えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
166 / 210

七の段 死闘   征旅(一)

しおりを挟む

「どうしてもいかれますか?」
 小春はあやめに尋ねた。
「どうしても、とは?」
 あやめの無表情は変わらず、声はやや冷たい。主人が決めて差配を命じたことに、異を唱えるのか、というのであろ う。
「ご無礼をいたしました。」
(嫌われているのかな?)
 元おセンと名乗っていた小春はすこし悲しい思いがしたが、以前のあやめはそういう風ではなかったし、この自分を頼んで、新三郎への最後の言付けをひそかに命じたりもしたのを思い出した。
(いまは、やむをえないのだ。おかしらに急に去られ、いきなりあたしがコハルだといってお店にやって来た。いまはたてつづけの別れがつらいばかりだろうし、あたしにも馴染めまい。)
(それよりも、なによりも、気がたかぶっておられる。)
 あやめはみるからに緊張している。そうであろう。戦が始まりつつある。
 そしてあやめは、その松前までこれから船を出そうというのである。
(どうあろうと、お止めしないと。)
(おかしらに、あたしが叱られちまうよ。)
「御寮人さま、いうまでもないと存じましたが、……」
「うむ、ない。」
「……が、申し上げます。戦でございますぞ。お命があぶのうございます。」
「いうた。湊の手前で船を泊めて、様子をうかがうだけ。」
 戦場をみる、というのだ。一部始終が片付くまで松前の湊の外にいて、お味方勝利となれば、町に入るのだろう。
(なにを見物したいというのか。このひとは、そんなあほうではないが?)
「ご覧になるだけではすみませぬ。今井はいまや松前お代官の敵方でございます。」
 そういわれて、あやめの表情に暗い影がさしたが、すぐにそれを打ち消すように、
「そちも知っておろうが、海の上で咎められて、捕まりはせぬよ。」
 十四郎の策が当たれば、であろうが、それは小春にもわかる。
「それでも、沖まで戦場でございます。戦というのは何が起こるかわからぬ。じゃからこそ、やるものだ。」
「じゃからこそ、」と、あやめは皮肉のつもりか、小春の言葉を真似するようにいった。「行かねばならぬわ。いざというときには、ご宰領さまをお救いせねばならぬ。」
 あやめが出そうとしているのは、蝦夷島で納屋がもっているもう一隻の大船であった。軍船ではないが、小筒くらいは備えられる。これにいくらかの兵を乗せ、湊の手前で待機していようというのである。
「御寮人さまらしからぬ。いざというとき、といわれましたが、もしご宰領さまの策が破れてしまっていれば、一隻のお船でお救いするどころではありませぬ。」
「……」
 あやめは黙っているが、わかっておるわ、といいたいのであろう。それを承知のうえで、小春はいいつのる。
「それに、戦場で何をご覧あそばしますか。見なくてよいものばかりでございます。」
「であろうな。」
「御寮人さまはよくご存じありますまいが、あたしのような者がいうのでございますよ。」
「小春は、戦場勤めが長いのかえ?」
 あやめは小春に、皮肉な視線を向ける。納屋の店の者の姿だが、みるからに柔らかく、隠していても女の色が滲み出て匂いがたつようだ。女の目には、それがわかる。コハルにせよ鈴木十三にせよ、常ならぬ戦闘者の気配があやめにすらわかったが、
(この女は、その手の才は持たぬのではないか。)
「……あたしの戦場は、たしかに閨でございましたがね。」
 あやめの顔色が変わった。
 この女と新三郎の肉体を共有した、というのには実は抑えつけようもない不快感があったが、この者にはそれが(間接的には自分が命じた)仕事だったとなんとか納得し、忘れようとしていたのだ。それを当人の口から思い起こさせられ、恥に似た気持ちに躰が熱くなる。
(なにか、この女の前で裸にされたような厭な気分よ。)
(お方さまにも、津軽どのにも、ちっともそんなものを感じなかったのだが……。)
(いや、だいたいが、こやつらは覗きばかりしよって……!)
「まあ、布団の上で何人かひとを殺めたりはいたしましたよ。」
 小春も腹をたてているのだろう、しずかな声になる。
「ふん、男を殺したと。それは、変な意味ではなくかえ?」
「珍しく、お品のないおっしゃりようですな。」
 あやめは痛いところをつかれ、ますます不快になった。
「わたくしとて、似たような真似はしたが?」
(あっ、いわぬでいいことを……!)
 たちまち後悔し、与平さん、すまぬ、と胸の中で手をあわせて詫びた。
「……ああ、あれは、なかなかお見事でございましたな。」
「おぬしっ!」
 あやめは怒りで刹那、目の前が暗くなった。小春はその様子には構わず、平然と、
「あたしも二度、いや、三度だったか、相手の舌を噛みきってやりましたよ。別のところも噛みちぎってやったこともあるが……」
「……。」
「それより御寮人さま、あたしは、戦で親を無くしたらしくてね。戦場らしい村で一人取り残されて、泣いておりましたのが、一等古い思い出だ。横にあったのは、母親の死骸でしたかね、それもよく覚えておりませぬ。あたり一面、死骸だらけでございましたね。親の顔はおろか、自分の名前すらも忘れてしまっていたあたしだったが、あのときの戦場の、ひどい匂いだけは、一度も忘れていませんよ。思うに、あれは織田さまの一向一揆征伐らしい。」
「……だから、自分はよく知っているというのだな。……左様であろう。だが、そう威張るでないわ。」
「威張ってなどおりませぬよ。」
 小春は薄く笑った。どうもご主人を怒らせてしまったな、と気づいているが、別に媚びてとりつくろうまでもないだろう、と腹をくくっている。どうせもともとは、この稼業自体から、足を洗うつもりだったのだ。
「恥じゃと思うてるで。忘れたいと思うたで。あやめさんと同じ。」
「……!」
 あやめは小春の口調ががらりと変わったのに驚いた。
(無礼な。主人の名を呼ぶとは? あやめさん、とはなにか?)
「むごい目に遭わされたのは、自慢できる話とちがうわ。思い出したくもない。あんたもそうじゃろう? 地獄みたいな思い出を誇ったりはできませんわ、ねえ? いくら、いまはお好きなひとだからというて、無理無体をされたときの怖さ、つらさ、恥しさは消えてくれへん。」
「お、お前……?」
 小春は、親しい友人が、忠言だと思うものを相手にまくしたてる口調になっている。
「それを忘れるのに一所懸命。自慢するどころやない。まあ、あやめさんは、よう我慢しておいでよ。えらいわ。されど、それ以上に無理をすることは、あらへんよ。なにも戦場まで引き受けぬでも、ええんと違うか? じぶんが起こした戦だからと、落とし前をつけたいのか? それは、わかるわ。はい、はい、ご立派なこと。」
「お前っ。お前、なんじゃ?」
 あやめはあまりのことに動転している。いくらコハルの手の者とはいえ、いや、コハルにすら、こうした言葉遣いをされた覚えはない。
「あやめさん。でも、それはやりすぎ。そんなことまで、誰もせんでええ。ご宰領さまが聞いたら、お止めになります。おやかたさまかて、そうでしょう。ねえ、ご心配をおかけしてええの?」
 しかも、男の名前を二人も出された。あやめは激昂する。
「なんじゃ、その言いざまはっ?」
「……と、堺のおみお様あたりなら、仰るでしょうな。」
 小春は平然としている。先ほどの早口の時とは、声の高さも色も心なしか違う。
「……おみお様?」
 いわれた内容の無礼は変わらぬが、そういえばこれもこの女の藝だった、と思いだしたあやめだった。だが、真似して見せたらしい人名に心当たりがない。
「名前は出鱈目でございますが、堺でのお友達ならば、きっとこんな風にいってくださるでしょうよ。それにしては、少しお品が足りなかったでしょうか。ただ、いかにもご心配は違いございますまい。きっと、ほんとうの堺のお友達も」
「……なにをいいおる。そんなもの、おらんわ。」
「は?」
 小春はあやめの顔をみた。思いもせぬことをいわれたと、ほんとうに訝し気にみえる。
「……おなじ娘ごのお遊び相手くらい、堺にいらっしゃったでしょう?」
「おらなんだよ。」そんなもの、と首を振った。あやめがいったのは、別に嘘でも皮肉でも開き直りでもないようだ。むしろ、きょとんとした表情だ。
「今井さまといえど、さすがに町の衆。子ども同士でお遊びで、長じても幼馴染がいらっしゃるはず。いやお公家やお大名のお姫様とて、気安くお話する幼馴染のお友達はお持ちですが……?」
「おらぬのだ。」
 あやめはいわれてみれば気づいた、という風で、やや顔を赤らめるかのようだ。
「悪いか。」
「よくはございますまいな。」
 反射的に答えてしまい、小春はさすがにまずいと思った。案の定、あやめはすっかり意気消沈した様子だ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大江戸怪物合戦 ~禽獣人譜~

七倉イルカ
歴史・時代
文化14年(1817年)の江戸の町を恐怖に陥れた、犬神憑き、ヌエ、麒麟、死人歩き……。 事件に巻き込まれた、若い町医の戸田研水は、師である杉田玄白の助言を得て、事件解決へと協力することになるが……。 以前、途中で断念した物語です。 話はできているので、今度こそ最終話までできれば… もしかして、ジャンルはSFが正しいのかも?

蜈蚣切(むかできり) 史上最強の武将にして最強の妖魔ハンターである俺が語るぜ!

冨井春義
歴史・時代
俺の名は藤太(とうた)。史上最強の武将にして、史上最強の妖魔ハンターだ。 言っておくが俺は歴史上実在した人物だ。平将門討伐の武功をたて、数々の鬼や妖怪を退治して民衆を救ったスーパーヒーローでありながら、現代(いま)の世の中で知名度がイマイチなことに憤慨した俺は、この冨井とかいう男に憑依して、お前らに俺の偉業を語ることにしたぞ!特に全国の佐藤という苗字の奴は必ず読め!なにしろ俺はお前らの祖だからな。それ以外の奴らも読め。そして俺の名を天下に知らしめろ!

陣借り狙撃やくざ無情譚(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)猟師として生きている栄助。ありきたりな日常がいつまでも続くと思っていた。  だが、陣借り無宿というやくざ者たちの出入り――戦に、陣借りする一種の傭兵に従兄弟に誘われる。 その後、栄助は陣借り無宿のひとりとして従兄弟に付き従う。たどりついた宿場で陣借り無宿としての働き、その魔力に栄助は魅入られる。

【実話】友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
青春
とあるオッサンの青春実話です

逆説の本能寺『変は信長の自作自演であった』魔王信長と救世主イエス、その運命の類似と戦国乱世終結の謎

枢木卿弼
歴史・時代
本能寺の変は、宣教師からイエス・キリストの奇跡を知った織田信長が、戦国乱世終結の為に自らの命を天に捧げた『自作自演』の計画であった! 明智光秀が、計画協力者=ユダとなりて、信長による『エヴァンゲリオン(福音書)計画』を発動す! ……そして遂に信長は、『聖書』最大のミステリー、預言書『ヨハネの黙示録』の暗号《666》の謎に迫ります。 ※本作は論説と参考文献、そしてそのイメージ・世界観を小説で描く、ハイブリッド作品です。 ※小説部分は、歴史があまり興味ない方でも読んで頂けるよう、若干ギャグティストの部分もありますので、ご了承ください。

扇屋あやかし活劇

桜こう
歴史・時代
江戸、本所深川。 奉公先を探していた少女すずめは、扇を商う扇屋へたどり着く。 そこで出会う、粗野で横柄な店の主人夢一と、少し不思議なふたりの娘、ましろとはちみつ。 すずめは女中として扇屋で暮らしはじめるが、それは摩訶不思議な扇──霊扇とあやかしを巡る大活劇のはじまりでもあった。 霊扇を描く絵師と、それを操る扇士たちの活躍と人情を描く、笑いと涙の大江戸物語。

華麗なるブルゴーニュ家とハプスブルグ家の歴史絵巻~ 「我らが姫君」マリー姫と「中世最後の騎士」マクシミリアン1世のかくも美しい愛の物語

伽羅かおる
歴史・時代
 15世紀欧州随一の富を誇ったブルゴーニュ家の「我らが美しき姫君 マリー・ド・ブルゴーニュ」とハプスブルグ家「中世最後の騎士 マクシミリアン1世」の悲しくも美しい愛の物語を、そしてその2人の側にいた2人の姫アリシアとセシリアの視点から、史実に基づき描いていく歴史小説です。  もともとマリーとマクシミリアンの曽祖父はポルトガルのジョアン1世で、この2人も再従兄弟(はとこ)同士、マリーの父方のお祖母様と、マクシミリアンの母方のお祖父様は兄と妹という関係だったのです。当時のヨーロッパではカトリック同士でしか婚姻を結べないのはもちろんのこと、貴族や王家の結婚は親同士が決める政略結婚ですから、親戚筋同士の結婚になることが多いのです。  そしてこの物語のもう一つの話になる主人公の2人の姫もやはり、アリシアはイングランド王ヨーク家の親族であり、またセシリアの方はマリーとマクシミリアンの曽祖父に当たるジョアン1世の妻であるイングランド王室ランカスター家出身のフィリパ(マリーの父方のお祖母様と、マクシミリアンの母方のお祖父様の母にあたる人)の父であるジョン・オブ・ゴーントの血を引いています。  またヨーク家とランカスター家とはかの有名な《薔薇戦争》の両家になります。  少し複雑なので、この話はおいおい本編において、詳しく説明させていただきますが、この4人はどこかしらで親戚筋に当たる関係だったのです。そしてマリーやマクシミリアンにとって大切な役割を果たしていたマリーの義母マーガレット・オブ・ヨークも決して忘れてはいけない存在です。  ブルゴーニュ家とハプスブルグ家というヨーロッパでも超名門王家の複雑な血筋が絡み合う、華麗なる中世のヨーロッパの姫物語の世界を覗いてみたい方必見です!  読者の皆さんにとって、中世の西洋史を深く知る助けのひとつになることを祈ります! そしてこの時代のヨーロッパの歴史の面白さをお伝えできればこれほど嬉しいことはありません!  こちらがこの小説の主な参考文献になります。 「Maria von Burgund」 Carl Vossen 著 「Marie de Bourgogne」 Georges-Henri Dumonto著 独語と仏語の文献を駆使して、今までにないマリーとマクシミリアンの世界をお届け致します!

三国志外伝 張政と姫氏王

敲達咖哪
歴史・時代
 景初二年、司馬懿が公孫淵を下し、海東四郡は魏王朝の領する所となった。帯方郡の下級役人である張政は、思わぬ機会を得て、倭人の盟主姫氏王の使者を連れ京師洛陽へ上る。旅は洛陽から帯方に還り、帯方から大海へ出て邪馬臺国へと巡る。  文明と素朴のはざまを生きた辺境の官吏張政の生涯と、その歩みに大きく影響を与えた倭人たちの活動を描く。

処理中です...