えぞのあやめ

とりみ ししょう

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六の段  わかれ  名を……(三)

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……
 夜明け近くまで、女は新三郎とともに臥した。庭に降り立ち、ひとけのまだない大舘の中を歩き、衛士とは無縁の場所から、抜け出た。
(これで、おセンという名は捨てた。……)
 今まで感じたことのなかった寂寥の思いがある。
(「もし孕んでいたら、流したりせず、大舘に戻ってこい」と、いいおったわ。)
 女は寂しく笑った。夜明けの光のなかを、飛ぶように歩く。まず松前の町中の自分たちの隠れ家で装束を整え、箱館に急ぐのだ。
(さて、叱られにいくか。)
(万が一だが、殺されるかもしれぬ。)
(お別れでございますな……おやかたさま。)
(おやかたさまは、ご自分の勝利を疑っていない。)
(箱館の十四郎様の背後に、納屋がぴったりとついていることも、今夜で一層はっきりとしただろうに。それでも、戦えば勝つのは自分だとお思いだ。)

「それが過信だ。儂らの勝機がそこにある。」
「左様でしょうね。」
「だから、ご宰領さまがエサシに入られた、今こそ一刻も早く戦開きがあらねばならぬ。……お前の抜かりは、意味があった。」
 箱館に新築の納屋の店屋敷で、女はコハルに会っている。できれば先に、そして直接、御寮人さまに新三郎の言葉を伝えておきたかったが、松前大舘の中でもなければ、このおかしらの目を盗んで御寮人さまに近づくのも難しい。それほどにコハルは、あやめの側をついて離れない。いまも、隣の部屋であやめは夜具の中にいる。
「意味が、といわれると?」
「間者が、雇い主まで含めて正体を見抜かれるなど、あってはならんことだ。新三郎が逃がしてくれたのは、男の気まぐれの、偶然にすぎぬ。死ぬべきであった。」
「はい。」
「いま、儂に咎めだてられて殺されたとしても、この稼業の者として、さほどの文句はあるまい。」
「言葉もございませぬ。」
「……ただ、新三郎はこれで確実に動くだろう。安東家からの命はすでに出たらしい。今日明日にも、箱館政庁の蠣崎家の方々を、安東家家中の謀反人として追捕する兵を出す。しかも、もう必ず自分で出てくる。納屋がついているとなれば、とるにたらぬ箱館の家中に十四郎さまのアイノ兵がついているだけの兵とて、さほどは侮れぬと思い直す。」
「たしかに、陣頭に立たれるとは決めておられなかった。」
「うまく吊りだした。御寮人さまと十四郎さまの『図』は、これで成る。」
 コハルは、やや満足げな色をにじませた。
(御寮人さまの「図」か。)
(おかしらは、今も、そういいたいのだろうが、……)
(御寮人さまは、もう、「図」は最後まではいいのだとお思いなのではないか。)
(十四郎さまはどうなのだ?)
「御寮人さまは、お休みでございますか。」
 コハルは頷いた。
「では、……おかしらに言付け申し上げます。どうか、お伝えください。」
「新三郎がお前に言付けたのだな。」
 女は、「おセン」として聞いた話をそのまま伝えた。むろん、その後、新三郎と、女のつもりでは愛しあったとしかいいようのない時間があったことまではいわない。
「新三郎がおぬしを逃がした理由が知れたわ。」
「ご伝言を望まれたのでしょう。やさしいお言葉だ。」
「……新三郎に抱かれたな。」
「は……?」
 当たり前ではないか。そうやって、最も身近で新三郎の動きを探っていたのだ。
「そういう意味ではない。こんな言付けを受けたあと、お前、落ちたな。」
「……!」
「裏切ったとまではいわぬ。寝ろ、と儂が命じて、お前はおやかたと寝た。その続きだが、続きではないな。お前の意志で、新三郎に抱かれた。」
「なぜ、おわかりになった?」
「何年、お前を使っていると思うか。……なんということだ、お前まで。」
 コハルは瞠目する。
「蝦夷島では、この稼業の者としては、ろくなことがなかった。手練れの者どもが、次々と人間になり下がりよる。」
「なり下がると申されましても。」
「もう、お前は同じ仕事はできぬ。」
「……。」
「それでもいい、それがいい、という顔をしよって。」
 コハルは優しい顔になった。
 
 戦場で拾った幼女の頃から、特殊な才質を見出して、便利に使ってきた。自分というものがないから誰にでもなれる、おそろしい間者になった。性愛も役者として演じつづけた。胤をうけて孕んでしまい、殺したり調略したりした相手の子を堕ろす羽目になったことも何度かあったが、一向に動じなかった。そのように、この稼業の者として自分を鍛えていた。
(そんなことは、しかし、もたぬ。)
(こやつが、もう際(限界)だったのだ。新三郎はきっかけにすぎぬ。)
(まだ、十年は使えると踏んでいた。才は申し分なく、器量もよい。経験もますます積む。)
(だが、こやつの容色とても永久ではない。それより先に、心が朽ちておったか。)
(このあたりが、潮時であろう。)
(これから教えたいこともあったが……)

「……おかしらさま。新三郎のおかげで、あたしは名前を取り戻した。」
(あたしは新三郎を、あのひとときだけは、心から好きだった。誰よりも愛おしいと思った。あいつも、ほんのひとときだけは、あたしを一番大切にしてくれた。抱いているときだけだが。……でも、男に抱かれて、男を抱いて、あんなにうれしかったことはない。これからもあるまい。)
「名前だと?」
「おかしらに拾われて、能があることがわかったときに、あたしは決まった名前を忘れるようにいわれたんだね。」
「ああ、お前のように様々に化ける奴には、その時々の名前でよいのだ。……左様か。知れたぞ。」
「おかしいよ。いまわのきわにあげられて、頭が真っ白くなったときに、母さんのあたしを呼んでいた声が聞こえたんだよ。それが、また、おかしいよ。」
「なんだったかな。」
 実は、おぼえている。
「小春だってさ。あたしの名は、コハル。」
「……そうだったな。不便なことだ。」
「おかしらさま。長くお世話になりました。御礼申し上げます。おかしら様に命を拾われたおかげで、この齢まで生きられた。たまに、おいしいものも食べた。いい思いもありはした。面白いことも多かった。いろいろな人の世を、この目でみちまった。……このたびの不手際でご誅殺なら、どうぞ痛くないようにしてくださいませ。もしお許しくださいましたら、このまま消え去りまする。」
 小春という、生まれたときに与えられた名になった女は、深々と低頭した。
「小春。」
「えっ。」
「まだ、放してやらぬ。しばらく、見届けよ。儂らの仕事の始末がどうつくかまで、みたくはないか。」
「それはそうだが……」
「儂も、お前と別れるのはもう少し後にしたい。頼みごとができるやもしれぬ。待ってくれぬか、小春。」
「おかしらさま……?」
小春は、聞いたことのない口調に、たじろぐような気持になる。
(頼みごと、だと?)


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