えぞのあやめ

とりみ ししょう

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六の段 わかれ  ヨイチの幻滅(二)

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 蝦夷商人でヨイチの長ともいえる八郎右衛門は、あやめが気に入ったらしい。再会をひどく喜んでくれた。
 あやめは、八郎右衛門に最初に会うまでは、このアイノの有徳者(富商)こそが、十四郎と自分の縁をとりもってくれたともいえる、エコリアチという老アイノではないかと思っていた。だが八郎右衛門のアイノ名も違い、なによりもあやめの記憶にある顔とも違う。
 かといって、前の滞在では、八郎右衛門に自分の思い出を語る暇などなかったし、その後は大変なことになったので、結局、エコリアチのことを尋ねることもないままであった。
 十四郎とてそうであっただろう。あやめが立ち去った後、唐子の八郎右衛門たち蝦夷商人やアシリレラの一家などを支えに、蠣崎十四郎愛広の武が発揮されていったのだ。八郎右衛門と十四郎が膝を突き合わせるとすれば、政治向きの生臭い話をするほかには暇がなかったはずである。
 いまも、八郎右衛門は戦のために蝦夷船をかき集めてくれるのに忙しい。
(わたくしばかりが、暇だな。松前に来る前を思い出す。)
 あやめはヨイチの湊と、それに連なる、和人とアイノの色が混じった家並みを何の用もなく歩くが、散歩という概念はないので、すぐに飽きてしまった。
 拙いアイノの言葉をつかって、手の空いたときの八郎右衛門と喋る機会が増えた。かれも喜んでくれているのが、救いだった。
「ゴリョウニンサマは、オンゾウシと(八郎右衛門は、あやめには相変わらずこんな風に呼ぶ。)どうやって知り合ったのか。たれか間に立ってくれたのか。」
 そう聞かれて、エコリアチのことを思い出した。
「エコリアチなら、知っているよ。」
 八郎右衛門はあっさりといった。それは予期できないことではないが、あやめには意外だった。
(十四郎さまも、薄情な。なぜ教えてくれない?会わせてくれていてもよかったのに。)
(あのお方は、肝心なことに限って、わたくしに何も教えてくれぬのではないか?)
(……まあ、遠く離れていたのだし、いまもお忙しいのだ。)
「会われますか。呼びましょう。」
「是非……!」
 あやめは目が潤んでくるのを感じた。頬が赤らむ。
(小さかったわたくしを、サカイでみつけてくださって、ありがとうございます。)
(あなたに巡り合えたおかげで、わたくしはここにおります。)
(あなた様からいただいた白磁の盃は、お守りのように大事にいたしております。あれを十四郎さまの手を介していただいた日から、わたくしの幸せがはじまりました。)
(得難い宝を、この蝦夷島で見つけることができました。)
(くるしい日も、楽しい日もありました。これからもなにが起こるかわかりません。おそろしいばかりです。でも、わたくしの人生はこの蝦夷島にあります。)
(わたくしに人生を与えてくださって、まことにありがとうございます。)
 和人の言葉がわからない人だと聞いたので―そうであった、たしかに堺でもそうであった、とあやめは思った。―アイノの言葉で言いたいことを準備する。
(そうだ、亡くなったという娘さんのお悔やみも、今になっていった方がいいのだろうか?)

 エコリアチの来訪は間に合った。八郎右衛門の屋敷に、むかし船に乗っていて、京や堺にも来たことがあるというアイノの白髪の老人がやってきた。
 あやめは訝しい思いに囚われた。記憶の底を探っても、この顔が浮かばない。背の高さも違う気がする。
(背は、わたくしが伸びたからだ。十年、いや十五年だ。老けられる。面がわりもされる。だが、この方は……?)
 エコリアチのほうも、当惑が顔に出ている。かれも最初は笑み崩れるようにして部屋に入ってきたというのに、記憶のなかの小さい女の子が成人してここにいるとは、どうしても思えないのだろう。
「エコリアチさま、でございますね。御曹司さまに、お土産をわたしてくださいましたね?」
「そうです。オンゾウシは私の友だちです。あれは何年前になるか。」
「サカイにお越しになったことがおありですね? いつのことでしょう?」
 問いただすようになってしまう。
「失礼しました。わたくしは、納屋のあやめと申します。今井の家のあやめです。十五年も前になります。あなた様が、納屋を訪れて、わたくしと短い時間ですが、お話になった。」
「ナヤ?」
「わが父の店でございます。」
「ナヤ。お店の名は、思い出せないが、広い土間があった。奥に、唐風の家具がござったな。」
 堺の大店は、たいていそうである。あやめは腋の下に汗が流れるのをおぼえた。
「その土間の片隅に、小さい女の子が座っていた。」
「算盤の真似をしておりました。」
「ソロバン?」
「こう、玉を弾いて、ものを数える道具で、遊んでおりましたのを、ご覧になって……」
「それは、思い出せませぬ。別の遊びをされていたのではありませんか?」
「左様でしょうか。」
「小さい兄上と。」
(ああっ!……もういかぬ。)
 あやめは心の中で悲鳴をあげた。
(違う、この人ではない。わたくしが会ったのは、このひとではない。)
(しかし、このエコリアチが、十四郎さまに白磁を渡してくださったひと。)
(では、如何なことになる? 如何様に考えればよい?)
「……店の名前は思い出せませんか?」自分と齢回りの近い、小さい女の子がいた大店の名を思い出せるままに並べてみる。「テンノウジヤ、トトヤ、ヒビヤ、……」
「思い出した。そのときは、唐の生薬を運んだのです。」
「小西?」
「コニシ! その名は覚えております。そのお店には、たしかに行った。」
「……エコリアチさま。航海からお戻りのあと、娘さまがお亡くなりになっていたとか。小西の娘さまが、よく似ていらしたのでしょうか。遅くなりましたが、お気の毒でございました。」
「十四年は前のことですが、思い出せました。」
「小さい兄上というのは、お店の者ではございませぬね?」
もしかすると、あの与平を兄と間違えたのかもしれぬ、と思い当たった。はかない希望にすがっているのがわかる。
「はい、思い出しました。兄上の方のお名前こそ思い出せませんが、どこか遠くの町にいかねばならぬかもしれぬ、というのを、わたくしが、男は遠くに行くものだ、とお慰めした。妹さまは、兄上との近々のお別れを嘆いておられた。」
(ああ、もう間違いない……。)
「それはお気の毒でございました。しかし、その兄上はたぶん、たいへん偉い方になられています。いつも遠くに行かれているはず。あなた様のお言葉のおかげかもしれませんね。」
 あやめはにこにこと笑ってみせた。小西弥九郎(行長)とその妹の一人だろうと、ほぼわかった。
「あなたではないような気がしてならぬのです。」
 記憶を掘り起こしつつあるエコリアチは、気の毒そうにあやめをみた。あやめは微笑んで、
「左様でございますね。わざわざ……遠くから来てくださいましたのに、人違いとは残念です。しかし、人違いではない。あなたが、御曹司さまにお土産を預けてくださったのはたしかなのだから。やっとわたくしは御礼を直接申し上げられ、うれしく存じます。」
 そういってから、あやめは気づいて慌てた。
「あなた様からいただいた白磁の盃は、お守りのように大事にいたしております。……ですが、ですが、……いただいたままでよろしいのでしょうか?」
(あれは小西の家の娘が貰うべきものではないか?)
(弥九郎さんはわかるとして、どの妹だ? どうせもうお嫁にいっているだろうし……)
(厭だ、絶対に厭だ。手放したくない! あれは十四郎さまが最初にくださったものではないか。)
エコリシチはあやめの笑顔が凍りついたのに気づいたのだろう。笑っていった。
「ご安心を。あれはオンゾウシがあなたにあげたものだ。気にされるなら、あらためて、あなたに差し上げます。」

「そういうわけで、まずは丸くおさまったのだ。」
「ようございました。残念ですが、人違い、思い違いというのは仕方がない。……御寮人さま、いかがなされました?」
 コハルは、あやめがやはり気落ちしているのはわかる。ただ、あまり思いつめられても困るのだ。うつろな表情になっているのを、みとがめた。
「のう、コハル。縁というのは何なんだろうね。」
「あなた様と十四郎様の間にはご縁がある。そこに何の間違いもございませぬ。ちょっとした思い違いで、かえってご縁が深まった。それもめでたいではありませぬか。」
「蝦夷島と、わたくしの縁だよ。」
「それも間違いがない。エコなんとやらさんではなかったが、幼い御寮人さまにご挨拶になった蝦夷商人はいたのです。」
「わたくしは、全てが繋がったご縁と思っていたのや。それは間違いじゃったの。」
「間違いではございませぬ、と。」
「……そうじゃな。お前のいうとおり。それはわかる。……」
(ああ、泣かれてしまった。)
(いや、我慢するより、泣いてしまったほうがよろしかろう。)
(ここは半分叱っておくくらいでよいわ。)
「御寮人さま。悲しがられることは何もない。なんです、近頃はなにかといえば、めそめそと。箱館納屋のあるじが、こんなことで泣かれるのですか。」
「……なにもかもが嘘のような気がしてならぬのだ。十四郎様も、お店も、大舘も、わたくしが蝦夷地に、いや、蝦夷島なんかにいることも……」
「お気の弱い。そんなことでは、十四郎さまと蝦夷島をお治めになれませぬよ。」
「……途方もないことをいうでないわ。たれが、治めるのだ。十四郎さまならともかく。」
「御寮人さまがやってこられたのは、そういうことなのですよ。あなた様は、蠣崎十四郎さまの北の方になられるのでございましょう? いわば、この蝦夷島の御所様と御台所様ではございませぬか。」
「……わたくしは、十四郎さまのお傍にいられれば、……夫婦といっても、それは堺に来ていただこうというときに……」
(なにをいっておるのだ、御寮人さま!)
 コハルはこみあげてくるものがある。
「そんなにお武家がお怖いか。いや、お怖いでしょう。あれほどむごたらしい目にあわされた。」
「それはいうなっ。……それに、お武家が怖いからというのでは」
「そのおそろしいお武家に勝たねばならぬのです。箱館納屋のご主人が、蝦夷島の太守の北の方として、この地に楽土をつくるのでございます。あなた様の『図』は、そういうものです。決して、仕返しや仇討だけではなかったはずです。それを、近ごろ忘れていらっしゃる。そちらが心配でならない。」
 コハルは知らず、激している自分に気づいた。
「……ご無礼申し上げました。こんなことをいうつもりはなかった。分際を外れました。お許しください。」
「わたくしこそ、許せ。すまぬ、気持ちが抑えられなくなる。コハルの前だと、甘えてしまう。こんな齢になっても、昔のように……いや?」
「左様。御寮人さまは、堺の頃の方が、ずっとしゃんとしておられましたよ。すましておられた。ひとまえでは、涙を我慢しておられた。」
「いまでもだよ。わたくしは、ひとまえで泣いたりはしない。お前の前くらいだ。」
「それは、よろこんでいいのやら。」
「大人になってからは、父上と、コハルと、十四郎さまと、……」泣き顔で笑って指を折るようにしていたが、そこで詰まった。「……だけだ。」
(新三郎だな。)
 コハルは、ひそかに決意を固めつつあるから、そのことはもういわない。だから、子どもにいい聞かせるように、なだめた。
「ご縁というのは、奇しきものでございますよ。その奇しさはうれしくもあれば、つらくもあるのでございましょう。」

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