ほぼ無抵抗のうちに完了したのである。
(秋田の兵の、存外の怠けぶりよ)
としかいえないが、かれらが何ものとどう戦うのかも知らされず、現地での主将に置き去りにされて不案内な土地で警備任務にまわっている外国兵だというのは、理解してやらねばならないかもしれない。
怠慢と油断をいわれるならば、むしろ大舘の留守居役の者たちであろう。湊の守りは、臨戦態勢にはまったくなかった。それは、十四郎が読み、あやめの使う者たちが探り当てて伝えていたことだった。
朝の早い松前の住民が、もっとも敏感に対応している。すなわち、着の身着のままで大舘に逃げ込もうと殺到したのである。
十四郎の軍は、それを追いかける形になった。住民の殺戮が目的ではない。大舘に向かい直進する兵と、東の関の守備隊をまず叩く兵に分かれ、整然と市内に展開する。
そのなかに、和人は少ない。背の高さがまちまちなアイノの影が、小さな集団を組んで市街を走った。
上陸後、ただちに運上所の建物を抑えた十四郎は、巨大な荷物を荷揚げさせている。運上所の役人は、無抵抗のまま、むしろその荷揚げの作業に加わりかねない態度であったという。
「蠣崎十四郎が松前の陸を踏んだ途端に勝敗は決した。」
などといわれるのは、この戦いが蠣崎家の内戦であり、クー・デターの側面をもつのを強調した言い方で、必ずしも正確ではない。だが、その一面はたしかに強く、蠣崎の侍である役人たちは、少なくとも当座は松前の新しい支配者になるのであろう十四郎に従順であった。新三郎がいないとき、大舘もその兵も、強い意思を欠いていたのはたしかであったようだ。
「あらかた兵があがった。近づきましょう。」
「頼む。」
そのときであった。ついに海風を破って、銃声があやめの耳に届いたのは。
「始まりました。」
あやめに着いていてくれるのは、僧兵くずれらしい僧形の大男であった。ご坊、とあやめは呼んでいる。こうした稼業の者だから、最初に「ご坊、なんとお呼びすれば」と尋ねかけると、ではそうお呼びください、と簡単にいったのである。
「ご坊、あれは東か。」
「左様ですな。手薄な東の関をまずわが手に収める。松前に蓋をしてしまわれるのでしょう。」
(時間稼ぎがその分、できる。おやかたさまにすぐに戻られないためだ。)
ほどなくして、喊声のようなものが別の方角でもあがった。銃声はあきらかである。
「西?」
「手早し。もう秋田の兵に、我が兵が襲いかかったとみえる。」
「十四郎さまは?」
「直進。大舘を攻められる。その御準備でござろう。」
「大舘を……!」
(皆さまにご加護を……)
あやめは、自分に係る敵味方のあらゆる人々の無事を祈った。なにに祈願すればよいかはわからぬ。あやめが最も愛着するといっていい松前のあの法源寺は禅寺だったのを思いだして、釈迦仏を唱えたが、それだけでは足りない気がした。闇雲な祈りに相応しい神仏の名も思いつかない。
(蝦夷島そのものが神ならば、……)
あやめは目を閉じ、陸に向けて訴えた。
(あなたが生んだ人たちを、どうか守ってあげてくださいませ。余所者のわたくしの命に代えて、あなたのお子らを……!)
新三郎が中野館に入ったのと、あやめを乗せた今井の半軍船が松前湊の沖を番犬のように回りだしたのが、ほぼ同時であったことになる。
朝の光を徐々にうけて、巽のほうから大小の無数とも思える船影が近づいてくるのを、歯の根が合わぬ思いで、船上のあやめは見つめていた。
「間違って狙われてはならぬ。逃げましょうぞ。」
船頭が風の中で突っ立っている、納屋の御寮人に声をかけた。
「船のうえでは、すべて任せる。ただ、この旗を掲げておけば、むしろ近づいたほうが同士討ちはされまい。」
「見えまするかの。」
旗は、十四郎の旗印であった。あやめが作ってやったものだ。意匠の由来は聞いているし、その使い方も胸に入った。
(これは、今より戦う、あのご兄弟の絆。)
(おやかたさまは、十四郎さまを諭された。おのれの器量と天命に従え、と。)
(最後にお見送りされたときに……。)
(わたくしは、それすらもなにかさがわる(意地悪)のようにしか思えなかった。十四郎さまはお気づきだったのか。)
虎に翼、は大陸で好まれる意匠だろう。飛虎旗と呼ばれる。十四郎はポモールの本拠を探す旅の途上で、飛虎旗をみることがあり、兄の言葉にあらためて思い当たったのかもしれない。
(しかし、おそろしい絆。壬申の乱では、じつは亡くなった兄君の帝と弟君の帝とが戦ったともいえる。そして、弟君の天武さまがお勝ちになった。おやかたさまは、やれるものならおれを倒してしまえ、とおっしゃったも同然ではないか。そして、十四郎さまもそれを承けた。)
「船が、あれほども。」
和船、蝦夷船あわせて百隻はいるか。水軍規模ともいえる。現に瀬戸内あたりで暴れていた水軍の連中がはるばるコハルに連れてこられて加わっており、もしも海戦となれば焙烙などの火器を用いて戦い、陸兵の上陸を援護する予定だという。
ただ、臨検の船が出てくる気配も、湊で眠っていた船が動き出す気配も、今のところはない。
(運上所の役人はもう逃げたのか?)
逃げるがよい、とあやめは思ったが、さすがに湊を警固する者たちの小舟が出た。しかし、おそらくは主将の船を探してうろうろとする間に、それを無視して、手漕ぎの蝦夷船すらも湊にするすると入っていく。
(陸にあがるさいの戦いが、なかった……?)
あやめは信じられない。蠣崎の精鋭の大半は新三郎が連れて出たとはいえ、松前にはなお守備兵がいる。数十ではきかぬ秋田兵もこれに加わって、おそらくは関の守備についているだろう。そこからも船影はみえたはずである。ところが。ここからかすかにみえる松前大舘も、灯りもつかず、眠ったように動きがみえない。
(あれは、十四郎さまの船?)
ひときわ大きな、元は今井の持ち船である軍船が、臨検の役人たちの小舟の側でとまった。
すぐのちに知ったが、このとき、十四郎本人が顔を見せた。
「志州さま御用で参った。湊に入る。」
このとき、名の伝わっていない役人のほうにむしろ骨があった。談判の末に、止められぬと知ると、その場で一番の上司であった男が責任をとって腹を切り、あとは捕縛についた。
ただ、この瞬間に大舘やその他の守備隊に出動を要請する機関が消滅し、上陸の成功が保証された。
十四郎の軍の最大の幸運は、ここにあっただろう。奇襲とはいえ、相当の出血があるはずの上陸が、ほぼ無抵抗のうちに完了したのである。
(秋田の兵の、存外の怠けぶりよ)
としかいえないが、かれらが何ものとどう戦うのかも知らされず、現地での主将に置き去りにされて不案内な土地で警備任務にまわっている外国兵だというのは、理解してやらねばならないかもしれない。
怠慢と油断をいわれるならば、むしろ大舘の留守居役の者たちであろう。湊の守りは、臨戦態勢にはまったくなかった。それは、十四郎が読み、あやめの使う者たちが探り当てて伝えていたことだった。
朝の早い松前の住民が、もっとも敏感に対応している。すなわち、着の身着のままで大舘に逃げ込もうと殺到したのである。
十四郎の軍は、それを追いかける形になった。住民の殺戮が目的ではない。大舘に向かい直進する兵と、東の関の守備隊をまず叩く兵に分かれ、整然と市内に展開する。
そのなかに、和人は少ない。背の高さがまちまちなアイノの影が、小さな集団を組んで市街を走った。
上陸後、ただちに運上所の建物を抑えた十四郎は、巨大な荷物を荷揚げさせている。運上所の役人は、無抵抗のまま、むしろその荷揚げの作業に加わりかねない態度であったという。
「蠣崎十四郎が松前の陸を踏んだ途端に勝敗は決した。」
などといわれるのは、この戦いが蠣崎家の内戦であり、クー・デターの側面をもつのを強調した言い方で、必ずしも正確ではない。だが、その一面はたしかに強く、蠣崎の侍である役人たちは、少なくとも当座は松前の新しい支配者になるのであろう十四郎に従順であった。新三郎がいないとき、大舘もその兵も、強い意思を欠いていたのはたしかであったようだ。
「あらかた兵があがった。近づきましょう。」
「頼む。」
そのときであった。ついに海風を破って、銃声があやめの耳に届いたのは。
「始まりました。」
あやめに着いていてくれるのは、僧兵くずれらしい僧形の大男であった。ご坊、とあやめは呼んでいる。こうした稼業の者だから、最初に「ご坊、なんとお呼びすれば」と尋ねかけると、ではそうお呼びください、と簡単にいったのである。
「ご坊、あれは東か。」
「左様ですな。手薄な東の関をまずわが手に収める。松前に蓋をしてしまわれるのでしょう。」
(時間稼ぎがその分、できる。おやかたさまにすぐに戻られないためだ。)
ほどなくして、喊声のようなものが別の方角でもあがった。銃声はあきらかである。
「西?」
「手早し。もう秋田の兵に、我が兵が襲いかかったとみえる。」
「十四郎さまは?」
「直進。大舘を攻められる。その御準備でござろう。」
「大舘を……!」
(皆さまにご加護を……)
あやめは、自分に係る敵味方のあらゆる人々の無事を祈った。なにに祈願すればよいかはわからぬ。あやめが最も愛着するといっていい松前のあの法源寺は禅寺だったのを思いだして、釈迦仏を唱えたが、それだけでは足りない気がした。闇雲な祈りに相応しい神仏の名も思いつかない。
(蝦夷島そのものが神ならば、……)
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