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六の段 わかれ 前夜(二)
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困ってしまったようなあやめの姿を眺めながら、コハルは、つくづく不思議なおひとだ、と感に堪えた。
こんなことで小首をかしげて思案しているさまは、小娘そのものだ。箱館納屋の主人としては勿論、大店の御寮人というだけでも、齢よりもはるかに幼稚で頼りないともいえる。ところが、その黒髪の頭の中から人並み外れた考えが飛び出すのである。
この短期間に、あやめはこの箱館を蝦夷島全体の都にする構想を練り上げていた。
国守の官位という権威だけあって、財政的になんの裏付けもない箱館は、いまはなにをやろうとしても、単に新三郎に対する不平党の寄せ集めに過ぎない。だが、蝦夷地と蠣崎の和人領とが南北で連合する形ができれば、やがて蝦夷島と天下の間の交易は箱館の湊に集中する。
とりあえずは、させるのだ。鮭や昆布、それに砂金、さらに鰊といった物品は、まずは箱館に集荷する規則を作る。そこで市を立て、値が定まれば、それらの品は天下に運ばれるであろう。この中央市場と有機的に蝦夷島中の湊みなとがつながり、内陸の流通のみならず、大陸との交易も連結することになる。天下と北の大地をむすぶ商業圏が、蝦夷島を軸に出現するのである。
それらからあがる莫大な運上金が、箱館の新しい「政府」の財源になるだろう。これで海路に加えて内陸にまともな道を開き、蝦夷島中の交通を整備できたならば、この広大な島ははじめて一体化するといえる。その道にはときに軍が行き来することもあるだろうが、やがて太平とともに、ひとと物品が行き来し、繁栄が隅々に及ぶはずなのだ。
新三郎の言葉を勿論思い出すが、あやめはやはり、いまでいう経済活動が人を幸せにできるものだと信じていた。(驚くべきことに、あやめにはすでに農耕の試行を考えていた形跡すらある。この時期の全国的な米の品種の転換や野菜栽培の可能性を調べはじめていたのである。もっとも、早々に断念したらしいが……)
当座、自分たちが食っていくために何の機能ももたない箱館政庁にとって、あやめの箱館納屋が勘定方、さらにいえばのちの大蔵省や通産省の役割も果たしているし、これからも果たすのであった。細部にわたる計算を、松前との戦がはじまってもいないこの時期に、あやめはもうあらかた立て、徳兵衛などに準備を命じていた。
あやめの構想の基本は和人と蝦夷の融和だから、そこまでは箱館に拠った蠣崎家の人びとにも理解―とはいえないものだったろうが、反対はない程度には―できたが、それよりさらに詰めたところでは、志摩守はおろか十四郎すら、あやめの考えを追えるものではないだろう、とコハルは思っている。お武家であれば、かろうじて関白秀吉や、その優秀な官僚たちだけが、天下を規模に似たような計画をはじめているだけに、蝦夷島でのあやめの考えを理解できるはずであった。
(この常ならぬ頭の持ち主を、……)と、コハルはだんだん腹立たしくすらなるのだ。(十四郎さまも新三郎も、儂ほどにも理解できず、ただ自分のおんなだとしか思っていない。このかわいらしい頭を撫で、小さなお顔を舐め、お肌をさすったりしては、可愛がって悦に入っているだけだ。それで充分だと思っている。)
「……どうした、コハル?」
コハルが自分の顔をじっと見つめだしたので、あやめは訝しい。
(それどころか、このお人ご自身までもが、それでいいと思っていらっしゃる。蝦夷島どころか天下を左右するような玄妙な考えを、蚕が糸を吐くくらいに自然に出せるくせに、一人や二人のおとこのことで悩んでいて、己はそんなものだと思いこんでいる。)
(ご自慢の、頭のなかのご帳簿とやらはどうされたのだ。色恋沙汰は別だというのか。)
(自分の描いた「図」で人が死ぬのを、狂わんばかりに気に病んでしまっている。前右大臣さまや関白さまがそんなことで悩むものか。世を変える、万人びとりのおひとに、そんな必要はないのだ。いや、悩んだとて、耐えるべきなのだ。)
(それを、この方は、なんだ。自分をなんだと思っているのだ……)
コハルは、あやめの顔を睨むようにみつめていた。
「……コハル?」
コハルははっと気づいて、うろたえる。自分の考えに囚われて会話を忘れてしまうなど、やはりこの娘とのあいだにしかないことだ。
「御寮人さま、おとこなんぞにご自分を安く売られてはなりませぬよ。」
「なんじゃ、いきなり、わけのわからぬ?」
「御寮人さまほどのおひとであれば、おとこなんて三人いても四人いてもかまわぬのです。大旦那様をお見習いなさい。」
「コハル? 無茶をいう。……慰めてくれようというのは、わかるが……」
あやめは早合点して、また目を潤ませてしまう。
「慰めてなんぞ、いるものですか。いうた通りを、思ったまでのこと。」
コハルは怒った声を出した。
「また、めそめそと。なんで大人になられてから、そんなに泣きべそかかれるようになられましたか。十四郎さまや、お屋形が悪いわ。コハルは、昔から、そんな末の御寮人さまをお慰めなんかしませんでしたな? 放っておいた。それでこっそりひとりで泣かれて、ひとまえでは我慢された。子どもの頃の方がご立派では、いけませぬな。」
「せんにいったではないか、コハル。コハルの前だから……」
「心配でならん。」コハルの目からも涙が噴き出した。「儂がいなくなってしまったらと思うと、心配でならん。」
「コハル? どうした? いなくなってしまうだなどと、いわないでおくれ。」
コハルは涙の溢れる目を固くつぶって、黙り込んでしまった。あやめはおろおろしている。コハルのなかで、目まぐるしく考えが動き、形をとっている。
コハルは唐突に、決心を固めた。いまが頃合いだったか、と思い定めた。
こんなことで小首をかしげて思案しているさまは、小娘そのものだ。箱館納屋の主人としては勿論、大店の御寮人というだけでも、齢よりもはるかに幼稚で頼りないともいえる。ところが、その黒髪の頭の中から人並み外れた考えが飛び出すのである。
この短期間に、あやめはこの箱館を蝦夷島全体の都にする構想を練り上げていた。
国守の官位という権威だけあって、財政的になんの裏付けもない箱館は、いまはなにをやろうとしても、単に新三郎に対する不平党の寄せ集めに過ぎない。だが、蝦夷地と蠣崎の和人領とが南北で連合する形ができれば、やがて蝦夷島と天下の間の交易は箱館の湊に集中する。
とりあえずは、させるのだ。鮭や昆布、それに砂金、さらに鰊といった物品は、まずは箱館に集荷する規則を作る。そこで市を立て、値が定まれば、それらの品は天下に運ばれるであろう。この中央市場と有機的に蝦夷島中の湊みなとがつながり、内陸の流通のみならず、大陸との交易も連結することになる。天下と北の大地をむすぶ商業圏が、蝦夷島を軸に出現するのである。
それらからあがる莫大な運上金が、箱館の新しい「政府」の財源になるだろう。これで海路に加えて内陸にまともな道を開き、蝦夷島中の交通を整備できたならば、この広大な島ははじめて一体化するといえる。その道にはときに軍が行き来することもあるだろうが、やがて太平とともに、ひとと物品が行き来し、繁栄が隅々に及ぶはずなのだ。
新三郎の言葉を勿論思い出すが、あやめはやはり、いまでいう経済活動が人を幸せにできるものだと信じていた。(驚くべきことに、あやめにはすでに農耕の試行を考えていた形跡すらある。この時期の全国的な米の品種の転換や野菜栽培の可能性を調べはじめていたのである。もっとも、早々に断念したらしいが……)
当座、自分たちが食っていくために何の機能ももたない箱館政庁にとって、あやめの箱館納屋が勘定方、さらにいえばのちの大蔵省や通産省の役割も果たしているし、これからも果たすのであった。細部にわたる計算を、松前との戦がはじまってもいないこの時期に、あやめはもうあらかた立て、徳兵衛などに準備を命じていた。
あやめの構想の基本は和人と蝦夷の融和だから、そこまでは箱館に拠った蠣崎家の人びとにも理解―とはいえないものだったろうが、反対はない程度には―できたが、それよりさらに詰めたところでは、志摩守はおろか十四郎すら、あやめの考えを追えるものではないだろう、とコハルは思っている。お武家であれば、かろうじて関白秀吉や、その優秀な官僚たちだけが、天下を規模に似たような計画をはじめているだけに、蝦夷島でのあやめの考えを理解できるはずであった。
(この常ならぬ頭の持ち主を、……)と、コハルはだんだん腹立たしくすらなるのだ。(十四郎さまも新三郎も、儂ほどにも理解できず、ただ自分のおんなだとしか思っていない。このかわいらしい頭を撫で、小さなお顔を舐め、お肌をさすったりしては、可愛がって悦に入っているだけだ。それで充分だと思っている。)
「……どうした、コハル?」
コハルが自分の顔をじっと見つめだしたので、あやめは訝しい。
(それどころか、このお人ご自身までもが、それでいいと思っていらっしゃる。蝦夷島どころか天下を左右するような玄妙な考えを、蚕が糸を吐くくらいに自然に出せるくせに、一人や二人のおとこのことで悩んでいて、己はそんなものだと思いこんでいる。)
(ご自慢の、頭のなかのご帳簿とやらはどうされたのだ。色恋沙汰は別だというのか。)
(自分の描いた「図」で人が死ぬのを、狂わんばかりに気に病んでしまっている。前右大臣さまや関白さまがそんなことで悩むものか。世を変える、万人びとりのおひとに、そんな必要はないのだ。いや、悩んだとて、耐えるべきなのだ。)
(それを、この方は、なんだ。自分をなんだと思っているのだ……)
コハルは、あやめの顔を睨むようにみつめていた。
「……コハル?」
コハルははっと気づいて、うろたえる。自分の考えに囚われて会話を忘れてしまうなど、やはりこの娘とのあいだにしかないことだ。
「御寮人さま、おとこなんぞにご自分を安く売られてはなりませぬよ。」
「なんじゃ、いきなり、わけのわからぬ?」
「御寮人さまほどのおひとであれば、おとこなんて三人いても四人いてもかまわぬのです。大旦那様をお見習いなさい。」
「コハル? 無茶をいう。……慰めてくれようというのは、わかるが……」
あやめは早合点して、また目を潤ませてしまう。
「慰めてなんぞ、いるものですか。いうた通りを、思ったまでのこと。」
コハルは怒った声を出した。
「また、めそめそと。なんで大人になられてから、そんなに泣きべそかかれるようになられましたか。十四郎さまや、お屋形が悪いわ。コハルは、昔から、そんな末の御寮人さまをお慰めなんかしませんでしたな? 放っておいた。それでこっそりひとりで泣かれて、ひとまえでは我慢された。子どもの頃の方がご立派では、いけませぬな。」
「せんにいったではないか、コハル。コハルの前だから……」
「心配でならん。」コハルの目からも涙が噴き出した。「儂がいなくなってしまったらと思うと、心配でならん。」
「コハル? どうした? いなくなってしまうだなどと、いわないでおくれ。」
コハルは涙の溢れる目を固くつぶって、黙り込んでしまった。あやめはおろおろしている。コハルのなかで、目まぐるしく考えが動き、形をとっている。
コハルは唐突に、決心を固めた。いまが頃合いだったか、と思い定めた。
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