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六の段 わかれ 名を……(一)
しおりを挟む「あやめ……」
精を漏らすとき、汗ばんだ女の白い肩を掴んで抑えつけるようにしながら、新三郎はつぶやいた。目を閉じた赤い闇の中から、女にそれが聴こえる。
(あっ、にくい(ひどい)っ。)
そう反射的に思ってしまった。
その自分の気持ちが、元台所女に扮していた、この女にはわからない。わからぬまま、自分の躰のなかに飛沫を受けとめ、男の腰にからめた足を一層きつく巻いた。男の重い身体を弾ませるような勢いで、腰を何度か持ち上げた。
放ち終わった男が、やがて自分の躰から離れるときに、また考えている。
まださほどの齢でもないくせに、常人の何倍分もの人生を生きた。そのせいで、性に関しても手練れの遊女のようなこの女―大舘ではおセンと名乗っていたから、ここでもそう呼ぼう―は、もちろん閨ではいつも頭の大半が冴えている。どんな一瞬も我を喪ったりは絶対にしないし、できない。男の閨の手練手管など、むろん、なんということもないのであった。
その時々の相手によって、それこそ妖艶な遊女から無垢な田舎娘まで、態度や所作や躰の反応に至るまで、男の望むとおりにそれらしく演じてやる。宮中の女官から武家女、商家の後家、物売り、農婦、尼、有徳人の妾、遊芸人、乞食女……と、この女が扮装してきた顔は自分でも覚えきれない。そして男どもは、それらを意のままにかき抱いているつもりで、自分の身が無防備にさらけ出されているのに気づかない。
実際のところ、荒事には向かないこの女―おセンとて、閨でひとを殺したことも何度もあるのだ。なんという名の武将であったか、躰の中に精を漏らされるその刹那、猪首を長い針で刺し抜いてやったこともある。快感のただなかで、男は極楽に行ったであろう。肉の一部を噛みきられて、悶え苦しんで死ぬ男に、いい気味だ、とうそぶいたときもある。
そんなおセンだから、新三郎の閨の技に、惑乱の限りに落とされることなどはなかった。たしかに、新三郎の体力と心憎いまでの巧妙な愛撫に意識せずに息をはずまされるときすらあり、
(これでは、あのうぶな御寮人さまなどは、たまるまい……)
と、経験の乏しかったあやめの身がときに案じられたりはした。
だが、なにをされたからといって、あやめの気持ちがそれで動いたわけでもないのだろうとは思った。女はそうしたものだ、と自分に引きつけて考えている。肉欲などだけで、損得勘定を忘れるようにはできていない。
(蠣崎新三郎の、さびしさよ。)
おやかたさまであり、たくさんの家来を従えながら、新三郎が深い孤独の中にあるのは、孤高を甘く気取る男たちを大勢相手にしてきたこの女には、すぐに知れた。
(むしろ、この男のさびしさこそが、育ちのよい、人のよすぎるあの女ごの心を乱したのであろうな。)
いま、汗をかいた男の身体を拭いてやりながら、ふと思った。そして、自分自身もそんな風に思うのは、と気づいて内心で苦笑いする。
(こんなことでも、繰り返しているうちに、たしかに情が移ることはある。)
(まあ、そんな相手でも、あたしは平気で裏切ったり、殺してやったりできるのだが。)
新三郎は一度では終わらない。おセンは黙っている新三郎に添い寝した。肩に柔らかく手がかかり、引き寄せられる。
「聴こえたか?」
新三郎のほうから尋ねてきた。
「はい。」
「気にするな。勘違いした。この部屋のせいだ。」
もと堺の方にあてがわれていた部屋を、自然におセンが引き継ぐ形になってしまった。
「……むごいではございませぬか。」
ふと、いってしまう。無口な田舎女のはずの「おセン」にしてはおかしいのかもしれないと気づきながらも、やめられない。
「堺の方さまでございましたか。……おセンではなく、あのお方をお可愛がりのおつもりでしたのか。」
「……」
新三郎は考え込むように、黙り込んだ。肩を抱く力がやや強まったのが、おセンには気になった。
「仕方がございませぬ。とはいえ、お情けが薄うございませぬか……」
消え入るような、悲しげな声が出る。
我ながら、真に迫っている……とは思わない。おセンは、敦賀あたりから流れてきた、薄倖のその名の女になりきっている。
北の地の武家の館に奴婢同然の使用人として迷い込み、思わぬことで主人に手をつけられたおかげで、ようやく苦労のない暮らしにありついた。その男にすがるように生きていくしかない女。頼るべきたったひとりの男に躰を開き、奉仕することに生き甲斐を見出している、けなげな女。男に可愛がられることしか考えない、そんな殊勝な側妾からふと漏れた、切ない不安の声。……
だが、新三郎が静かに呟いたのを聞いて、我に返った。
「お前、今井の手の者か。」
顔色が変わったりはしない。きょとんとした表情になる。
(音で見破られたか? しかしもとは敦賀の出なら、この程度でよいはず。)
「おセンのような者が、なぜ堺の生まれ名を知っているかな。」
「へ?……あ、ああ。」何をいわれたがようやくわかった、とばかりにおセンはふるふると首をふった。「ご無礼お許しを。ここは堺のお方さまのお部屋。おやかたさまが、お部屋のせいだ、とおっしゃったので……」
「それで、すぐに悟ったか。」
「……はい。」
「おセンはかしこいの。」
「……」
新三郎の腕は、おセンをがっちりと抑え込むようになった。身動きがとれない。
「もうよい。気づいてしまった。うまく取り繕っても無駄だ。」
「……」
「お前の声に、おぼえがある。あやめに似ている。そうか、あやめの声色を使ったのは、お前だったのか。」
「……」
「無口なおセンに戻りよったか。」
新三郎は笑った。
「おそれいります。」
「あやめが、おれを探らせているのか?」
「……」
「そうであっても、もはや当然であろう。腹もたたぬ。腹がたつのは、おセン、お前じゃ。よくも騙してくれた。お前のポツポツと語った身の上、儂は哀れに思ったのだ。」
「おそれいり……」
おセンは悲鳴をあげた。新三郎は、おセンの茂みに手を伸ばすと、恥毛の何本かをまとめて毟りぬいたのだ。
「……これは、その罰よ。痛かったであろう?」
「はい。」
「これで済ましてやる。立ち去るがよい。」
(なんだと?)
「ただ、ひとつだけ命じておく。最後に、おセンとして聴け。思わぬよい機会だから、あやめを戒めておきたい。」
「……うけたまわります。」
「うむ。戻り、伝えよ。あやめ、自害はしてはならぬ、と。この先なにがどうなろうと、自害などは、けして考えるな。たとえその身が追いつめられても、あきらめてはならぬぞ。儂が必ず助けてやる。また、弟がもし死のうとも、後を追って死ぬなどとは許さぬ。弟も望むまい。なににせよ、自害など、そんなところで、武家女の真似をせずともよい。」
(この男も、まことに御寮人さまを大切に思っておるわ。)
「……覚えたな?」
「はい。必ずお伝えいたしまする。」
新三郎は半ばひしいでいたおセンの裸の身体を離した。おセンは離れない。
「どうした? もう行ってもいいぞ。」
「……」
「まだお前に仕事があるのか? 断っておくが、寝首はもう掻けぬぞ。」
「おやかたさま……」
はじめて正体を見破られたという衝撃で、自分は混乱しているのだ、とおセンは思おうとする。これ幸いと機敏に立ち去るべきなのに、その気にどうしてもならぬのはそのせいだ、仕事で敗けた口惜しさのせいだ、と自分にいいきかせる。
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